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 坂本章吾はタクシーを降りて、腕時計を見た。時間は、夕方5時を指している。
 タクシーをその場に待たせたまま、彼は目の前のマンションに向かって歩き始めた。その時、横から、
「章吾」
 と呼ばれ、彼は振り向いた。
「数馬さん!」
 マンションの外壁に、数馬がバッグを持って寄りかかっていた。痩せた、どころの話ではない。骨と皮だけのような外見になって、今にも倒れそうだった。
 章吾は駆け寄って体を支え、タクシーへ数馬を乗り込ませた。
 病院の場所を告げると、タクシーはすぐに発進した。数馬の体がグラッと揺れた。車の振動にさえ耐えられないほど、弱りきっている。
 章吾は今日、数馬からの電話でここにやってきた。頼みたいことがある、と彼は言った。迎えに行くなら兄に車を出してもらおうと章吾は思った。しかし、
『憲治さんには言うな。お前だけで、タクシーを拾ってきてくれ』
 と指示された。その時点で章吾は数馬の頼みというのが、ただ病院へ送るというだけのことではないのだと察知した。
 数馬は持ってきたスポーツバッグを膝の上に置いた。坂本家に世話になった彼が帰宅する時に、章吾から借りたバッグだった。
 バッグのファスナーを開けて、数馬は中に入れていた物を、スッと章吾に渡した。
「数馬さん、これ…!」
 章吾は仰天した。
 数馬が渡してきたのは、一枚の音楽CDだった。ジュエルケースが透明の梱包袋でぴっちりと包まれている。章吾がかつて見たことのあるジャケットが、そこにあった。
「これを、夏樹に渡してくれ」
「ナッキーに?」
「ああ。もうすぐ東京へ帰ってくる。渡してくれるだけでいい」
「はい。ほな、……お預かりします」
「それを渡したら、後は夏樹の指示に従ってくれないか。憲治さんに話すも、話さないも……あいつに決めてもらってくれ」
「ボク、意味わからんのですけど……」
「わからなくていい。今はな……」
 数馬は章吾にCDを預けると、安心したようにシートに寄りかかって目を閉じた。
 章吾は数馬の膝からスポーツバッグを取ると、丁寧にその中にCDをしまいこんだ。
「[イーハトーボ]は……」
 数馬が口を開いた。目を閉じたまま、沈痛の面持ちでいる。
「閉店することになる。お前のことは、ちゃんとしてもらうように言っておく。退職金とか……いろいろ」
「ボク、待ってます。バイトでもして、数馬さんが治るの、待ってます」
「いや…、無理なんだ。今は……だから、お前はお前のやりたいことをやって欲しい。お前……ソムリエになりたいんだろ?」
「そ…そうですけど、実務経験五年……必要やし、ボク、今はバーテンダーなりたぁて、ずっと数馬さんと……」
「お前と一緒に店をやるのは、楽しい。また……二人でやりたいと思う。でも、今はダメなんだ。理由はすぐにわかる。本当に……すまない」
「……わかりました」
 章吾は頷き、そのまま下を向いて動かなかった。メッシュキャップの鍔をグッと下に引っ張り、顔を隠した。
 僅かに章吾の肩が震えていることに、数馬は気づいた。しかし、何も声を掛けなかった。声を掛ければ、決心が揺らぐような気がしたからだ。
 言葉の代わりに数馬は、そっと章吾の肩を抱いた。
 章吾は帽子で顔を隠したまま、一言も口をきかなかった。時折、指で頬の涙を拭うだけだった。

     *

 数馬が病院に戻ったと、竜児はすぐに連絡を受けた。
 非常に危険な状態であると聞き、居ても立ってもいられなくなる。しかし、撮影中のスタジオから抜け出すことはできなかった。
 午後以降ずっとニュースやワイドショーで報道されている、ロックバンドREVENGEのギタリストによる傷害事件の現場に数馬がいたのだ、ということは、この時点では竜児は聞かされていなかった。彼がこの事実を継父の飯田から聞かされたのは、数ヶ月も先のことであった。
 その日はどうしても病院へ向かうことができず、竜児は悶々とした一夜を過ごした。
 そして、次の日の夕方。何とか撮影の合間の時間を捻り出し、竜児は病院へ向かった。
 院長の計らいで、玄関とは別の通用口を使わせてもらった。通常、夜間の診療などの際に使われる補助的な出入り口だった。
 麻紀に頼んで買ってもらったフラワーアレンジメントの籠を持って、竜児は院内の階段を上った。オレンジの薔薇の花をメインに、美しく作ってある。
 花瓶があるかどうかわからなかったので、花束はやめた。これなら水を取り替える必要もなく、手間も掛からない。
 オレンジ色には食欲増進の効果がある。数馬の好きな色ではないだろうが、文句を言われるまでは、身の回りのものはオレンジ色で統一しようと竜児は決めていた。
 病室の扉に、面会謝絶の札が掛けてあった。容態が安定するまでは、家族しか会うことができない。その件について竜児は院長に尋ねたが、問題ないとのことだった。患者と共に生活しているルームメイトである。大目に見てもらえたというところだろう。
 静かに扉をノックして、竜児は病室へ足を踏み入れた。
 カーテンが閉まっている。その向こうに、竜児は小さく声を掛けた。
「石黒、俺だよ。起きてる?」
「Ja.」
 確かにヤー、と聞いた気がして、竜児はおそるおそるカーテンを開けた。
 数馬は青白い顔をして、最後に会った時と同じように横になっていた。違っていたのは、点滴のルートが腕からではなく、鎖骨下の静脈から伸びているということだ。
 目は落ち窪み、頬はこけている。血行不良のせいか、布団の上に出ている手が、薄く紫色がかって見えた。
「石黒……」
 戻ってきてくれてよかった、と竜児は心から思った。病院を抜け出したまま、どこかで倒れたらどうしようと、そればかり考えていた。
 竜児はサイドテーブルに薔薇の花の籠を置いた。ふと気がつくと、ジッポーライターと並んで、ヴェルサーチの黒いシガレットケースが置いてある。自宅のリビングで数馬が使っているものだった。去年の誕生日に、竜児がプレゼントしたものだ。
 自分はこれを紙袋に詰めた覚えはない。なぜこれがここにあるのだろう、と思った。が、しかし今は、数馬と話をするのが先だった。竜児は傍らの椅子に腰を下ろした。
「具合、どう? ちょっとはまし?」
「Sorgen Sie sich nicht. Es tut mir sehr Leid.」
「アハッ、どういう意味? 訳して聞かせて」
 数馬は黙って首を振った。笑っていない。ふざけているわけではないようだった。
「石黒? どうしたの? 何があったの?」
「Es tut mir sehr Leid...」
 悲しそうな瞳で、数馬はただ、首を横に振り続けた。
 竜児は、わけがわからなかった。親友の顔を見つめながら、手を握った。冷たく、かさついた手だった。微かに、産毛が増えたように感じた。
「ねえ石黒、どうしちゃったの……どうして、喋ってくれないの……」
「Sorgen Sie sich nicht... Es tut mir sehr Leid...」
「日本語、忘れちゃったの? 喋れないの……どういうこと?」
 手を握り締め、瞳を覗き込むように見つめる。こんなに近くにいるのに、ひどく距離を感じた。言葉が通じないということが、こんなにも不安で苦しいものだということを、初めて竜児は知った。
 何を尋ねても、数馬はドイツ語で返事をした。竜児の話していることは理解しているようだが、日本語では一言も話さない。悲しそうに首を振りながら、同じ言葉を何度も繰り返している。
 その言葉を、
「心配するな、すまなかったと……何度も言っていますよ」
 と、背後で訳されて、竜児は慌てて後ろを振り向いた。
 病室の入り口に、一人の男が立っていた。スーツを着て、手に書籍を数冊抱えている。背の高い、紳士的な容貌の男だった。髪を固めてオールバックに整え、メタルフレームの眼鏡をかけている。年齢は、四十代後半ぐらいというところだろうか。
「あの…」
 竜児は立ち上がり、男と向き合った。
 男はちょっと失礼、と竜児の前から数馬に書籍を手渡した。頼まれて買い物に出掛けていたのか、ドイツ語でいろいろと説明をしている。
 数馬は頷きながら話をし、ニコッと楽しそうに笑った。
 瞬間、竜児は、数馬が遠くへ行ってしまったような気がした。同時に、深い水の底に、自分ひとりだけ引きずり込まれたような心地にもなった。
「ちょっと、出ましょうか」
 男は数馬と話し終えると、竜児を外へ誘った。
 竜児はチラリと数馬の顔を窺った。彼は枯れた枝のような腕で本を手に取り、読み始めていた。仕方なく竜児は、男について病室を出た。
「田島竜児さんですね。私は、川原と申します」
 病院内の喫茶店のテーブルで、川原洋一は竜児に名刺を手渡した。水彩タッチのビールのジョッキのイラストが描かれている。ドイツ語は読めなかったが、店の名前のようだった。デュッセルドルフでビアレストランを経営していると、川原は付け加えた。
「石黒の……お父さん…ですか?」
 気後れしながら竜児は尋ねた。川原は微笑みながら、
「養子縁組はしていません。だから、ただの友人ですよ」
 と、言った。
 竜児は、留守番電話のメッセージを思い出した。数馬に伝えようと部屋でメモを取り、そのまま置きっ放しにしてしまった。数馬が病院を脱走したという電話のせいで、すっかり忘れてしまっていたのだ。
「すみません。ぼく、留守番電話を石黒に伝えるの、忘れてて…」
「ああ、ちゃんとあなたのメモを読んだみたいですよ。それで私にメールをくれました」
「メモを読んだ? ……石黒が?」
 竜児は驚いたと同時に、すべてを理解した。
 昨日、病院に戻る前に、数馬は一度マンションへ帰ったのだ。だから、サイドテーブルにシガレットケースが置いてあったのである。数馬がリビングから持って行ったのだ。
 自宅に戻ったのなら、なぜ一言、玄関のホワイトボードにでもメッセージを残してくれなかったのだろう……そう思うと、竜児は暗澹たる気持ちになった。川原に連絡はしても、自分には何も伝えてくれなかった。その事実が、心に影を落とした。
「病院へ戻った時から、日本語が喋れない状態だったそうです。だから、出て行っている間の事情も聞けず、困っていたようです。医師も、付きっ切りというわけにはいきませんし……。おかげで私は今日、看護師さんにずっと通訳です」
「どうして、日本語が喋れなくなってるんですか? そんなことって、あるんですか?」
「まだ、きちんと検査したわけではありませんが、内科の医師の話では、一時的な心因性の健忘症だということです。とにかく今は、栄養失調をどうにかすることが先決なので、高カロリー輸液を点滴しています。回復を待ってから、他の検査をするみたいですね。体重が最低でも50キロを超えたら、と言っていました」
「50…キロって……今、何キロなんですか」
「昨日、病院に戻った時の計量では……46.5キロまで落ちていたそうです」
「よんじゅう……」
 竜児は言葉を詰まらせた。179センチの身長で46.5キロなど、想像できない数値だった。56キロの時でさえ、痩せすぎだと思っていた。そんな体重で彼は、一晩病院の外で過ごしたのである。165センチの自分でさえ、そこまで体重が落ちたら倒れてしまうだろう。
 数馬本人の話では、七月下旬にはすでに52キロまで減っていたらしい。彼は夏はいつも食欲がない。食べないのは夏のせいだと、竜児は思い込んでいた。しかし、実際はすでにその時期から、病気は数馬ににじり寄っていたのだ。
 なぜ、気がついてやれなかったのか……竜児は項垂れてテーブルに肘をつき、両手で頭を支えた。
 川原は、そんな竜児を気遣いながら話を続けた。
「神経性無食欲症については内科ではどうしようもないということで……体力がある程度回復したら、精神科の主治医に紹介状を書いてもらうつもりでいます。それで……実は、田島さん」
「……はい?」
「本人の希望で、デュッセルドルフへ帰りたい、と」
 竜児は一瞬、川原の言うことが理解できなかった。はっきりと、ストレートに言われているにも関わらず、頭が理解することを拒否しているようだった。
「帰る……って、あの、……行ってそのまま、ずっと……?」
「向こうでゆっくりと、病気と向き合いたいらしいんです。幸い……というのはおかしいですが、あの子がドイツを離れていた理由もなくなりましたし……」
「理由?」
「先日、母親が亡くなりまして……あの子は母親を憎んでましたから、彼女が生きている間は絶対に帰らないと決めていました。それで、こういうことになって……今後どうするかという話は、主治医ともしていたそうなんですが」
「どうして……お母さんを?」
「虐待です」
 淡々と、川原はネグレクトについて、そして数馬の幼少時代について竜児に説明した。
 何の世話もされず、食べ物も着る物も満足に与えられずに、六歳頃まで育った。基礎学校に入った頃、その体は三歳児並みの未熟さだったという。一日中放置されることもあり、親子間の会話もまったくなかったせいで、言葉もはっきりとは喋れなかった。
 この時点で養護施設に入っていれば、彼はまだ救われただろう、と川原は嘆いた。
 養護施設に入らなかった理由は、母の再婚だった。継父となった人物が市の青少年局と話し合い、きちんと食事を与え、世話をすることを約束した。
 ところが男はその代償として、僅か六歳だった彼に性的な奉仕を強要した。それは、九歳まで続いた。時には、自分のみならず、第三者を巻き込んで彼を辱める行為も行ったという。
 竜児は声を発することさえできなかった。
 川原の話し方が、ひどく事務的な話し方のように感じた。が、それは仕方のないことだと途中で気づいた。辛い話だからこそ、そうしなければやりきれない。
 竜児は、数年前に数馬の口から聞いた言葉を思い出した。部屋で、遊びでドイツ語を習っていた時のことだ。ドイツにいた頃に一番よく使った言葉は? という問いに数馬は、
『ヒルフェ、かな』
 と、答えた。
 ヒルフェ。英語でヘルプ。その言葉の意味を考えていた竜児はその後、もしかしたら……と、児童虐待を疑った。それは間違いではなかったのだ。
 しかし性的虐待を考えたことは一度もなかった。数馬が男性であったから、それはないだろうと思い込んでいた。女性ならばすぐに思い浮かんだだろうが、男児に対してそのような行為が行われるなど、竜児にとっては遠い世界の出来事だった。まさか数馬が被害者だとは、夢にも思わなかった。
『当たり前が、ずっと、欲しかった』
 あの時、彼の口から零れ出た言葉の意味がようやくわかったような気がした。
 当たり前に親から愛され、当たり前に食事が用意され、子供らしく当たり前に暮らす生活が、数馬にはなかった。彼はずっとそれを追い求め、欲して生きてきたのだ。
 そんな毎日は、どんなに辛かっただろう……親友の受けた傷を思うだけで、竜児は心臓が苦しくなった。
「九歳の時、雨の日に一晩中外に放置されて、病院に運ばれたことから、虐待が判明しました。しかし警察が逮捕に動いた時、男は逃走してしまっていたんです」
「……」
「男が逮捕されたのは、病院でした。忍び込んで、入院中のあの子に乱暴したんです。人が駆けつけた時は酸素吸入器も外れていて……どれだけ苦しかったかわからないのに、あの子は悲鳴一つ上げなかった。……どうしてか、わかりますか」
「いいえ……」
「数馬にとって暴力は日常的なことで……大人に対して抵抗する気力すら、奪われていたんです。だからどんな暴力も、逆らわずに受け入れてしまう。我慢して、怒らせずにさえいれば、いつか相手が飽きるだろう……そう、思っていたようなんです……」
「……可哀想…に……」
「その一件で男は逮捕されて、数馬は一時的に養護施設へ入ることになりました」
「お母さんは、逮捕されなかったんですか?」
「エリカは、……一度、逮捕されました。しかし、すぐに精神異常が認められ、釈放されました。彼女もまた、矯正施設へと入所することになったんです。ご主人を日本で失ってからずっと、十年近く、彼女は精神を病んでいたのです。現実が、まったく見えていなかったんです。夢の中で生きていた」
「それじゃ……育児放棄もそれが原因で……」
「そうです。心の病が完治してからは、ずっと数馬に会いたがっていました。謝りたいと、いつも泣いていました。ちょっと前に、無理を言って写真を送ってもらったんですが、とても喜んで……会って許してもらえる日を、最期まで待ち望んでいたんですが……」
「写真…」
 竜児は思い出した。昔から写真を撮られることを嫌う数馬が、不意に撮ってくれと言ってきたのである。あれは、川原に頼まれたものだったのだ。病床の母に届けるために、写真を撮って送った。
 詳しく事情を聞かなかったとは言え、何も彼を気遣ってやれなかったことを竜児は悔やんだ。一言、辛いと言ってもらえたら……もっと優しくできたのにと思う。
 しかしそれは無理な相談だった。数馬はもともと、自分のことは何も話さない。他人がプライベートに立ち入ることをひどく嫌う傾向があった。それはおそらく、幼少期の虐待経験のせいなのだろう。
 性的な虐待についてなど、他人に語れるわけがない。まして彼は男である。過去を振り返るだけで自尊心が傷つけられ、苦しい思いをするだろう。そのために彼は心を閉ざし、自分というものを隠しながら生きた。
 竜児はひどく喉が渇いていた。テーブルの氷水を飲み干しても、渇きが収まらなかった。親友の生い立ちを飲み下せない自分が、とてもちっぽけな存在に思えた。
(そんな石黒と……俺は、何も知らないで、楽しく暮らそうとしてたんだ)
 一緒にいれば楽しかった。しかし、それは彼の傷から注意を逸らしているだけだ。傷の治療も行わず、痛みだけをその場しのぎで忘れようとしているだけなのだ。
 その破綻が、今、やって来たのだと竜児は悟った。
 傷ついたまま修復しなかった心の傷が、摂食障害や健忘症を引き起こしている。故郷へ帰って根本的な解決を試みなければ、彼は救われない。
 竜児は、そんなこともわからなかった自分を恥じた。友情が足りなかったのだ……そんな悔恨の念が湧き上がってくる。
「田島さん」
「はいっ」
 急に声を掛けられ、竜児は姿勢を正した。
「あなたには、とても感謝していますよ。だから、そんなに悲しそうにしないでください」
「でも……俺は結局、何の役にも立てなかったわけで……」
「あの子がどれだけあなたを大事に思っているか、私はずっと聞かされていますから。中学の時は不登校だったあの子が、高校はほとんど休まなかった。あなたがいたおかげなんですよ。友達ができた、と恥ずかしそうに電話で言った時のことは、忘れられません」
「石黒は……どうして中学で日本へ来たんですか? 治療の一環ですか?」
「いいえ。例の父親と一緒に数馬を虐待していた男が、あの子を付け狙っていたんです。あの子は施設で勉強に没頭して……教師になりたいと言って、ギムナジウムへ入ったばかりだったのに、いろいろと嫌がらせがありましてね。施設や青少年局と相談した結果、日本へ移り住んだ方がいいだろうということになりまして……」
「それで、川原さんの神保町のお宅に? どうして、そういうことになったんですか?」
「日本の養護施設へ入れようという話もあったんですが、私の父がたまたま里親の認定を受けていましたから。児童相談所ともよく話し合って、決めたんです」
「川原さんはどうしてそこまで彼の世話を……?」
「私は……あの子の母親が通院していた病院で、ボランティアをしていました。そして、彼女と出会い、……愛してしまった。だから、何とか三人で一緒に暮らせるようにと、いろいろ考えていたんです。あの子も、私には懐いてくれていましたし……。数馬には先に日本へ行ってもらって、いずれはドイツを離れ、三人で日本で暮らそうとしていたんです。ところが……エリカが急に、乳癌を患ってしまって……」
「乳癌…」
「慣れない日本で闘病生活というのも不憫だったので、私たちはドイツに残ることにしました。要するに……数馬を裏切ったんです。あの子には、エリカを連れて行くとは言っていなかった。私だけ、エリカを置いて日本へ行くと、嘘をついていたんです。親子の確執は、一緒に住んでから私が間に入って、どうにかしようと思っていました。それが、行けなくなってしまったことで……結果的にあの子をたった一人で日本へ追い出してしまった形に……あの子だって虐待で傷ついた心のケアが必要で、精神科に通院している状態だったのに、私はあの子に期待を持たせて、地獄に突き落としてしまったんです。そのことは、本当に申し訳なく思っています……」
「そうだったんですか……」
「数馬から、あなたの話や、高校生活がうまく行っているという話ばかり聞いていたので……独りでも大丈夫だろうと軽く考えてしまったんです。そのことが、どれだけ彼を傷つけたかと思うと……」
 川原は懺悔のような口調で言葉を紡ぎ、項垂れた。瞳の奥に罪悪感が滲んでいた。
 彼もまた、数馬を深く愛しているのだと竜児は思った。
 竜児は、池袋のパブレストランで数馬と一緒に働いていた時のことを思い出していた。当時、彼の交友関係は乱れていた。付き合っている男を平気で店に迎えに来させ、人目もはばからず抱き合ったり、キスをしたりしていた。短期間で相手をころころと替え、いつも違う男と違う車に乗っていた。店のアルバイトと付き合ったという例外もあったが、基本的にはみな、親子ほども歳が離れた中年男性が相手だった。
 数馬は、川原の面影と温もりを求め、そうしていたのだろうか。いや、ひょっとしたら、自分もまた川原の代役なのではないのか。そんな思いに囚われる。
「だから、今度こそ、あの子のために尽くしたいんです。あの子を一番に考えて、生活したい。病気と戦う彼の、助けになりたいんです」
 竜児は俯いたまま、ぼんやりと、目の前で頭を下げる男のことを見つめていた。
 わかりました、の一言がどうしても発せなかった。しかしこのまま自分がそれを言わなくても、話は決まってしまうのだろうと思った。川原は、竜児に承諾を得るためにこの話をしているのではない。数馬の意志を報告している、それだけなのだ。
 数馬がドイツへ帰りたいと言うのなら、それを止めることなどできない。日本へはいつか戻ってくるのか、という質問さえ、飲み込まざるを得なかった。
 一緒に暮らしているとは言っても、自分は数馬の恋人ではないのだから……。
 何も言わず、竜児は席を立った。
 川原と並んで、廊下を歩く。一言も会話をすることができなかった。
 嫉妬と羨望を抑えるだけで精一杯だった。
 親友を連れて行かないで欲しい、という心の叫びを捻じ伏せるだけで精一杯だった。
『お前は、俺のすべてなんだよ! 俺は、お前のためにしか生きられねェんだよ!』
 数馬の言葉が頭をぐるぐると回った。あの言葉に嘘はないのだと信じたい。信じたいのに……今、自分が置かれている状況で、何を信じればいいのかわからなかった。
 もう、自分の役目は終わったのだろうか。何の力にもなれず、彼の心の病を悪化させてしまったのではないのか。もしも、何もかも捨てて自分もデュッセルドルフへついて行くと言ったら……数馬は何と言うだろうか。
 ノックをして病室に入る。カーテンをそっと開ける。
 数馬は寝息を立てていた。本を胸の上で開いたまま、安らかな顔をしていた。
 起きるまで待ちたい……もう一度だけ、話をしたいと竜児は思った。しかし、言葉が通じないことで、誰よりも数馬自身を苦しめることになる。
 この、どうしようもない寂寥感を、彼と共有したところで何の意味もない。自分さえ耐えればいいのだ。
 数馬はドイツへ帰れば救われる。今は、彼の快復を願うしかなかった。
 竜児はそっと本を取って栞を挟み、サイドテーブルに置こうとした。場所がなかったために、シガレットケースの上に置いた。
 川原は、カーテンの向こうで待っている。父であり、友人でもある彼がいるのなら、もう何も心配ないのだと竜児は思った。
 ベッドに手をついて、そっと顔を寄せ、血の気のない頬に、一瞬だけ唇をつけた。
「さよなら……」
 絞り出すようにそれだけ言うと、竜児は川原に会釈して、黙って病室を出て行った。
 

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