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 数馬が目を開けた時、最初に見えたのは白い天井と黄色のカーテン。次に、傍らの椅子に座る竜児の姿だった。
「石黒……」
 心配そうに顔を覗き込んでくる。大きな目が赤く濁っていた。
 ここは病室のベッドの上なのだと、すぐに気づいた。右腕に点滴が刺さっていた。全身がだるく、重かった。寝返りさえ打てないような気がした。
「竜児……すまない。こんな…」
「気分、どう? もう苦しくない?」
 竜児はそっと数馬の手を握った。温かい手だった。
 数馬は無言で頷いた。そしてゆっくりと深呼吸してみた。発作さえおさまれば、何の問題もない。しかし薬を飲んでいたはずなのに、発作が起きてしまったことがショックだった。
 竜児の顔を見つめ、数馬は静かに口を開いた。
「発作、見たことなかったもんな……驚かせてごめん」
 竜児は首を振った。
「ううん、高校の時、一度だけある。石黒、一人で体育館の裏に行っちゃって……追いかけて行ったら、さっきみたいな感じで……びっくりして保健室の先生呼びに行ったんだ」
「そんなこと……あったのか」
「うん、先生連れて行ったら、もう石黒そこにいなかったんだ。で、説明したら、パニックなんじゃないか……って、教えてもらって」
「じゃあ、知ってたのか」
「うん。ごめんね」
「何で謝るんだよ」
「うん……」
 高校時代、一度だけ竜児に尋ねられたことがあったのを、数馬は思い出した。時々、苦しそうにしてるよね、と言われ、その時は確か、生まれつきだと答えた。
 本当は生まれつきではない。日本に来る直前ぐらいから始まった。予期せぬ時にいきなり発作が起きることもあったが、急激な感情の変化や大きな不安、多大なストレスなどに影響されることもあった。
 基本的には薬を飲んでさえいれば、そんな病気を抱えていることさえ忘れていられた。
「平気な時は、何年も起きないんだけど……」
「うん。俺ね、だからさっき、忘れてて……。心臓発作かと思っちゃったんだ。で、カーペンターズの……思い出して。死んじゃうと思って……」
「ああ…、そうか」
 摂食障害による闘病生活の中、心不全であっけなく死亡してしまった外国の歌手の話を、数馬も思い出した。おそらく竜児は、数馬が食事をしなくなった頃から、そのことを恐れていたのだろう。
 死の危険というものが間近に迫っていたのだと、数馬は改めて認識した。
「パニック障害だけだと、救急車ってあまり呼んだらいけないんだってね。でも今回は、発作より何より、拒食症の衰弱がひどかったみたいで……どうしてこんなに弱るまで、病院に来なかったんだって、叱られちゃった」
「叱られたって、お前が? …ひどいな、それも」
「うん。でもここ……ほら、俺が入院したところだから」
「あっ…」
 数馬は病室を見回した。カーテンが引かれていてベッドの周りしか見ることは出来なかったが、何となく見覚えがある気がした。
 以前、竜児が発砲事件に巻き込まれ、運び込まれたことがある。彼の継父である飯田が懇意にしている院長の病院だった。
「でも、通院してる心療内科があるなら、そっちにも話を通さなきゃいけないって。拒食症は、内科じゃないからって。できれば紹介状を書いてもらえればって言ってた。あ、後で先生がちゃんと説明してくれるよ」
「……明日、憲治さんと行くつもりでいたんだけどな」
「明日はまだ、起きられないと思うよ。数日は点滴打たなきゃダメだって。で、これからもちゃんと治療するなら、一度、主治医と相談してもらってから、改めて入院ってことになるみたい」
 数馬は黙り込んだ。数日、と言われ、胸を不安が覆いつくす。
「竜児。今、何時かわかるか?」
「5時だよ。夕方」
「俺の携帯……あるか?」
「あっ、ごめん。置いてきちゃった。急いで救急車、乗ったから……」
「そうか…」
「ごめんね。明日、持ってくるね」
「……」
 隼人からメールが届いたのは今日の午前中である。同日に連絡をしなくても、大丈夫だろうか……いや、大丈夫なはずだ……数馬は何度も自分に言い聞かせた。
 先日、数日間音信不通になっても、隼人は動かなかった。人の家に泊まっていて、連絡が出来ないことは伝えてある。一日くらいなら問題はないはずだった。
「あの…、それとも今、行って来ようか?」
 おずおずと竜児が申し出た。数馬の沈黙を、不機嫌と捉えたのかもしれなかった。
 竜児のあの画像さえ入っていなければ……と、数馬は歯噛みした。
 隼人のメールアドレスも電話も、偽名を使って入力してある。竜児に頼んで、今日中に事情を説明したメールを送信してもらえばいい。竜児は送信先が隼人だとは気づかない。 しかし、万が一、あの添付ファイルを彼が見ることになったら……それを考えると、数馬はどうすることもできなかった。
「いや、いい。明日……」
「うん。マグカップとか下着とか、持ってくるようにするね。あと、お箸も」
「でもお前、明日は仕事だろ」
「事務所のスタッフに頼むことになると思う。それでいいかな」
「ああ。仕方ないよ」
「ごめんね……」
 その時、扉が開いて、看護師が入ってきた。数馬に体温計を手渡して、熱を測らせながら一つずつ質問し、書類に書き込む作業を始めた。
 竜児は一度、席を外した。大きな扉をガラガラと開け、廊下に出る。
 廊下に出た途端、全身の力が抜けたように、竜児は壁にもたれかかった。安堵と共に感情が高ぶり、目頭が熱くなる。
「……はあ…」
 大きく息を吐いて、気を落ち着かせる。危険は通り過ぎたのだ。入院さえしていれば、もう倒れる心配もない。治療次第で、また食欲を取り戻すこともできる。
 竜児は何度か深呼吸をして、しっかりと立った。自動販売機で、飲み物を買ってくることにした。念のため、眼鏡をかけて帽子を被った。面会時間中で、廊下は見舞い客と患者が行き来している。無駄な騒ぎは起こしたくなかった。
 数馬が気絶してしまい、竜児は救急車を待つ間、耳元で彼の名を呼び続けた。本当に、死んでしまうと思った。パニック障害のことは考えもしなかった。
 救急隊員に、過呼吸やパニック発作の常習性や精神科への通院などについて質問され、ようやく竜児は数馬の持病を思い出した。
 更に竜児は救急車の中で数馬の摂食障害について説明した。一目見れば衰弱していることはわかる。そこで取り急ぎ、内科へと回されることになったのである。たまたまベッドの空きがあったため、無事にこの病院へ連れてくることができた。
(あんなになるまで放っておいたの……俺のせいだ。ちゃんと看病しなくちゃ)
 タンデムツーリングに出掛けるところだった、と口を滑らせたところ、医師は怒った。飯田が昔から世話になっている医師なので、竜児に対しても容赦がない。あんな状態の病人を後部に乗せるなど、狂気の沙汰だ。腕力などないに等しい。事故で死ぬところだった。そう怒鳴られた。
 そういう意味では、数馬が倒れてくれたのは怪我の功名だったのかもしれない。
 その話を、竜児は病室に戻ってから数馬にした。
「俺、ツーリングって聞いて舞い上がっちゃって。石黒の体のこと、全然考えないで……危なかったよ。ごめんね、本当に」
「行くって言い出したのは俺だ。お前はちゃんと心配してくれただろ」
 看護師がクランクハンドルで背の部分を上げたらしく、数馬は半分上体を起こしたような形で、ベッドに寄りかかっていた。竜児が手渡した紙パックのコーヒーを少しずつ飲んでいる。相変わらず、ドリンクなら受け付けるようで、竜児は少しだけホッとした。
「よくなったら、一緒に奥多摩まで走ろうね。富士山でもいいね」
「ああ、そうだな」
 数馬は竜児の顔を見て、目を細めた。
 目が落ち窪んでやつれている。頬もこけ、痛々しく痩せ細ってしまった親友の顔を見つめながら、竜児は黙った。こんなに青白い頬で、筋肉も衰えてしまった体で、数馬はまだ自分に対し微笑んでくれる。そのことが、竜児の胸を貫いた。
 竜児は無言のまま下を向いた。こみ上げてくる思いを、どうすることもできなかった。
「ごめんね。本当にごめんね。俺、毎日、来られたらいいんだけど……」
「無理に決まってるだろ」
「でも……前に俺がここに入院した時は、石黒、毎日来てくれたのに」
「あの時は俺、無職だったろ。ヒマ持て余してたんだよ」
「俺は……だめだよ、全然。全然、石黒の役に立てない。ずっとそばにいたいのに……明日だって来れない。最低だよね。それでよく友達面できるよね。一緒に住んでるのにね。何一つ、お前にしてやれない。何にも……できない」
 竜児の目から、涙がぽろぽろと零れ落ちた。無力な自分が許せなかった。流れる涙を止めることができなかった。両手で顔を覆い、声を詰まらせて嗚咽する。
「竜児、どうしたんだよ? お前らしくないぞ」
「石黒をね、元気づけたいのに……何もしてやれないから、俺」
「お前はいてくれるだけでいいんだよ。今日だって、無理して休み取ったんだろ?」
 肩に重さを感じて、竜児は顔を上げた。数馬が細い腕を伸ばし、竜児の肩に手を置いている。その手に自らの掌を重ね、強く握り締めた。
「石黒」
「…ん?」
「キス……してよ」
「……バカ言うな」
「本気だよ」
 竜児は数馬の手を握ったまま、その手を自分の胸に押し当てた。そのまま手の甲を愛撫するように、上から何度も摩った。
「竜児」
「石黒の……好きにしていいよ。今まで、……辛かったでしょ。俺、石黒のこと好きだから。何でも……大丈夫。だから……」
「……」
「お願い……何か、させてよ。石黒が、喜ぶこと……したいよ。じゃなきゃ俺、何の役にも立ってなくて……。坂本さんや、章吾さんみたいに、石黒を…助けてあげられなくて。俺の都合で、いろいろ振り回しちゃって……。こんなになるまで、何も……」
 涙が止まらない。しかし拭うこともせず、竜児は両手で数馬の左手を握り締めた。冷たすぎる手だった。どれだけ温めても、体温が通わない。そこに数馬との距離があるような気がして、竜児は痛嘆した。
 ゆっくりと立ち上がり、唇を寄せる。しかし数馬はそれを避けるように横を向いた。
 そのまま数馬はしばらく黙っていた。が、やがて、穏やかな口調で、
「俺を、バカにするなよ」
 と、言った。
「えっ…?」
「そんなことで……そんな、程度の低いことで俺が喜ぶと思ってるなら、……お前は俺をバカにしてる。俺はお前に、そんなくだらないことをしてほしいなんて、思わない」
「石黒、…わかってるよ。わかってるけど、でも……」
「セックスなんて、誰とでもできる。好きじゃない奴とでも。憎んでる奴とでもな。そんな……そこらへんの誰にでもできるようなことを、お前にしてほしいとは思わない。お前には……お前にしかできないことがある。俺はそれしか、求めない」
「俺は何もできないよ、石黒。現に、何もしてあげられてないよ!」
「お前がそう思ってるだけだ」
「そんなことないよ。役立たずだよ、俺…」
「俺はそうは思ってないから、気にしなくていい」
「気にするよ! だって俺、何もしてないもん! 何もできてないもん! 石黒の役に立てないで、足、引っ張ってばかりいて、一緒に住んでるのに……こんなことになっちゃって……俺のせいだよ!」
「いいかげんにしろよ!」
 数馬が怒鳴った。個室に響き渡るほどの大声だった。
 驚いて竜児が怯んだ瞬間、数馬は竜児の腕をグッと強引に引き寄せた。
「……石…」
 倒れ込んだ竜児の体は、正面からきつく抱き締められた。
「お前は俺のすべてなんだよ! 俺が……生きてる意味の! どうしてわかんねェんだよッ!」
 彼の痩せ細った体のどこにそんな力が残っていたのだろう。竜児は夢中でその身を抱きかかえた。力を入れたら折れてしまいそうな、脆い肢体だった。
「石黒……石黒……」
「お前がいるから生きられる。お前が好きだから! お前とずっと親友でいたいから……俺は、生きたいと思う…。それだけじゃダメなのか? わかんねェのかよ? お前じゃなきゃダメなんだよ。俺は、お前のためにしか生きられねェんだよ! お前がそばにいなきゃ……俺はこの世で一秒だって生きたいなんて思わねェんだよ! わかって……くれよ……」
「それでも……何か、したいんだよ……それも、わかってよ……」
「毎日……お前は、俺にいろいろ……してくれてる。それだけで、……俺は、嬉しい」
「何もできてないよ…」
「俺を見て、話をしてくれて……俺が困ってる時は……助けてくれる。俺のことを心配して、心を痛めてくれる……俺を……大事に、……思って、くれてる……」
「そんなの……当たり前だよ。何の意識もしてないよ。だって友達だもの」
「俺はその当たり前が……ずっと、欲しかったんだよ……」
「え……」
「当たり前のことが……ずっと、欲しかった……」
 同じ言葉を繰り返して、それきり数馬は口を閉ざした。竜児が何を言っても、もう答えなかった。
 無言のまま、じっと竜児を抱き締めている。数馬に抱かれながら竜児は、自分の体が彼の中に吸い込まれてしまいそうな気がした。絵の具のように溶け合い、一つに混ざり合うような錯覚に身が震える。
 重なった胸が、数馬の鼓動を竜児に伝えた。かなり動きが速い。大きな声を上げたせいで、興奮したようだった。たったそれだけのことで、こんなに息が上がってしまったことに、竜児は愕然とした。
 竜児は数馬の体を抱いたまま、ゆっくりと重心を移動させた。彼の体を床に戻してやるべく、軽く前から押す。
 数馬は力なく腕を外し、ベッドに仰向けになった。腕が上がっていたせいか、点滴のルートの中に血液が逆流している。
 その真っ赤に染まった管を竜児は見下ろした。数馬の体に流れている赤い血を、初めて意識した。頭がスッと冴えてくる。感情の乱れが少しずつ収まっていく。
 竜児は椅子に座り直し、大きく息を吐いた。
「石黒…、…ごめんね……」
「ああ。もう……いい」
「血が……」
「ん? ああ、大丈夫だ、こんなの」
 数馬は点滴を一瞥しただけで、特に気に留めなかった。
 その、いつも通りのクールな表情を見つめながら、竜児は記憶を手繰り寄せるように語った。
「俺…ね、前にピストルで撃たれた時……血がいっぱい流れて……」
「ああ……そうだったな」
「自分の体の中に、あんなに血が流れてるんだ、って……びっくりしたんだ。石黒にも、流れてるんだね……血が、いっぱい……」
「当たり前だろ。……生きてるんだから」
「そう……だね。当たり前だね」
 竜児はもう一度、優しく親友の手を握った。その手はさっきよりも、温もりが戻っていた。まるで、竜児の思いに応えるように。
「竜児」
「なに?」
「この先、何があっても……俺を信じてくれ。……頼む」
「当たり前だよ。信じるよ」
「……それだけで、いい…」
 数馬は軽く頷いて、静かに目を閉じた。

     *

 翌日、竜児は数馬の荷物を揃え、事務所の男性スタッフに託した。過去の入院経験から、必要な物はだいたいわかっている。
 病室で携帯電話は使用禁止だとわかっていたが、充電アダプターと共にバッグの中へ入れた。なぜか数馬は、殊更、携帯電話のことを気にしている。それが竜児には不可解だった。
(誰かにお見舞いに来てもらうのかな……。別に、いいけど…)
 電話で憲治に数馬の入院を伝えたところ、彼は幾分、ホッとした様子だった。家に置いている間も、やはりちゃんとした治療が必要なのではないかと、気が気でなかったらしい。時間を作って見舞いに行くと言われ、竜児も少しだけ安心した。
 撮影中も、数馬のことが頭から離れなかった。しかし入院したことで、彼がきちんとした看護を受けられるのは有り難かった。
 荷物を届けたとスタッフから連絡を受けて、数馬の様子がどうだったか尋ねた。紙袋を渡した途端、携帯電話と財布だけを確認して、他の物は見もしなかったという。相変わらず顔色は悪く、骸骨か死神のようだったとスタッフは口を滑らせ、慌てて何度も謝罪した。
 いきなりあの姿を見たら、そう思うのも無理はないと竜児は思った。
 夜に帰宅すると、数馬のいないリビングが淋しかった。独りで過ごすには、マンションはあまりにも広い空間だった。
 孤独に耐えかねて、竜児は何気なく数馬の部屋を訪れてみた。
 物は少ないが雑然としていて、お世辞にも片付いているとは言えない。高校時代から、似たようなものだった。
 当時、数馬が住んでいたのは、神保町の中古レコード屋の二階だった。古いロックやポップス、ジャズなどの名盤を扱っている店で、かくしゃくとした老人が一人で切り盛りしていた。
 竜児はずっと、そこが数馬の実家で老人は彼の祖父なのだと思い込んでいた。まったく血の繋がりがない他人だと知ったのは、ずいぶん後になってからだった。
 店の名前が[石黒]ではなく[川原レコード店]だったことは、常々不思議だとは思っていた。しかし、それを当時、数馬に尋ねることはできなかった。
 高校を卒業してから、そろそろ十年が経とうとしている。時の流れは速いものだ。
 ベッドに腰掛け、部屋の中を見回した。その時に竜児は、留守番電話のランプの点滅に気づいた。最近はあまり使用している様子のない、固定電話である。
「どうしよう……聞いちゃってもいいかな……」
 数馬のプライバシーを考え、竜児は迷った。しかし、もしも緊急の用事だったらと思うと、居ても立ってもいられなくなる。
 しばらく考えた末、竜児はメモ用紙を一枚用意して、再生ボタンを押した。録音時間は、今日の昼間だった。
『ああ、私だ…。ようやく落ち着いて、まとまった休みが取れた。金曜日の昼には成田に着くよ。新宿のホテルを予約したから、もし時間が合えばすぐに会いたい。また、電話するから』
 初めて聞く声だった。おっとりとした、優しい喋り方の男だった。それほど歳を取っている印象はなかったが、数馬よりはずっと年上だと感じた。
 竜児は内容を書き留めた。そして、少し困ったように眉を寄せる。
 名乗ってはいないが、おそらくドイツに住む数馬の身内だろう。金曜日と言えば明後日だ。それまでに数馬が退院できるとは思えない。どうしたら、この相手に入院先の病院を伝えることができるだろう。
 いずれにしても、勝手に行動することはできなかった。数馬に早急に伝えなければならない。本人なら電話の主が誰かも、相手の緊急連絡先もわかるだろう。
 病棟の公衆電話から定期的に電話をしてもらうように話せばよかった、と思う反面、点滴を打っている数馬にそこまでさせるのも忍びなかった。昨日はベッドの横に車椅子が置かれていた。おそらくは、病院内を歩くことも制限されているに違いない。
 明日、またスタッフの誰かに頼んで、このメモを渡してもらおう……そう思った時、不意に自分の部屋でけたたましく電話が鳴った。今日は固定電話によく連絡が入る一日である。
 竜児はメモ用紙を電話の上に置いた。そして慌てた動作で部屋を出て行く。僅かに風が巻き起こり、メモ用紙はひらりと床に落ちた。
 廊下を走ってリビングに入り、そこから自室へ駆け込んで、鳴り続ける電話の受話器を取った。
「もしもし? あっ、先生。どうしたんですか? ……えっ?」
 数馬が病院を脱走したという報告に、竜児は耳を疑った。

    *
 
 

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