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 緑色の使い捨てライターが、暗闇でシュボッと炎を上げた。
 荷物の中にジッポーライターが入っていなかったため、コンビニエンスストアで煙草と一緒に買う羽目になった。
 煙草を一服した時、携帯電話がポケットでバイブレーションした。その振動のリズムが先ほどまでのものとは違っていたため、取り出して着信ボタンを押した。
『石黒っ? 石黒だよね?』
 竜児の声が聞こえた。慌てた様子でいるのは当然だと思った。
「俺だ。……すまない。でも、心配しなくていい」
『し…心配するよ! 今、どこにいるの?』
「明日にはちゃんと戻る。そう、病院に伝えてくれないか」
『どうして……こんなこと…するの…』
「ごめん。何も話せない。でも、必ず帰る」
『今日じゃなきゃいけない用事なの? 退院してからじゃだめなの?』
「ああ。ごめん、もう切る。後でまた……連絡する」
『ちょっと石黒…、ねえ石…』
 痛ましい声を聞きながら、数馬は思い切って電話を切った。
 端末を迷彩パンツの膝下脇のポケットに落とし込む。救急車に運び込まれた時の格好のため、数馬にとっては部屋着だった。靴も最初の一日は所持していなかった。竜児が紙袋に入れてくれたレザーサンダルを素足で履いている。病棟内を移動するためにと用意した履物で、まさか六本木を歩いているなどとは夢にも思っていないだろう。
 右腕に押し当てていたハンドタオルを外して傷跡を見る。自分で点滴針を引き抜いたので、内出血の痕がひどかった。血もなかなか止まらず難儀した。数馬は傷口を圧迫するように、ブルーのハンドタオルを腕に巻きつけ、縛った。微かな芳香が鼻腔をくすぐった。
 面会時間が終わる8時に、数馬は見舞い客に混じって病院を出た。病室のベッドには、自分の荷物がちゃんと残してある。それを見れば、また戻ってくるとわかるはずだった。
 さっき、携帯電話の液晶画面で見た時間は22時半だった。消灯時間の後の看護師の見回り時間まで、無断の外泊は気づかれなかったらしい。この時間では、病院側も動かないだろう。明日、戻る前に電話すればいい。
 竜児には迷惑をかけるだろうが、仕方がなかった。
 竜児があそこまで思い詰めていたとは思わなかった。キスして…、と言った時の儚げな表情が思い出される。
 抱き締めた感触が、まだ腕に残っていた。彼を深く愛しているという思いに、今更ながら囚われている。だからこそ、自分は今日、ここへ来たのだ。
 数馬は意を決して、マンションのエレベーターに乗り込んだ。
 時間はまだ早い。隼人はまだ帰っていないかもしれない。それなら部屋の前で待つつもりでいた。
 しかしエレベーターを降りると、いつものように若者たちがたむろしていた。この階には隼人の住む部屋しかないため、彼らは我が物顔で遊んでいる。空のペットボトルやカップラーメンの空き容器、煙草の吸殻などが散乱していた。
「隼人はいるのか?」
 そう尋ねると、口々に肯定の言葉が返ってきた。数馬はいつものようにボディチェックを受けた。財布と携帯電話、煙草、ライターしかポケットには入っていない。すぐに、玄関のインターホンを押すことを許された。
 玄関は鍵が開いていた。耳をつんざくようなブラックミュージックが、扉の向こうから聞こえてくる。
 数馬はレザーサンダルを脱ぎ捨てて上がり、見知ったリビングのドアを開けた。
 大音量の中で、隼人がソファに座っていた。モスグリーンのタンクトップで、蜘蛛のタトゥーの入った肩を曝け出している。フィガロチェーンのシルバーネックレスを首から提げ、頭には黒のニット帽を目深に被っていた。オーバーサイズのジーンズを腰で穿いている。
 数馬は漠然と、隼人がREVENGEから浮いてしまっているのは、彼の音楽の方向が変わったせいだろうと考えた。ファッションを見ても、昔とは違う。音楽とファッションは密接な関係がある。少なくとも、インディーズの頃とは好みが大きく変化していた。もっともそんなことは、今の数馬にはどうでもいいことだった。
「悪ィな。急がせちまってよ」
 言いながら、隼人はリモコンでボリュームを絞った。
 数馬はその場に立ったまま、隼人の姿を見下ろしていた。すぐにそれを見咎めて、隼人が指でソファを指し示す。
「突っ立ってねーで、隣、座れよな」
 数馬は目の前の男を睨みつつ、言われたとおりに横に座った。
 今日の夕方、病棟の携帯電話が使用できるスペースで、数馬は隼人に電話を掛けた。その際に、隼人はどうしても今夜、数馬に会いたいと言ってきたのだ。
 数馬が黙ったままでいると、隼人は肩に腕を回し、いつものように親しげに顔を近づけてきた。
「どうしたのよ? 今日はおとなしいじゃん。車で話した時とは、まったく態度違うよなァ? クククッ…」
「お前を信じてた。俺が言うとおりにすれば、お前はちゃんと取引に応じてくれると、そう思ってた……それを……」
「お? そりゃ誤解だぜ。俺は今まで、一度だって約束破ってなんかいねーよ」
「じゃああの写真は何だ。竜児には指一本触れるなと言ったはずだ!」
「お前にそう言われてからは触れてねーよ。……っと、服着せたから、触りはしたか。でもあの写真撮ったのは、お前から電話掛かってくる前だぜ。何なら時間、調べてみるか?」
 そう言うと、隼人はローテーブルの上から自分の携帯電話を取った。慣れた手つきでボタンを操作し、着信履歴を表示する。
「お前から電話があったのが、23時32分……だろ? で、この写真撮ったのが、……おら、23時24分。よく見てみ」
 そう言いながら、隼人は数馬の目の前に液晶画面を突き出した。
「…!」
 咄嗟に数馬は顔を背けた。自分に送信されてきた画像とは別のものだ。下半身を覆い隠していたタオルが取り去られ、恥部が完全に露出している。
 この部屋で、竜児が衣服を剥ぎ取られ、裸を晒した。それも、数馬が憎悪している男の手で。そう思うと、怒りで全身、総毛立つ思いだった。
「ハハハッ、照れんなよ! 見たことねーわけじゃねーんだろ?」
「……お前を、絶対に許さない」
「この画像も、そっちに送ってやるよ、今。家でオカズに使いたいだろ?」
「今すぐ消せ。何でもお前の望みどおりにしてやる。だから、全部消せ。消したら、プロデューサーとでも誰とでも会ってやる」
「へーぇ。電話で言ったこと、覚えてたのか。感心感心。じゃ、ご褒美に……はい、送信っと」
 数秒後、端末が振動でメール着信を伝えた。数馬は反応せず、キッと隼人を睨みつけた。
「聞こえなかったのか。今すぐ消せ。俺は、そのために来た」
「明日、昼前にレコード会社のビルのロビーな。今後のこと、いろいろ話し合うことになってよ。ツアー前に片付けときたかったから、ちょうどよかったけどな」
「だから、行くと言っただろ。何度も言わせるな」
「チャリティーシングルに参加するって話、きっちり決めちまうからよ。うまくいきゃ、ツアー中に解散宣言して、来年、移籍できるかもなァ。全部うまく話進んだら、ハニーのヘアヌード画像は消去してやるからな」
「ダメだ。それは今すぐ消せ。消さなきゃ明日は行かない」
「うるせーなァ、わかったよ。消しゃあいいんだろォ?」
 うんざりした顔で隼人は携帯を操作し、数馬に見えるように削除ボタンを押した。数枚あるものを一枚一枚、同じように消す。そして、確認しろとばかりに数馬の手に押し付けてくる。数馬は日付をチェックしながら画像フォルダを何度も見た。そして、納得したように隼人に返す。
 隼人はニヤニヤしながら、
「これで安心か?」
 と、言った。
 数馬は黙って頷き、スッとソファから立ち上がった。
「明日、昼前に現場に行く」
「何だよ。帰る気かよ」
「もう話は済んだ。画像を消してもらったら、俺の用事も終わりだ。約束はちゃんと守る。明日、行って話せばいいんだろ」
「ちょ…、待てよ。せっかく来たんだからよ。今日は泊まってけ。明日、一緒に行こうぜ」
「一緒に行く理由がない」
「何だよ、気取りやがって。今日だって、ハメられんの期待して来たんだろーが」
「もう、お前とやる理由もない。帰る」
 数馬は隼人に背を向けて、ポケットに突っ込んでいた手を出し、口元に当てた。そしてそのまま、無言でリビングを出ようとした。
「待てっつってんだよ!」
 その細い腕を掴み、隼人は乱暴に引き寄せた。
 刹那、数馬は抵抗することもなく、一気に隼人の胸に身を預けた。予想外の行動にバランスを崩した隼人は、よろけて尻餅をつくようにフローリングの上に仰向けに倒れた。一時的に、隼人の上に数馬がのしかかったような体勢になる。
 直後、数馬は隼人の唇に自らのそれを重ねた。
「ん……」
 舌で唇を割り、口腔に潜り込ませる。激しく中で回すように動かして、隼人の舌を探り当てた。それを唇でくわえ込み、力強く吸い上げる。
「何、しやが…」
 思わず、隼人は数馬の髪をグッと掴んだ。しかし、激しいディープキスに息もつけない。数馬の渇いた舌が歯茎をなぞり上げ、唇と舌を吸い立ててくる。細い指が頬をなぞり、顔を抱え込んできた。ぞくぞくと性感が立ち上り、隼人は目を閉じて体から力を抜いた。
 しかし次の瞬間、
「……っ!」
 隼人は目を見開き、数馬を見た。そして密着した顔を力づくで退け、痩せた体を後方に突き飛ばした。
「てめ……、何、飲ませたっ?」
 喉を押さえ、凄まじい形相で、その場に倒れている数馬の髪を掴み上げた。数馬は、
「毒じゃない。体に悪いもんでもない。安心しろ」
 と、口元を歪めて笑った。
 隼人は凶暴な仕草で、横臥した体を無遠慮に蹴った。
「言えよ。何飲ませたんだよっ?」
「自分が使われるのは初めてか? ただの睡眠薬だよ」
「睡眠薬だと? 何のために……」
「別に。今夜、お前の相手をしたくないだけさ」
「てめー、ざけんなよ!」
 隼人は怒り狂い、何度も数馬の体を蹴りつけた。掴んだ髪の毛を思い切り上に引っ張り上げて、顔面を平手打ちする。そして床に叩きつけるように、もう一度力いっぱい突き飛ばした。
 数馬は声もなく床を転がり、僅かに唸りながら、その場で身を丸めた。
「そんなに俺とやりたくねーか……?」
「ああ、嫌だ」
「くそっ……ふざけやがって! ミン剤飲んだところでなァ、俺ァ、そんな簡単に眠りゃしねえ。ハメて、ヨガリ狂わせてやる。一生忘れられねー夜にしてやるからな!」
 隼人は数馬の上に馬乗りになると、乱暴にTシャツと迷彩パンツを剥ぎ取った。そして、髪を掴んで無理やり起こし、まるで物を投げつけるように、部屋の中央にあるローテーブルの上にうつ伏せにさせた。
「うっ……ぐっ、うぅ」
 強烈に胸と腹を打ち、数馬はくぐもった声を上げた。テーブルに上半身を寝かせて、尻を後ろに突き出したような体勢になっている。歯向かう力もないようだった。
 隼人は衣服を脱ぎ捨て、ローションを自らの一物に垂らすと、掌でしごくように塗りつけた。そして、テーブルに突っ伏した数馬の上から覆いかぶさり、剛直を後ろからあてがう。
「オラッ、犯られねーで済むと思ったら大間違いだぜ」
「ふっ……ぐっ、あ…」
 メリメリと菊門を広げながら、巨根が侵入してくる。何度味わっても、ほぐされていない状態で挿入されるのは、気が狂うほどの激痛だった。
 括約筋が切れてしまわないように、数馬は息を吐き、肉穴を自分から広げた。そうしなければ耐えられなかった。
「ううっ、かはあぁ……、あはあっ…」
「へへっ…キツいな……この瞬間、たまんねーな」
「んううっ…ああっ、は、あ、あああ……っ!」
「痛いか? なァ、痛いのかよ?」
「い、痛……ぁっ、ん…あっ、…!」
「そうか、痛いか。痛いよなァ、……フフフッ」
 ローションのボトルを傾け、双丘の谷間に垂らす。すでに先端を突き入れている穴の周りを、ローションにまみれた指で無造作に嬲った。爪が粘膜に引っ掛かる度に、窄まりが生き物のように艶かしく開閉した。
 隼人は頭がふらつく感覚に、意識を持っていかれそうになった。頭を振って眠気を飛ばし、猛った雄身を力いっぱい奥に沈めた。
「あっ、あ、あああああっ!」
 数馬が背中を丸めて身を固くした。尻から下が小刻みに震えている。
 お構いなしとばかりに、隼人はその細い腰を左右から掴んで、残酷にゆさゆさと揺さぶった。そのままリズミカルに、根元まで中に差し入れては引き抜いた。
「んんっ…、あっ、はぅ……ん、ああ……」
 数馬は声を上げながら、テーブルの淵を強く握り締めていた。隼人の動きに合わせて、少しでも苦痛を和らげようと、力を抜いて身を任せている。
 背中の筋肉が落ち、肩甲骨が醜く張り出していた。背中に流れる髪の毛の間から、瘤のように顔を覗かせている。
「へへっ…お前、痩せたよな……俺のせいか? 俺にこうやっていたぶられて、辛いのか? え?」
「いっ……やっ、ああ…っ、はっ、はああ…」
「オラ、答えろよ! 俺のせいで、そんなにやつれたのかって聞いてんだよ!」
 狭い道を、ズブズブとカリ高の肉棒が通過した。腰をぴったりと密着させ、浅くピストンしつつ、隼人は数馬の髪の毛を束にして握り締めた。後ろから引っ張られ、仰け反るように顔を上げながら、数馬は途切れ途切れに答えた。
「お…お前、なんかに……影響される、俺じゃない……!」
「へーぇ、そうか。俺のせいじゃねーのか。そいつァ残念だな」
「はっ…はあっ、ああっ……んん、ヒッ…ああっ……」
「それじゃーよ、こんなことしちゃっても、大丈夫だよな?」
 突然、隼人がリモコンで、テレビのスイッチを入れた。
 大きな液晶テレビの画面が完全に写る前に、スピーカーから激しい雨の音が響いた。
「……っ!」
 やがて、映像もはっきりと現れた。数馬の眼前に、豪雨が土に降り注ぐ場面が大きく映し出される。
「あ……あ、あ……」
 泥水が小さな池を幾つも作っている。数人の男たちの歩く姿がある。靴跡にも後から後から雨水が溜まり、泥と混ざり合ってグチャグチャと粘ついた音を立てていた。
 泥の中に、長い髪の束が見えた。金色のようにも栗色のようにも見える髪には、雨水と泥がこびりつき、汚いムラになっていた。
 湿った土に埋もれた白い顔。紫色に変色した唇が半開きになって、歯がガチガチと鳴っている。何かを喋っているが、声は雨音にかき消されている。全身が寒さに凍え、激しく身震いしていた。
 数馬はきつく目を閉じて、左右にかぶりを振った。
「やめ…ろっ! これだけは、もう……」
「いいじゃねーかよ。別に俺のすることなんか、屁でもねーんだろ?」
 笑いながら隼人はボリュームを上げた。土砂降りの雨音が部屋に響き渡る。同時に、小さく別の音も聞き取れるようになった。色褪せた唇が微かに動き、声を発している。
『Hilfe...』
『Hilfe...』
『Bitte helfen Sie mir...』
「やめろッ! 止めてくれ……頼むから……」
 ロープが巻かれた手が映る。背中でがっちりと縛られた両手首。指が助けを求めるように、曲がったり伸びたりしながらピクピクと痙攣している。
 足は、片方の足首にだけ、ロープが巻きついていた。不自然に片足だけが上がっている。足の裏が天を向いている。そうさせている原因は、高い位置にある木の枝だった。ロープが太い枝に括り付けられ、片足を吊っている。
「オラッ、ちゃんと見ろよ! これぐらい、どうってことねーんだろ?」
「嫌だ……見たくない…、やめ……」
「ハハハッ、もっとケツ振れ! 俺をイカせたら、止めてやるよ!」
 数馬はゆっくりと腰を前後に動かした。今はそれしか方法がなかった。張り詰めた亀頭が内部をゴリゴリと擦る。異物感に、数馬は眉を寄せて耐えた。ズルッと出口近くまで抜かれた亀頭で、一気に奥まで貫かれると、気が遠くなるような心地がした。
「ひぐぅっ……ああ…は、あぁ……」
 液晶テレビの中では、雨水の溜まったバケツの中に無理やり顔を突っ込まれる自分の姿が映っていた。息ができずに暴れ、肩や腰がガクガクと震えるのを見て、周りで下品な笑い声が沸き起こっていた。
 梅雨の真っ最中で、二日間、豪雨が降り続いた。その時の出来事だ。
「ああっ……んっ、ああ……んぁ、はっ…ん、ん……」
「すげ……気持ちいいぞ……もっと動けよ……」
 隼人は朦朧とした意識を持て余しながら、頭をグルグルと回した。それに伴い上半身が大きな振り幅で揺れ動き、今にも崩れ落ちそうになっている。
「ひぐっ……ん、あ、くぁ……あ、あんん……」
 部屋の中で雨の音に怯えながら、数馬はひたむきに腰を振った。何度も奥まで突き刺され、息が詰まりそうになった。直腸へのおぞましい刺激が、少しずつ脳髄を溶かしていく。男根が出入りする度に、直腸が外へ出てめくり返されているのがわかった。秘粘膜が肉棒に弄ばれ、愉悦に蠢いているのが屈辱的だった。
「はあ……はあ……」
 隼人の息遣いが荒くなってきた。薬が効いて、意識が飛びそうになっているのを、辛うじて我慢しているようだった。ふらつく上半身を支えるためか、目の前の数馬の背中に覆いかぶさる。
 そのまま両手を伸ばし、数馬の首を鷲づかみにするようにグッと掴んだ。
「ぐ……あっ、や、やあ…ぁ…」
 指で頚動脈が押さえつけられ、気道が塞がった。その腕を振りほどこうと、数馬は両手で掌を引き剥がしにかかった。しかし、力強い手はびくともしなかった。
「へへ……く…苦しいか? 苦しいよなァ……こんだけ絞めりゃよ……」
「がっ……、あ、あが……がっ…」
「最高…だよなァ、この……感じ。締まるしよ……たまんねーな……」
 数馬に語りかけているというよりは、もはや寝言のような口調だった。手に力を込めたまま、恍惚の表情で腰をグラインドさせている。
「……かはっ……」
 呼吸がまったくできず、数馬の頭が真っ白になった。
 暴力的な蹂躙は、忘却の彼方へ押しやっていた記憶を目の前に引っ張り出して弄んだ。
 脳裏に、リアルなシーンが浮かび上がった。遠い昔、雨の夜のことだった。
『どうしてあんな奴にやらせた! どうしてあんな奴にやらせたんだ!』
 半狂乱になって幼い自分を怒鳴りつけた男の形相が、記憶の中で甦った。彼にしてみれば、自分が大切に遊んでいた玩具が、他人の手で壊されてしまったようなものだったのだろう。
 顔を何発か殴られた。急所を大人の握力で強く掴み上げられた。睾丸が潰れるかのような恐怖に、泣き叫んだ。
 その声に腹を立てたのか、男は未成熟な子供の体を、窓から外へ放り出した。
 まだ下半身にぬらぬらと血液がまとわりついている状態で、数馬は裸同然の格好のまま、土砂降りの雨に打たれた。
「……」
 過去に味わわされた呼吸困難と窒息感を思い出し、数馬は身震いした。
 寒い晩だった。雨のせいで、外出する者もいなかった。数馬は夜が明けるまで、誰にも気づいてもらえず、裸足で泥の中にしゃがみ込んでいた。
 雨足が強くなるのと平行して、数馬は自分の呼吸の音を聞いた。息を吐く時に、雑音が混じる。それがどんどん大きくなり、呼吸の間隔も短くなった頃、アパートの管理人の夫婦が水溜まりの中に倒れている数馬を発見した。
「……がっ、あ、あ、あ……んんっ、あが……っ!」
 隼人の手の力は弱まることがなかった。このままでは殺されると、本気で思った。
 竜児の顔が瞼の裏に浮かんだ。必ず戻ると約束した。彼との約束を破るわけにはいかない。
「……ぐっ……うううあああっ!」
 最後の力を振り絞って、数馬は隼人の体を跳ね飛ばした。
 ズシン、と音がして、隼人の体が床に倒れたのは、その直後だった。
 数馬は咄嗟に、彼から離れた。ドロリと太腿を粘ついたものが伝った。大量の白濁液が、後肛から溢れ出ている。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」
 床に手をついて、激しく咳き込む。衰弱しているせいか、口の中が渇ききっていた。唾液もあまり出ない。舌がスポンジのようだった。咳をしただけで体力が奪われ、頭がフラフラした。
 隼人は気絶したように眠っていた。眠りに落ちる寸前、握力が弱まったせいで、振りほどくことが出来たのだ。そうでなければ、逃げることは不可能だっただろう。
 数馬は大きく息をついて、リモコンを捜し、テレビのスイッチを消した。ずっと低く流れていた音楽も止める。部屋が静寂に包まれた。加湿器が蒸気を上げる音だけが聞こえていた。
「はあっ……はあっ……」
 頭の中では、まだ雨が降っていた。数馬は雨音を消し去ろうと、両手で耳を塞いだ。しかし雨は止まなかった。もう二十年近くもの間、彼の中では雨が止まない。
 アパートの管理人夫婦によって病院に運ばれた時の病名は、急性気管支喘息だった。ゼエゼエという喘喝と咳に、何日も苦しめられた。
 それ以来、雨の音を聞く度に胸が苦しくなる。ひどい場合はパニック発作が起こった。
 憲治と店で言い争い、突然発作を起こしたのも雨の日だった。彼のスーツが吸い込んだ雨の匂いに、気持ちを乱された。
 大学時代の雨の日のリンチの時も同じだった。急性肺炎で病院に担ぎ込まれたのはもちろんだが、精神的にもダメージが大きかった。
 雨と窒息。それが、数馬がもっとも恐れているものだった。
「嫌だ……もう、嫌だ……」
 何度も繰り返して呟きながら、頭を抱えた。凍てつく夜を思い出して、体がガタガタと震えた。
 運ばれた先の、病院での出来事が頭をよぎる。もう、これ以上は何も思い出したくなかった。ゴミのように投げ捨ててきた過去が、今になって目の前に現れ、心を嬲る。思い出に翻弄されているような心地に、数馬はただ、怯えた。
 両手で髪を掴み、ギュッと握り締めた。いとも簡単にパラパラと髪の毛が抜けて、指の間にごっそりと引っ掛かった。栄養状態の悪さが影響している。数馬は恐怖に身を縮めた。目の前に迫っている死をはっきりと意識して、無我夢中で自らの体を腕で抱き締める。
 その時、不意にラベンダーの香りがふわっと漂った。腕に巻いたハンドタオルから匂っている。昨日受け取った荷物の中に入っていたものだ。竜児が染みこませてくれたエッセンシャルオイルだった。
「竜…児……竜児……」
 彼の名を呼びながら、数馬はタオルに顔を埋め、何度も深呼吸を繰り返した。ラベンダーの香りに抱かれるように、じっと落ち着いて呼吸を整える。
 落ち着け、落ち着くんだ……今日、ここへ来た目的を思い出せ……そう、自らに言い聞かせる。
 竜児が手を差し伸べてくれているような気がした。その幻に縋りついた。彼の手を握れば、周りの闇はすべて消え失せるような気がした。足元にまとわりついてくる、過去という名の亡者たちを、振り落とすことができると信じた。まばゆい光と芳香が自分を包み込んでいる。そんなイメージが彼の中に芽生えた。
 次第に、数馬は平静を取り戻した。呼吸も正常に戻りつつあった。あれほどうるさかった雨の音が、嘘のように止んでいる。
 縮こまっていた体勢を崩し、ソファの座面に体重を預ける。そのままソファに掴まり、数馬は立ち上がった。今夜中にやるべきことがある。ぐずぐずしている暇はない。
 迷彩パンツのポケットから煙草のボックスを取り出すと、数馬は使い捨てライターは持たずに、裸のままリビングを出て行った。

    *
 
 

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