零時を知らせるメロディと共に、からくり時計が動き始めた。猫のキャラクターの人形が、曲に合わせてクルクルと回転している。 秀一は、こういった時計が好きだった。子供の頃から、常に音楽が身近にある生活をしていたせいもあるが、何よりも可愛いキャラクターものの製品に目がないのである。 「弾さん、明日……オレ、松浪さんに呼ばれてるんですよ」 ダンがあぐらをかいている足を、秀一は枕にして寝転んでいた。ゴロゴロと寝転がりながら、絨毯の毛を足の指で摘んで弄んでいる。 ダンは勝手に手酌で日本酒を飲みながら、 「どうしてそれを俺に言う?」 と、尋ねた。 秀一は一瞬考えて、すぐに取り繕うように言い直した。 「あっ、いや…、違うんです。プライベートじゃなくって! あのー、何か、打ち合わせ? ……とも違うな……」 昨夜、スタジオでまた隼人と衝突した。隼人は例によって逆上し、早い時間だというのにさっさと一人で帰ってしまった。残された秀一は、悔しさを噛み締めながら、控え室で頭を冷やしていた。 その時、杏子から連絡が入った。 『明日、会社のロビーにいらっしゃい。HAYATOくんと、いろいろお話しましょ』 ライブツアーを前に、くだらないことだと秀一は閉口した。しかし、一度徹底的に議論し合うのも悪くない。そう思い、 『弾さんと一緒に行きます』 と言ったが、その希望は退けられた。弾とTakahiroは呼ばないということらしい。 秀一が口を尖らせつつそのことを話すと、ダンは可笑しそうに笑った。 「三島が嫌がったんだろう。あいつは俺を煙たがってるからな」 「ズルいですよ、そんなの。オレ、言いくるめられちゃいますよ」 「解散の話になるかもしれんな。心の準備はしておけ」 「解散……したら、楽になれますかね?」 「どうだろうな」 コップに注いだ冷酒をぐびりと飲んで、ダンは黙った。 秀一は縋りつくようにダンの腕を掴んだ。上から見下ろしてくる彼と視線を交わす。 「弾さん……明日のその時間、近くにいてくれませんか?」 「昼ぐらいか? 別に構わないが」 「今日、泊まってくれるでしょ? 一緒に行ってくださいよ」 「同席するわけにはいかないぞ。ロビーにいてもまずいだろう」 「近くの喫茶店で待っててもらうわけにはいきませんか」 「わかった」 特に理由も聞かず、ダンは承知した。 秀一はホッとした表情を見せた。彼が近くにいてくれるなら安心だった。不利になったら、電話で助けを求めればいい。 「オレ、ちゃんと自分の気持ちぶつけようと思ってるんで」 秀一は決意したように言った。 ダンは秀一の肩に手を置くと、安心させるように二回、叩いた。 * 翌朝、数馬はリビングのソファで目覚めた。隼人はすでに起きて、シャワーを済ませていた。 彼は数馬の首を絞めたことを覚えていなかった。数馬の口からその件について聞かされると、さして驚くこともなく、かといって謝りもせず、ニヤニヤと笑っただけだった。 この男はいつもそういうセックスをしているのだろう、と数馬は思った。相手を暴力で捻じ伏せることにのみ快感を覚える。己の存在が、どれだけ相手に苦痛を与えているかということを量りたがり、影響力が大きければ大きいほど満足する。 他者を虐げることで性的興奮を得ているわけではない。単に征服欲や独占欲を満たしたいだけだ。暴力や支配そのものを楽しんでいるのだ。数馬とは根本的に違う。 プライドを傷つけられることに人一倍敏感で、自分を格下に見る人間に対し、嬉しそうに牙を剥く。嬉しそうに、というのは、敵と見なした相手を支配下に置く行為が、より痛快であるからに他ならない。 初めて会った時から、隼人は自分を敵視していたことを数馬は思い出した。それはおそらく数馬の、隼人のような男に対する無限の軽蔑を、本人は一瞬で感じ取ったからだろう。 数馬はただ、自分を虐待した継父の影を隼人に重ねていたに過ぎない。隼人が逆上して大声を出すのが数馬は嫌いだったし、彼が孝弘に対して高圧的な様でいるのを見る度に腹が立った。 最初から相容れない関係だったからこそ、隼人は数馬を従わせることに夢中になった。ずっと自分を見下し続けてきた者に対する復讐のような感情がそこには見え隠れしていた。 実際、数馬がおとなしく従順でさえあれば、隼人は機嫌がよかった。必要以上にベタベタとまとわりつき、暇つぶしのように体を抱いた。おかげで数馬にとってその日の午前中は、非常に鬱陶しい時間となった。 そして正午前、虎ノ門にあるビルに、二人はベンツで乗りつけた。 ロビーには、REVENGEのマネージャーが一人でメンバーの到着を待っていた。気の小さそうな、線の細い男だった。数馬の話は隼人から聞いていたようで、丁寧な挨拶と共に名刺を渡してきた。 打ち合わせのためのスペースはパーテーションで仕切られていた。周囲を見回すと、すべてのテーブルがそのようになっている。 次に、テーブルにやってきたのは、ギタリストの井上秀一だった。ミディアムで切り揃えた艶のある黒髪。薄いグレーのパーカーを着て、フロントのカンガルーポケットに両側から手を差し込んでいる。 「おはようございます」 と、マネージャーに頭を下げた彼は、隼人を一瞥した後、数馬の顔をしばし凝視した。 清々しい目をした、純粋で真っ直ぐな青年、という印象を数馬は持った。姿勢や物腰、口の利き方に、育ちの良さが滲み出ている。子供の頃はバイオリンを習っていたという話を、昔テレビで聞いたことがある。 数馬があのDark Legendのベーシストだったと知ると、秀一は少しばつの悪そうな顔をした。解散の経緯は把握しているらしい。 もともと彼はストリートミュージシャンだった。それを音楽プロデューサーの松浪杏子に見初められ、すぐにデビューが決まった。 しかしそれは、ギタリストとしてスカウトされたわけではなく、下半身の方のスカウトだったのだ……と、隼人は笑いながら数馬に何度も説明した。秀一が目の前にいても、何の配慮もない。 秀一は飽き飽きしたような態度で、隼人から目を逸らした。そう言われるのは慣れている、といった風だった。 やがて、ビルのエレベーターから杏子が降りてきた。派手な化粧を施した、太った女だった。烏の濡れ羽色に染めているのであろう髪を、夜会巻きのように整えていた。REVENGEをデビューさせた時、すでに三十歳を超えていたというから、現在の年齢は三十代後半のはずだが、顔に脂肪がついていて皺がないせいか、実年齢よりは若くは見える。 この女のことは覚えている。昔、数馬がライブで着用していた服に興味を持ち、馴れ馴れしく肩や腕を撫で回しながら質問してきた。あまりにも気分が悪かったため、数馬は一時はその服を捨てようと思ったぐらいである。 杏子は数馬を見ると、露骨に驚いた顔を見せた。 「あのkazumaくんね? ずいぶん激痩せしたのね」 数馬は軽く頭を下げただけで、特に何も説明しなかった。隼人が後で、勝手に話を進めてくれるだろう。その件に関しては、適当に任せておけばよかった。数馬はこのプロデューサーに、さほど興味を持ってはいなかった。当然、チャリティー・シングルなどというものにも、である。 四人掛けのボックス席に、数馬と隼人が並んで座っている。数馬の正面に秀一がおり、その隣に杏子が腰を下ろした。マネージャーは、少し離れたところに置かれたスツールに座っている。 杏子はまず、隼人と秀一の関係性の悪さについて、その場で説教し始めた。 「大人なんだから、いい加減にしなさい。HAYATOくんが悪いわよ。リハーサル、全然進んでないっていうじゃないの。シュウちゃんからいつも聞いてるわよ」 隼人はチラリと秀一を見ると、うんざりしたような顔で杏子に訴えた。 「俺、バンド以外の方が忙しくなりつつあるんで、ちょっと活動抑えたいんスよねぇ」 「ドラマの方はすごく評判がいいって噂よ。これから俳優と両立していきたいの?」 「決めてはいないスけど、ま、とにかく、いろいろやりたいんスよ。だから正直、今、REVENGEが足枷になってるんスよねぇ」 その後も隼人は、自分がいかにREVENGEに縛られて芸能活動が制限されているか、ということを淀みなく話した。その口ぶりからは、明らかに活動休止か解散を望んでいるのが見てとれた。 マネージャーは相談を受けていなかったようで、蒼白になってハンカチで額の汗を拭いていた。 秀一は黙ったまま、隼人の話が終わるのを待った。どこか思い詰めたような表情で、ずっと携帯電話を両手で握り締めている。 「シュウちゃんはどうなの? 解散なんて、考えてないわよね?」 杏子に話を振られて、秀一は俯いたまま訥々と答えた。 「オレは器用じゃないんで……一つのことしかできませんから。ただ……隼人さんがREVENGEを続けたくない理由がオレにあるんなら……」 「……あるんなら、なぁに?」 「オレ、脱退しますから。弾さんと一緒に」 唇を噛み締めて、決意したように秀一が弾き出した言葉を聞いて、隼人は鼻で笑った。 「二人脱退じゃ、解散じゃねーかよ。バカか」 「そうはなりませんよ。REVENGEの名前は、やっぱりREVENGEの顔である隼人さんが受け継ぐのが当然だと思いますし」 「皮肉かよ。ま、でもそういうことなら、考えてもいいけどなァ」 「メンバー二人同時に交代しても、いいんじゃないですか。ファンの子たちには申し訳ないですけど、解散よりはマシでしょ」 「新しい奴が入るんなら、すぐシングルとかツアーとかってわけにもいかねーし。結果として、休めるしな」 「オレたちは、別の形でやっていきますから。もう、一緒にいたって無駄ですよ」 「やめなさい! そんなの許しません」 二人の言い争いに、杏子が割って入った。 「シュウちゃん、あなた……そんなこと考えてたの!」 「松浪さんには感謝してますけど……もうオレ、REVENGEに未練ないんですよ」 「弾くんにそそのかされたのね? そうなんでしょう?」 「違いますよ。こんな話、弾さんとだってしてませんよ!」 「だって、シュウちゃんがそんなこと言うわけないでしょう? あなたは特別なのよ? わかってるの? REVENGEは、あなたを加入させるために作ったバンドなのよ。あなたを売り出すためよ? それぐらいのこと、あなたなら充分、理解できてるでしょう?」 「すみません。でもオレ、今日はこのこと絶対に言おうって、決めてきたんで」 「落ち着きなさい! 頭を冷やすのよ。弾くんに何を吹き込まれているのか知らないけれど。冷静になりなさい!」 「冷静じゃないのは松浪さんですよ?」 杏子がヒステリックに金切り声を上げるのと対照的に、秀一はひどく冷めている様子だった。おそらくは長い間考えに考え抜いて答えを出したのだろう。数馬はそう感じた。 テーブルの下で、隼人がそっと数馬の脚を指でつついた。そして耳元に顔を近づけると、正面で諍いを続ける二人を見ながら囁いた。 「何か、うまくいきそうだなァ。シュウと弾が二人で抜けてくれんなら、俺としちゃ万々歳よ。孝弘と二人なら身軽だからなァ」 「……」 数馬は無言のまま、目の前の二人を見つめた。なぜか妙な胸騒ぎと共に、秀一の表情に目が吸い寄せられて仕方なかった。 「松浪さん……オレ、もう…限界なんです。ごめんなさい」 「限界って何よ? あなた、そんなこと言える立場なの? 誰のおかげでデビューできたと思ってるの?」 「ごめんなさい。感謝してます。……でも、もう、……やめたいんです」 「ダメよ。許しません。REVENGEはあなたがいなくちゃダメなの。弾くんはやめてもらってもいいけど、あなたは残りなさい。それでこの話はおしまいよ」 その言葉に反発しようとした秀一を軽く受け流して、杏子はいきなり数馬の顔を見た。 「kazumaくん…、あなた、REVENGEに入りなさいな、今から。もともとREVENGEは、そういう形で企画していたんだし。ねえ、ライブの時に着てたあの軍服、まだ着られるかしら? 赤い腕章のついた素敵な……」 「松浪さんっ!」 秀一が杏子の声を遮った。椅子から立ち上がり、目を見開いて彼女のことを見下ろしている。 「勝手に話、進めないでくださいよ。それとも、もうそういう話、決まってるんですか? この人がここに来たってことは、弾さんを脱退させるって話なんですか?」 この人、と秀一は数馬を指差した。彼はチャリティー・シングルの数馬の参加について、何も話を聞いていないようだった。 杏子は秀一の質問を無視するように、今度は隼人に向かって問いかけた。 「HAYATOくん。あなた、弾くんとはどうなの? 仲いいの?」 「はァ? 俺はあいつ苦手ですよ。理屈っぽいし、偉そうだし」 「そうよね。このまま彼がいても……シュウちゃんが変になっちゃうだけよね」 「……ま、あいつがいなくなるなら、……シュウとやってくこと自体は嫌じゃないっスけどね」 隼人はニヤッと笑いながら秀一の顔を見た。秀一は憮然とした顔で、隼人をキッと睨み返した。 「隼人さん……最初っから、弾さんを脱退させるつもりで今日……」 「そういうわけじゃねーよ。でも、ダンがいなくなるのは賛成だな。お前ら最近つるみやがって、俺のことあれこれ悪口言ってたんだろォ? 優しいシュウちゃんがそんなふうになったのは、あいつのせいなんじゃねーの?」 「隼人さんは……弾さんに敵わないもんだから、そんなこと」 「何だと? 誰がそんな話してんだよ。舐めた口きいてんじゃねーよ!」 「弾さんが辞めるなら、オレは意地でも脱退しますから。絶対に!」 「シュウちゃん、落ち着きなさい!」 杏子が頭ごなしに怒鳴りつけた。ヒステリックな口調だった。 「場所を変えましょう。お食事でもいかが? そこのパストラルホテルで、ランチバイキングがあるのよ」 「松浪さん……ちょっと、お願いします。弾さん呼ばせてください。ちゃんと話せば、弾さんがどれだけREVENGEのこと考えてくれてるか、わかると思うんで!」 秀一は携帯電話を握り、縋るような目で杏子を見つめた。 しかし杏子は黙ったままポーチを抱え、立ち上がった。そして僅かの間、何か考えたように眉間に皺を寄せたが、すぐにニッコリと笑って、秀一の頬を掌で包み込んだ。真っ赤なマニキュアで染まった爪が、秀一の癖のない髪を梳くように動く。 「もう決めたわ。REVENGEは原点に戻るのよ。もともと、私が企画していた形にね」 そう言うと、杏子は目を細めて数馬の顔を見つめ、微笑んだ。 しかし数馬は、杏子の顔など見てはいなかった。数馬が気にしていたのは、秀一だった。 「数馬、行こうぜ」 隼人が数馬の肩に手を置いた。それでも数馬は動けずにいた。 秀一の片手が、先ほどからずっとフロントポケットに入ったままになっている。不自然な膨らみが妙に目を引いた。 まずい、と数馬が感じたその一瞬だった。 秀一の手がポケットから抜かれた。その手に、シースナイフが握られていた。銀色のブレードが、数秒後にはプロデューサーの肉の中に吸い込まれていった。 金切り声を上げて、杏子はヨロヨロとよろめいた。柄の部分が脇腹から生えているように見えた。刺された箇所を押さえようとした手が、真っ赤な血で染まった。 マネージャーが悲鳴を上げて、スツールから転げ落ちた。 騒ぎを聞きつけて、近くにいた数人がパーテーションの中を覗き込んできた。そしてその惨状を目撃して、大慌てで走っていく。 「シュウッ! てめ…、バカか!」 数馬の腕を引っ張って、僅かに後ずさりをしながら、隼人が叫んだ。 秀一は無表情のまま、ポケットから革のシースを引っ張り出し、床に放り投げた。返り血を浴びて、胸と腹に赤い飛沫の染みができている。 杏子は呻きながら、チェアを倒して床に転倒した。ピクピクと体を痙攣させ、傷口を両手で押さえている。刺さったままのナイフが、ドス黒く血みどろになっていた。 「じ、自分が何したか、わかってんのかよ? シュウッ!」 「脱退させてくれたらよかったのに……」 「なあ! こんなことしてこれからどうなるか……わかってんのかっ?」 「……わかってますよ。オレ、隼人さんが思ってるほどバカじゃないんで」 秀一は感情を喪失したような顔で、じっと杏子を見下ろしていた。後悔している様子はない。冷たい目で嘲るように、床を這いずりながら苦しむ女を見つめている。 その瞳の中に、どこか安堵したような色が灯っているのを感じて、数馬は目が離せなかった。 数馬の視線に気づいたのか、秀一が顔を向けてきた。そして子供のように笑みを浮かべ、 「kazumaさん……でしたっけ。いろいろ、ごめんなさい」 と、コクンと首を前に折ってお辞儀をした。 「……」 「でもこれで、溜飲下げてくれますよね? オレ、もうだめなんで」 ニコッと笑った顔には、覚悟が満ちていた。 数馬は、彼に何か言葉をかけようと、口を開きかけた。しかし隼人にグイッと腕を引っ張られ、何も言うことができなかった。 隼人は数馬の腕を引き、少し離れた場所のパーテーションの陰に隠れた。空いている、別の打ち合わせスペースである。 「警察…、さっき誰かが携帯で呼んでたよな」 「ああ。逃げる気もないらしいから、……現行犯逮捕だろ」 「マジかよ……冗談じゃねーよ、あのバカ…!」 隼人は舌打ちして親指の爪を噛んだ。不自然にオロオロと戸惑っているように見えた。混乱しているのは当然だが、それだけでもないような狼狽ぶりだった。 「俺たちも、事情聴取されるだろうな」 「ちょっ……、に…逃げらんねーかなァ…?」 「逃げてどうする。怪しまれるだけだろ」 「でもよ…」 隼人は声をひそめ、困ったように頭を掻きむしった。額に冷や汗が浮かんでいる。 「そんなに警察が恐いのか?」 数馬は尋ねた。 「バッ…ちげーよ。面倒臭ェだけだよ!」 「俺はどこまで話せばいいんだ? お前に脅されて、強引に連れて来られたと話しても?」 「おいおい、こんな時に冗談やめてくれよ。俺までヤバイことになるじゃんかよ……お前を連れてくってことは前もって言ってあるけど、理由に関しちゃ、松浪にもちゃんとは話してねーのよ。今日、話そうと思ってたからよ…」 「お前と俺の話が食い違ったら、いろいろ面倒なことになるだろうな」 「脅かすなよ……頼むよ。口裏合わせてくれよ。……その…、シングルのことや、移籍の話はさ、伏せておいてくんねーか」 「どうするかな」 「足元見んなよ! 何でも言うこと聞くからよ…」 「俺が望んでることは二つだ。二度と竜児に近寄らないことと、あのビデオを完全に封印すること。それさえ守ってくれたらいい」 「わかったよ。約束する。もう、ビデオのことは持ち出さねーからよ。ホントだよ!」 「今は信じてやる。時間もないしな」 数馬は納得して、その場で隼人と話を決めた。偶然[イーハトーボ]を訪れた隼人が、数馬を音楽の仕事に誘った。そのため、今日、松浪杏子に引き合わせるつもりだった。それだけのことにした。 Dark Legend時代の話は、秀一が何か話せば聞かれるだろうが、そうでなければ言わなくてもいいことだった。数馬も隼人も、ただその場に同席していたというだけである。容疑者が逃走しているならともかく、身柄が確保されるのだから、関係者には通り一遍の質問だけだろう。 やがてパトカーのサイレンが聞こえ、警察が現場に到着した。 手錠をかけられた秀一が、頭から大きな毛布を被せられ、外へ連行されていく。 救急隊員が杏子を運び出し、ロビーの床にはおびただしい血溜まりだけが残っていた。 「シュウッ!」 泣き出しそうな悲痛な叫びを聞いて、数馬は玄関口を見た。 呆然とした表情の早川ダンが、その場に立ち尽くしていた。そうか……と数馬は理解した。彼はおそらくは秀一に頼まれ、すぐ近くで待機していたのだろう。脱退を認めてもらうため、二人で真摯に気持ちを訴えようとしていたのだ。 秀一は、自ら頭を振って、毛布をバサッと下に落とした。素顔が現れ、そばでカメラのフラッシュが焚かれた。野次馬も携帯カメラをかざし、事件を起こした人気ミュージシャンの顔を撮影している。 「弾さん、オレ、やっちゃった」 秀一がダンに向かってそう言った時、口元には歓喜の笑みがたたえられていた。 ダンはわなわなと拳を震わせた。 「どうして相談してくれなかった? お前は……お前は、こんなこと、しちゃいけない奴なのに! 言ってくれれば、俺が代わりにやったのに!」 ダンの言葉を聞いて、秀一は嬉しそうに目を細めた。 すぐにまた毛布が頭から被せられ、彼はそのまま連れられていってしまった。 後に残されたダンを、警官が一時的に保護した。彼はただ両目を見開いたまま、凍りついたように佇んでいた。 この時秀一が言った『弾さん、オレ、やっちゃった』という言葉は、その日の夕刊や翌日のスポーツ新聞の一面に記されることとなった。 隼人とダンはマネージャーと共に、事務所の指示を仰ぎ、その日のうちに事情聴取となった。もっとも明日以降のスケジュールは白紙となるだろう。ライブツアーが中止になるのは明らかであったし、今後のREVENGEの活動もすぐには決められないはずだ。 数馬は警官に、現在入院しており、今はたまたま外出中なのだと告げた。その場合、事情聴取は医師の承諾が必要になるということで、今日は身元と入院先の病院を尋ねられるだけに留まった。 警官から解放され、数馬は一人、事件現場を後にした。 隼人はともかく、ダンと孝弘のことを思うと、気が重かった。喧嘩程度ならまだしも、刃物を用いた刺傷事件ということになれば、秀一がテレビに戻ってくる可能性はゼロに等しい。残されたメンバーも、仕事は制限されるだろう。 ツアーも、そしてチャリティー・シングルの話も流れることになる。 秀一に、自分も助けられたのだ。数馬はそう思った。それだけに、彼が気の毒で仕方がなかった。 プロデューサーに秘蔵っ子として可愛がられ、デビューこそできたものの、ただのペット扱いだった。杏子の思い描く理想を実現させるためだけに使われた。そのことで彼は何年も、苦しんできた。 彼の夢が何だったのかはわからないが、親友のダンと共に、何にも縛られず、自由にギターを弾きたかったのではないだろうか。バンドマンだった経験を持つ数馬には、彼の気持ちが痛いほどわかった。 数馬はタクシーを止めて、乗り込んだ。幡ヶ谷の自宅へと向かうつもりだった。 すべては終わった。が、最後に一つだけやり残していることがある。 ポケットからラークを取り出した。箱の上部を開けて、中を確認する。茶色のフィルタの煙草に紛れて、小型のUSBメモリが入っていた。 隼人のマンションでのボディチェックを切り抜けるための手段だった。見逃されたことで、目的を果たすことができた。 数馬は赤いボックスをポケットに戻すと、シートに深く身を沈めた。 *
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