「……」
遠のいていく足音を聞きながら、ゆっくりと数馬は目を開けた。
さよなら、という言葉が、耳にこびりついて離れない。そんな言葉を竜児の口から聞くなど、一生ないことだと思っていた。彼を傷つけてしまったことに、胸が張り裂けそうな思いだった。
「よかったのか、本当に……」
カーテンを開け、川原が顔を出した。疲れたような表情をしている。
数馬は苦しそうに顔を歪めた。そして日本語で、
「あいつは、絶対にわかってくれる」
と、言った。
川原は椅子に腰掛けようとして、サイドテーブルの本に気づいた。持ち上げると、ハードカバーの本の下で、シガレットケースが潰れていた。
改めて本の上にそれを重ね、テーブルの上に戻す。薔薇のオレンジ色が黒革に映り込み、微妙な色合いを見せていた。
「彼を傷つけてまで、行かなければならないのか?」
「ああ。そうしなきゃいけない。俺がこのまま日本に残ったら、あいつが困ることになる。あいつを守るためには……こうするしかないんだ」
「説明するわけにはいかないのか。別れぐらいきちんと……」
「別れたつもりはないよ。俺はさよならは言ってない。必ず帰ってくる」
数馬は射抜くような瞳で、遠くを見つめた。
自分は弱りすぎた。やれることも、すべて終えた。
今の自分にできるただ一つのことは、大切な友人たちの足枷にならないよう、海を超えてしまうことだ。
日本にいれば、隼人はまた数馬を利用しようとするだろう。秀一が起こした事件でREVENGEがどうなるかはまだわからなかったが、いずれにしても隼人のような野心家は、這い上がるために利用できるものは何でも利用するはずである。
どんな形の脅迫であれ、最終的にそれが竜児を追い詰めることになるのは明らかだった。彼が飯田プロという巨大芸能プロダクションを動かす立場の人間である限り、数馬がどれだけ拒絶しようと、隼人はきっと食らいついてくる。
あの男を抹殺してやる。数馬はそう決意していた。
しかしその目的を自分が果たすことはできない。病気で弱っているから、というだけの理由ではない。認めたくない事実だったが、認めざるを得なかった。
かつて継父に陵辱されていた頃、自分は逆らうことができなかった。時には自分から進んでペニスをしゃぶり、甘んじて虐待を受けた。放置されるよりも、嬲られることを選んだ。そうすることで、空虚な心を埋めようとしていた。
反吐が出るほどのその危うい思いを、数馬はすべて捨て去ったつもりでいた。しかし、まったく捨てきれていなかった。
自分は隼人の中に、あの継父の面影を見ていた。だから自分は絶対に、隼人には逆らうことができない。どんなに憎んでいても、服従してしまうのだ。
児童虐待が長期間に及んだ場合、子供はそのような心理状態に陥るのだという。暴力に抵抗するどころか、まるで普通のことのように捉え、虐待が日常化することを黙って受け入れる。
数馬は、自分の中のこの忌まわしい心理に気づいていた。
初めて気づいたのは、あのビデオに撮影されたリンチの時だった。死に物狂いで逃げようと思えば逃げられた。しかし、それをせずに無抵抗に暴行されたのは、隼人に逆らえなかったからだった。
殺してやりたいという憎しみを胸に抱きつつ、暴力に逆らえずひれ伏してしまう。自分の中のこの矛盾が、精神を、肉体を蝕んでしまった。
今回、幼い頃のその感情が甦ってしまったことと、矛盾に苦しむ理性とが交錯し、論理的に片付けられなくなった心の隙間を埋める手段として、無意識に食を断つという行動を取ったのだ。数馬はそう、分析していた。
退院後、川原と訪ねた藤原メンタルクリニックで、数馬はその考えがある程度正しかったことを確認することになる。
竜児に握られた手が、微かに熱を取り戻していた。もう片方の手でその手を握り締め、数馬は親友を想った。
日本語が喋れなくなったふりをしようと思ったのは、昨夜のことだった。
マンションで、何度も置き手紙を残そうとした。しかし、何をどう語ればいいのかわからなかった。言葉は無力だと感じた。
デュッセルドルフへ帰るとまともに竜児に伝えることが、どうしてもできなかった。彼の悲しみに暮れる顔を見るのはもう嫌だった。
どう説明しても、彼を傷つけてしまうのなら……会話を交わさずに別れる方がましだった。数馬は川原と相談し、今日、竜児にどう接するか決めた。
さよなら、という言葉の中に、彼の痛みが淀んでいた。
頬に唇が触れた瞬間、数馬は彼を抱き締めたい衝動に駆られた。
しかし、今はこうして別れるしかないのだった。
目的を果たすために、自分の存在は確実に邪魔になる。隼人に利用されることがわかりきっているからだ。利用されても自分は歯向かうことができない。かといってあの男の味方になって、手助けをするつもりもない。矛盾を抱えたまま、身動きが取れず、狭間で迷い苦しみ続けることになる。
それに弱っている自分がそばにいたら、隼人は竜児を脅迫するかもしれない。彼が数馬にしたようなことを竜児にしないという保障はどこにもない。しかし、数馬さえ日本にいなければ、隼人が竜児を脅す材料は何もなくなる。
あのビデオを封印することに関して、隼人を信じたわけではない。
しかし、数馬がいない状況で、ビデオを使って竜児を脅すことは不可能なのだ。表沙汰になれば、隼人自身をも破滅させる代物である。バラまく、という選択肢がない以上、持っていたところで何の役にも立たない。
あの男を完全に潰すまで……自分は日本へは帰れない。そう思った。
自分は負けて逃げるのではない。その思いだけは確かだった。
すべて終わりさえすれば、竜児はきっとわかってくれると数馬は信じていた。
*
数馬の入院中、川原は一度だけ鍵を持ってマンションを訪ねた。ドイツへ持って行く、最低限の荷物をまとめるためだった。
昼間だったので、当然竜児はいなかった。リビングとキッチンが散らかり、荒れていた。
病院で話した、あの優しく慈愛に満ちた青年が、この空間で泣き暮らしていることが手に取るようにわかった。
息子が彼をそこまで追い詰める必要があったのか考えた。しかし、答えは出なかった。
十年以上前、数馬が国際電話で話してくれたことを、川原は思い出していた。
『初めてなんだ。ガイジンか、って聞かれなかった。顔をジロジロ見られなかった。俺のこと、友達だって! 友達だって言ってくれた! 初めて……』
それ以来、電話の内容は竜児のことばかりだった。
だから自分は、エリカを選ぶことができたのだ……親友が、息子を支えてくれると信じた。
その時は数馬を傷つけることになったが、竜児の存在が大きかったという事実に変わりはない。
最終的に、エリカが死ぬその瞬間までそばにいてやれたのは、竜児が日本にいてくれたおかげだった。息子のそばには親友がいるから安心だと、川原が思うことができたためだった。
できるだけ早く、息子を親友の許へ返してやりたい。それが、竜児に対する自分の、感謝の気持ちだった。
*
退院後、数馬は川原と共に藤原メンタルクリニックを訪れた。
母の死を悼んでいるという感情を受け入れたくなかった、という数馬の告白を、藤原は重く受け止めた。その感情を押し殺すために、体が更なる苦痛を求めた結果、拒食という自傷行為に走ってしまった可能性がある、と言った。
刃物で自分の体を傷つけたり、薬を過度に飲むなどの行為は、自分の中の膨れ上がった感情を処理するために行われることが多い。自ら肉体を傷つけ、鞭打つことで、湧き上がった感情を破壊したり、そこから目を逸らしたりしようとする。心の痛みの噴出を抑制したい心理の表れである。
また、藤原は数馬が日本へ来たばかりの頃、僅かな期間であったが摂食障害に陥ったことを指摘した。
数馬は今までそのことを忘れていた。日本で生まれ変わるために、性的暴行によって汚された体を清めようという気持ちが働いたのだと、当時は診断された。
隼人と会って別れた帰り道、公園の水飲み場で口を漱ぎ続けたことを、数馬は思い出した。
様々な要因が、今回の症状の原因となっていた。
頭で理解すれば、治療は簡単だと数馬は思った。何年かかっても、必ず克服してみせる。そして、日本へ……竜児の許へ帰る。
藤原は、デュッセルドルフの総合病院に宛てて、紹介状を書いた。何か相談事があったら、いつでも電話をして欲しいと、数馬の手を握った。
クリニックからの帰り道、数馬は美容室に寄り、髪をバッサリと切った。
髪の長さが元に戻るまでにきっと、日本へ帰ってくる。そう、数馬は決意した。
*
そして、竜児と病院で別れた日から二週間後。
数馬はルフトハンザでドイツへ向かった。
*
坂本憲治は、アパートのベランダで煙草を吸いながら、空を眺めていた。白い飛行機雲が、真っ直ぐに空に描かれている。
人気ロックバンドのギタリストによる傷害事件は、彼に大きな衝撃を与えた。
なぜなら憲治は、HAYATOから依頼を受けていたからである。
ちょうど数馬が家に泊まっていた時、電話を受けた。ツアーが終わったら、シュウを貶める記事を書いてくれ、REVENGEが解散に追い込まれるほどのものを、と。
そのために彼は怪文書屋の熊田と話をしなければならなかった。プロデューサーと愛人関係にあるということ以外、プライベートで何ら落ち度のない彼を記事にするためには、それ相応のシナリオが必要となった。
しかし今回の事件で、もうその仕事は意味がなくなった。
新聞や週刊誌は、こぞって松浪とシュウの痴情のもつれと書きたてた。もちろん憲治も幾つかの記事を執筆した。
REVENGEは現在活動休止状態だが、いずれ解散となるだろう。
憲治は煙を吐き出し、足元のスモーカーの様子を見た。何度もソーセージの燻製を作っているが、納得のいくものができない。味見をしてくれる者ももういない。
一度だけでも、数馬が喜ぶものを作ってやりたかったと、憲治は後悔ばかりしていた。
*
坂本章吾は、[イーハトーボ]の店内を片付けに赴いた。
どうしても、閉店の貼り紙を書くことができなかった。迷った挙句、マスターは入院中だと書いたものをずっと貼り続けることにした。問い合わせ先として、自分の携帯番号を記した。
しばらくの間、電話は一日に何回も鳴った。常連客の質問に、章吾は同じ言葉を繰り返した。マスターは休んではるだけです、と。
しばらくゆっくりするようにと兄には言われているものの、章吾は部屋でじっとしていることができなかった。何もしないでいると、数馬のことばかり考えてしまう。
数日間は塞ぎ込んで過ごしたが、何の生産性もないことに気づいてから、アルバイトの情報誌を買うようになった。
数馬が再び日本に帰ってくるのかどうか、章吾は聞かされていなかった。が、またいつか[イーハトーボ]を再開することができる。そう信じていた。信じなければ、何もすることができなかった。
*
田島竜児は、終わったはずのドラマの撮影のため、京都を訪れていた。
事件を起こしたギタリストと同じバンドのメンバーの起用を、スポンサーが嫌ったため、REVENGEのHAYATOが出演していたシーンが丸ごと撮り直しになったのである。もちろん、放送も延期となった。
竜児は、物事を深く考えることをやめていた。ただ、目の前の仕事を一つずつこなすことだけに没頭した。
空虚な気持ちを抱えながら、一日一日が早く過ぎ去ることだけを願った。仕事を増やし、常に多忙であるようにした。
時間が空けば、バイクにばかり乗っていた。風だけが、心を癒してくれた。
親友のことを思い出さないようにと、気がつけばマンションに帰ることも少なくなった。
数馬がなぜ、日本を去ったのか。竜児がその本当の理由を知ることになるのは、数ヶ月先のことだった。
*
「畜生……やっぱり、なくなってやがる…!」
隼人は自室でパソコンに向かい、何度もフォルダの中身を検索した。しかし、目的のファイルは見つからなかった。
誤って削除してしまったのかと、ファイル復元も試みた。しかし、どんなソフトを使っても無駄だった。
「数馬の奴…、やっぱりあの晩……」
隼人は爪を噛み、憎憎しげに呟いた。
携帯電話からパソコンにコピーしておいた、竜児の画像が完全に消えていた。パソコンに移しておけば大丈夫だと思い込み、それ以上のバックアップも取らなかった。
こちらにデータが残っているから、携帯電話の方はあっさり削除に応じたのだ。それを数馬に読まれていたとしか思えない。
隼人に睡眠薬を飲ませ、眠らせた後に、数馬がこのマシンを操作した。そして、あの画像を完全に消し去った。それしか考えられなかった。
悔しさに歯噛みしながら、隼人は別のフォルダを確認した。他に消されているものはないかと、すべて調べていく。
そのうちの一つに目が留まった。フォルダの中のファイルをダブルクリックすると、パスワード入力のダイアログが表示された。
「これは……見られてねーよな。パスかけてあるしな……」
隼人はダイアログを閉じ、デスクから離れた。ベッドにゴロッと横になり、天井に取り付けた滑車を見つめる。
利用価値のある画像が消されたのは痛かったが、他になくなっているファイルもない。さほど問題にすることでもないと思われた。
あの事件の後、事務所からは自宅待機を命じられている。孝弘とは何度か会ったが、彼はひどく混乱しており、まともに話すことができなかった。
ダンも自分の部屋に閉じこもったまま、まったく姿を現さないという。電話を掛けてもメールを出しても、無反応だということだった。
「チッ。こんな時だからこそ、行動しなきゃなんねーのによ。どいつもこいつも……」
隼人はイライラと爪を噛んでいた。夜の街に遊びにでも出掛けなければ、気が晴れないと思った。考えなければならないことは山積みだったが、ストレスを解消することの方が先決だった。
隼人はベッドから飛び起きると、パソコンの電源を落とし、部屋を出て行った。
*
そのアルバムのジャケットには、四人の顔が写っていた。
挑戦的な目つきで正面を睨んでいるヴォーカリストと、質朴で温厚な印象のドラマーが並んで前に立っている。後列には、毅然とした神経質そうな表情のギタリスト。そして、愁いを含んだ表情を隠すように横を向いているベーシストが写っている。
白い指がパッケージを破り、ジュエルケースを開いた。モノトーンのデザインが施されたラベルのディスクを、指で取り出す。
そのディスクの下に、もう一枚のディスクが嵌め込まれていた。
「これ…かぁ」
呟きながら取り出し、デスクトップパソコンのトレイに入れて、中身を確認した。中に、二種類のファイルが収められている。
ポインタを合わせ、それぞれダブルクリックした。すぐにファイルの内容が明らかになる。
「これをHAYATOのパソコンから……数馬、やるぅー」
猫のように大きな目が一瞬細くなり、また見開かれて、ファイルに記載された文字を追った。
そしておもむろに立ち上がると、携帯電話を親指で操作し、耳に押し当てた。
液晶画面には、指定暴力団紅虎会の幹部の名が表示されていた。何回かの呼び出し音の後、相手が電話に出る。
「僕です。日向夏樹です。お約束どおり明日……お伺いします。ええ、……」
壁の姿見に、後姿が映っていた。金色の逆立った髪が、空調にそよいでいる。夏樹は話しながら、振り向いた。
「会長に、お話が」
鏡の中で、ブラウンの瞳が光った。
(了)
このページの冒頭へ戻る|この小説の目次へ戻る
|