「石黒くん、どうだったの?」
アクセルを踏み込みつつ、麻紀が尋ねた。竜児は暗い顔で俯きながら、力なく答えた。
「寝てました。だからちょっと顔見ただけで」
「そう。心配だね」
「ええ……」
なぜこんなことになってしまったのだろう……悲嘆に暮れながら、竜児は疲れたようにシートに身を沈めた。
夏頃から食欲がないとはこぼしていた。が、数馬にとってそれは毎年のことなので、竜児も特に気に止めていなかった。あの時にもっと真剣に考えていたらと、自分を責める。
素人考えで、精神的なことが要因なのではと思うものの、専門的な知識もないのに決め付けることも出来ない。
こんな時にそばにいてやれないことが腹立たしかった。自らの力不足が身に染みた。どうにかしなければと気ばかり焦り、結局何もできずに空回りしている。竜児は両手で顔の上半分を覆うように、頭を抱えた。
その様子を見て、麻紀が諭すように言う。
「あんまり落ち込むの、やめなさい。病気なんて、なってしまったらどうしようもないの。これからどう治していくか、それが大事なんだから」
「そ…そうですね。ごめんなさい…」
病気、という単語を出され、初めて竜児は気づいた。数馬は病気なのだ。調子が悪いというレベルではない。正しく病人として扱い、対応しなければならない。
先ほどの憲治の提案について考えてみる。竜児に気を遣って考えてくれたことだと思うが、無駄な手間が多すぎる。客観的に考えれば、午後と夜に送り迎えをするなど無意味だ。数馬の体力を考えたら、あまり不必要に動かすべきではない。このまましばらく、憲治のアパートに泊めてもらう方が負担が少ないだろう。
もちろん、夜遅く帰宅した時に、数馬が部屋にいたら嬉しい。そう竜児は思う。しかし、そのためだけに彼を坂本家と往復させるわけにはいかない。
調子が少しよくなったら、数馬は幡ヶ谷のマンションへ帰ってきてしまうだろう。そうなれば、なかなか腰を上げなくなるはずである。もともと彼は出不精で怠惰なところがある。一人で家にいたら、確かに彼は何も食べないはずだ。
店は休んでも、食べなければ意味がない。竜児がそばにいてやれない限り、憲治たちに任せる以外に方法がないのだ。
「麻紀さん」
決意したように、竜児は麻紀の横顔に話しかけた。
「なあに?」
「できるだけ早くがいいんですけど……俺、丸一日オフ取れないでしょうか」
「難しいことを平気で言うのね」
「来週、ラジオと雑誌取材だけの日、ありますよね。ラジオの収録、明日か明後日にまとめてやって、雑誌は何とか日時をずらしてもらって……」
「ドラマの収録が何時に終わるかわからないのに、その後にやるってわけ? あなた、ただでさえリスナーのメール全部読むから、収録以外でも時間かかるのに」
「徹夜になっても、ちゃんとやりますから」
「それに雑誌はインタビューだけならいいけど、グラビア撮影もあるのよ。スタジオの予約、キャンセルさせるつもり? キャンセル料、請求されるわよ」
「埋め合わせは必ず……」
竜児は拝むように掌を合わせ、麻紀に頭を下げた。
麻紀はしばらくの間、黙っていた。しかしやがて浅い溜め息をつくと、
「どうなるかわからないわよ。あまり期待しないで」
と、言った。
「ありがとうございます!」
「そのかわり……そんなハードなスケジュールの間は、家に帰れないからね」
「いいです、それで。坂本さんちに石黒を泊めてもらえないか、聞いてみます!」
竜児は目を輝かせた。対照的に麻紀は眉間に縦皺を寄せ、呆れたように首を左右に振る。
「ホントにもう……あなたも体が心配なのよ? ほとんど睡眠時間もない状態で」
麻紀の小言を受け流し、竜児は大きく息をついて、肩の力を抜いた。
とにかく今は、自分に出来ることをするしかない。時間がないなら作り出し、少しでも長く親友と過ごすことを考えよう。そう決意して、竜児は瞼を閉じた。
*
ふんわりと柑橘系の香りを感じて、数馬は目を覚ました。
部屋の中が暗い。デジタル時計の数字が緑色に光り、20時30分を示している。
数馬は手探りでベッドサイドテーブルのスタンドをつけた。ふと、目の前に置いてあるオレンジ色のハンドタオルに気がつく。
折り畳んであるタオルを手に取って広げると、グレープフルーツのような香りが漂った。先ほど、夢見心地で嗅いだ香りは、どうやらこのタオルに染みているらしい。エッセンシャルオイルを垂らしてあるのだろう。数馬は鼻を近づけて、淡い芳香成分を吸入した。
寝ている間に竜児がこの部屋へ来たのだ……数馬にはわかった。そして少し気を落とした。起こしてくれればよかったのに、と思う。
一時期、竜児はアロマテラピーに凝っていたことがある。その時に、よくこの香りを嗅いだ気がする。
『柑橘系の香りは食欲を増進するんだって。石黒、痩せすぎだからさ』
彼はそう言って、グレープフルーツやレモングラスのオイルをアロマポットの皿の上に垂らした。湯船に浸かる習慣のない数馬の手を引っ張り、半ば強引にオイル入りの風呂に沈めたこともある。
そんな日常を思い出し、数馬はハンドタオルを握ってフッと笑った。
その時、戸をノックする音が響いた。数馬が、
「起きてるよ」
と声を出すと、引き戸が開いて、廊下から憲治が顔を覗かせた。部屋の中へ入り、蛍光灯のスイッチを入れる。
「スタンドつける音、聞こえたような気ィしてな」
「今、起きた」
「ええ匂いやな」
「ああ」
憲治はデスクの下からキャスターつきの椅子を引っ張り出し、座った。数馬の顔をいろんな角度から眺め、安心したように小刻みに頷く。
「竜ちゃん、さっき来たんやで。とんぼ返りやったけどな」
「……」
「マネージャーさんにも挨拶したわ。えらい美人やな。彼氏おるんやろか」
「レズだぜ」
「あらら」
憲治は先ほど、竜児と打ち合わせた件について数馬に説明した。しばらく店を閉め、その間は憲治と章吾で食事の面倒を見る、と告げると、憲治が予想していた通り、数馬は嫌そうな顔をした。
「病人じゃねェもんよ。明日は帰るよ」
「そういうセリフは、たらふく食えるようなってから言え」
「だって、憲治さんだって俺のこと、邪魔だろ。そもそもあんた、今夜どこに寝るつもりだったんだよ?」
「隣にもう一部屋あるがな。仏壇置いてるとこや。そこに布団敷いて寝るわ」
「だったら、俺がそっちで寝るよ」
「ベッドの方が便利やん。何度も起きたり寝たりするんやから」
「……でも、……悪いよ」
「竜ちゃんも賛成してたんやから、ええやろ。ああ、それからな、今さっき、竜ちゃんから電話あってな。これから三日間は、あの子も家には帰れんそうや。何や、忙しいんやと。せやから、お前を竜ちゃんのおらん自宅に帰して餓死さしたら、俺らは未必の故意認定っちゅうわけやな。自分、俺と章吾を犯罪者にしたいんか?」
畳み掛けるようにまくし立てられ、数馬は黙った。口で憲治に勝てるわけがない。数馬はふて腐れたような顔をして寝返りを打ち、憲治に背を向けた。
「ガキか。ホンマ、しょーもない」
「……」
「ゼリー食えるか? 竜ちゃんが持って来てくれたんやけどな。お前のために、言うて」
「……食ってもいい」
「ほな、持って来るわ。ちょう、待ってて」
憲治は笑いながら立ち上がり、部屋を出て行った。
数馬はその間に、竜児にメールを打った。撮影中だったらしく、彼からきちんとした返信があったのは、夜が明ける少し前だった。
もっともその頃には数馬の携帯電話は充電が切れていた。液晶画面は日付が変わる前から暗いままだった。
*
孝弘はソファに深く腰掛け、さっきから携帯電話を耳に押し当てたままリビングをウロウロしている友人のことをじっと見ていた。
やがて隼人は諦めたように携帯を耳から遠ざけると、ボタンをピッと押して、発信を切った。苦々しそうに表情を歪め、吐き捨てるように言う。
「数馬の奴、また出やがらねえ。……逃げたか?」
午後に一回。そして現在、零時過ぎに一回。いずれも留守番電話サービスに繋がった。メッセージを残すほどのことでもないと、隼人はとっとと電話を切った。
「お店があるんだから、忙しいだけなんじゃないの……」
イライラした様子の隼人を見上げ、孝弘がおずおずと口を開いた。
この部屋に来るのは、あの晩以来だった。旧友の媚態を思い出し、孝弘は赤面した。シャンデリアの照明が暗いため、隼人には今のところ、その感情を気づかれずに済んでいる。
隼人は携帯電話を顎で閉じると、テーブルの上に置いた。
「チッ、まあいいか。いざとなりゃ、店まで出向きゃいいだけだからな」
「隼人…、もうやめようよ。REVENGEがどうなるかなんて、まだわからないんだし。勝手に移籍の話なんか決めちゃったら、後で必ず問題になるって」
「決めちまおうなんて思ってねーよ。俺は飯田プロやカムパネルラと繋がり持ちたいだけさ。最大手だぞ? ツテがあるとないとじゃ大違いだ。田島竜児と仲良くしとけば、いざって時に助けてもらえんだよ。義理堅いタイプだってのは、この前の一件でわかったしなァ。知り合い以上に昇格するためには、数馬に間に入ってもらうしかねーんだよ。数馬と俺たちが昔の仲間で、また一緒にバンドやりたいってことになれば、田島竜児だって俺たちのこと友達扱いすんだろうぜ。そうなりゃ移籍なんて簡単だ。どうせ、遅かれ早かれ、REVENGEは解散する。俺自身、続ける気がねーもんなァ」
「そんな……。シュウも弾さんも、隼人さえ真面目になれば解散なんて」
「あいつらはどうだっていい。問題は事務所だ。来年度から歩合だって言ってたのに、急にその話、白紙に戻しやがって。ドラマにまで出たってのによ。いつまでも安い給料でこき使われてたまるかよ」
「でも、隼人には作詞の印税だってちゃんと入ってるんだし、あまり高望みしても……」
「金だけの問題でもねーのよ。わかってんだろ。あんな事務所、いつまで持つと思ってんだよ。俺のくっだらねースキャンダル揉み消すのに金払ったってだけで、ネチネチネチネチうるせー会社だぜ? 俺だけ脱退させるなんて噂もあったみてーだし、全面的に信用もできねーって話さ」
「でも……、カムパネルラに移籍できるなんて、本気で……」
「本気半分、遊び半分ってとこだな」
隼人は孝弘の傍らにどっかりと腰を下ろし、白い歯を見せた。彼の言葉の意味がわからず、孝弘は不思議そうに聞き返した。
「遊びって?」
「数馬と付き合ってりゃ退屈しねえ。あいつを追い詰めんのが楽しいからな。……俺ァよ、孝弘。昔、ちょっと考えたことがあんだよ。あのバカが、どこまでダチのために自分を犠牲にできんのかなってよ。ノブにあそこまで嫌われても、秘密守り通した奴だぜ?」
「……そう…だったね」
「偶然、田島竜児とあいつがダチだってわかった時、そのこと思い出してな。試しにちょっとからかってみたら、バカみたいに何でも言うこと聞きやがる。そのへん、あいつは何も変わってねーよ。人なんか信じねえって顔して、自分よりもダチの方が大事なんてな。だから、ちょっと試してみたくなったのよ。見極めてやろうかと思ってよ。あいつが、ダチを捨てて自分を守り始める瞬間ってやつをな。どこまで痛めつけりゃダチを捨てんのか、知りたいんだよ」
「悪趣味……だと思うよ」
「ハハハッ、まァな」
隼人はソファの背もたれに寄りかかり、天井を見つめてクスクスと笑った。
複雑な思いで孝弘は、その表情を見つめていたが、やがて思い出したように、
「そうだ。昼間、何か電話してたけど……?」
と、切り出した。数馬の話を終わらせたいという思いもあった。
隼人は気のない素振りで、欠伸をしながら答えた。
「ああ、あれは変な記者? ってゆーか、ジャーナリスト? みたいな奴。前にちょっと会って……貸し一つあってよ。ちょっと話振ってるとこさ」
「へえ……」
「ま、それはまた後で話すわ。とにかく、今は数馬のバカと連絡取れねーと、どうしようもねーんだよなァ」
そう言うと隼人は、またイライラしたような態度でテーブルの携帯電話を取り、電話を掛け始めた。
孝弘は悲しそうに溜め息をついて、ポケットの中の手帳をギュッと握り締めた。
*
数馬が[イーハトーボ]で倒れた日から、数日が過ぎた。
三日間、数馬は、憲治の部屋のベッドの上で過ごした。まともな食事が取れないのは変わらないが、ジュースやゼリー、スープなどは少しだけ、受け付けるようになってきた。
憲治は午前中は家にいて、午後、外に出掛けることが多かった。原稿はダイニングテーブルにノートパソコンを置いて、数馬が寝ている時に書いているようだ。
時にはベランダに出て、燻製を作ることもあった。完成したベーコンやソーセージを数馬に味見させようという魂胆らしかった。口に入れても飲み込めないことがほとんどだったが、それでも憲治は食べようと努力した数馬を褒めた。
章吾は昼過ぎに起き、午後以降は数馬のそばにいて、あれこれ世話を焼いた。普段通っているというフィットネスクラブも、その三日間は休んでいた。
数馬は何度も寝たり起きたりしつつ、少しずつ体力が戻ってきているのを感じていた。
「だいぶ、顔色よくなったんちゃいます?」
そう章吾に言われ、鏡を見た。相変わらず頬はこけたままだったが、前よりも生気はみなぎっている気がした。
竜児とは、もっぱらメールで連絡を取り合っている。彼はこの三日間、ホテルで寝泊りしていた。昼間はほとんどメールの返信もなく、明け方に長い文面が届いた。
竜児に会えないのは淋しかったが、憲治や章吾と話していると、嫌なことを忘れていられた。隼人のことも、少年時代のトラウマも……。
主治医の藤原が、できるだけ友達と一緒に過ごすようにと指示した意味が、ようやくわかったような気がした。
隼人からは、何度か着信があった。しかし、憲治や章吾がそばにいる時に会話をするわけにはいかない。うまく独りになる機会を窺っているうちに、三日も経過してしまった。メールアドレスを聞いておかなかったことを後悔する。電話でしか連絡が取れない状態では、どうすることもできなかった。
まさか、ちょっと連絡が滞ったぐらいで、隼人が勝手に行動してしまうとは思えなかったが、数馬の胸の中では、いつも不安が渦巻いていた。
いつかは、例の返事をしなくてはならない。しかし、選択肢などないに等しい。
しかし今は、憲治たちに守られているのが心地よかった。事情を説明できない分、無意識に甘えてしまっているのかもしれなかった。
「何も考えんと、元気なることだけ考えや」
そう憲治に言われるだけで、数馬は安らかな気持ちになった。
そして、数馬がマンションを空けて四日目の夜。竜児から、憲治に電話が入った。
数馬はちょうど、章吾の部屋で格闘ゲームの対戦に付き合っていたところで、しばらくの間、そのことに気がつかなかった。
「数馬ちゃん、竜ちゃんからすぐ電話入るで」
章吾の部屋を訪れた憲治が、数馬に携帯電話を手渡した。憲治のベッドに置きっ放しにしていたものだ。
数馬が驚いたような顔をすると、憲治は、
「今、こっちで話しててん。お前の体のことやら、いろいろな」
と、微笑んだ。
しばらく待つと、憲治が言ったとおり、携帯電話がローリング・ストーンズの曲を奏でた。メロディアスな前奏が印象的な、初期のナンバーだ。
「あ…、竜児」
『石黒! 具合、どう?』
章吾は憲治に手招きされ、数馬に部屋を明け渡して出て行った。二人でゆっくり話をさせようという配慮なのだろう。
「だいぶ、よくなったと思う。心配かけたな」
『今、坂本さんに先に電話したんだよ。石黒はどうせ、本当のこと言わないと思って』
「チッ…。ガキ扱いだな」
『アハッ、今の石黒の保護者は坂本さんでしょ? いっぱい甘えた?』
「甘えてねェよ」
『坂本さんはね、まだ完全に自宅へ戻すのは心配だって……。もうちょっと食べられるようになってからの方が、って』
「……そうか」
数馬は少し、落胆した。が、仕方のないことだと思った。実際、ここへ来てからも、固形物はほとんど口にしていない。このまま何も食べられなければ、自分はどうなるのだろう……そんな思いが少しずつ、湧き上がってきた時でもあった。
『でもね、石黒。あの……俺、明日一日オフが取れたんだよ』
「……。……そうなのか」
『うん。だから明日、一日うちに帰ってこない?』
「あ、ああ。もちろん……そうする」
『そのまま居つかないように、また坂本さんに迎えに来てもらうけど……今度はちゃんと、着替えとかも持ってさ』
「そうだな」
『俺、まだ出先なんだけど。朝までには帰ってるから。坂本さんは、午前中に車で送るって言ってた』
「ああ、それでいい」
『じゃ、明日。楽しみにしてるね、会えるの…』
「……俺もだ」
『じゃあ、またね』
そう言って、竜児は電話を切った。
数馬はボタンを押して通話を終了させ、ゆっくりと二つ折りの携帯を閉じた。
煙草を捜したが、章吾の部屋にあるわけがない。数馬は立ち上がって、二人のところへ行こうとドアノブに手を掛けた。
「……」
不意に動作を止め、踵を返して部屋の奥へ歩を進める。ベランダへ出られるテラス窓の前に座り、数馬は再び携帯電話を操作した。
今なら、隼人に電話ができる。憲治たちは、数馬が竜児と長話をしていると思っているだろう。
数馬は急いでアドレス帳から隼人の番号を選び出し、発信した。本人が出なければ、メッセージを残しておけばいいと思った。
しかし数回の呼び出し音の後、聞き覚えのある声が電話口に出た。数馬は声をひそめ、
「隼人か」
と、尋ねた。
『ん? 何だ、逃げたんじゃなかったのかよ?』
笑いが混じった声で、隼人は感心したように言った。
「逃げたりしない。俺は……」
『昨日、店行ったんだぜ、新宿の。閉まってっから、絶対逃げたと思ったんだがな』
「今、……人の家に泊まってるんだ。だから、連絡ができなくて……」
『ホントかよ? 信じらんねーな』
「電話に出られなかったのが証拠だ」
『そんなことよりよ、例の話。電話じゃ何だから、お前今夜、顔出せよ』
「無理だ。今は……動けない」
『やっぱ、逃げてんじゃん。このままダラダラそうやって断って、適当にウヤムヤにするつもりだろ?』
「そんなつもりじゃ……。ただ、今は、……」
『あっそ。じゃあもういいよ、頼まねーよ。そのかわり、俺がアレ、どうしようと勝手だよなァ?』
「ま…待て。わかった…。でも、そっちへは行けない。どこか、外でなら」
『外ォ? お前、俺を誰だと思ってんだよ? 人目があるとこで話せっかよ』
「わかってる。けど……無理なんだ。行かれない…。でも、話はちゃんと……」
『しょーがねーなァ。じゃ、お前んちの近くまで車で行ってやるよ。それでいいだろ』
「……」
一瞬、数馬は黙った。憲治に何の説明もしていない以上、ここから抜け出すことはできない。が、自宅マンションに早めに帰ると言えば、朝までは時間が取れることになる。
『なァ、いいだろそれで。幡ヶ谷だっけ?』
「あ…ああ、わかった。それでいい。何時頃になる」
『一時ぐらいになるかな。いろいろ忙しくてよ。じゃ、後で電話入れるわ』
そう言うと、隼人はすぐに電話を切った。
数馬はホッと息をつき、その場で立ち上がった。とにかく連絡さえ取っていれば、最悪の事態だけは免れる。
数馬が今夜のうちに帰りたいと言ったら、憲治は間違いなく怪しむだろうが、今は他に方法がなかった。
それに憲治は、最初の日に少し自分を問い詰めただけで、その後は何も触れてこない。時折、物思いに耽るような顔で何かを考えているので、何か頭を使う仕事でも入ったのだろう。そう、数馬は決め付けた。
今夜、隼人との接触をうまくやり過ごせば、明日は一日、竜児と共に過ごせる。それだけを支えに、目の前の困難を切り抜けるしかなかった。
数馬は章吾の部屋を出て、二人のいるダイニングキッチンへと向かった。
「あの……、俺、できれば今、帰りたいんだけど……」
数馬がそう言っても、憲治は、
「そうか」
と言っただけで、特に驚きもしなかった。予想していたような顔つきで、小刻みに頷いている。
章吾は露骨につまらなそうな顔をした。夕食を楽しみにしていたらしい。数馬は罪悪感を払拭するため、食事だけはして帰ることに決めた。
もっとも、数馬は相変わらず食べ物が喉を通らなかった。口元には持っていってみるが、口の中に入れようとすると無意識に拒絶してしまう。
「数馬さん、無理せんでも……」
章吾の今にも泣き出しそうな顔を見ると、数馬はどうしようもない虚無感に襲われた。
諦めて箸を置き、味噌汁だけをゆっくりと飲む。味はわかる。美味だということもわかる。しかし、細かい野菜などが喉を通り抜ける段になると、説明のできない怖気が湧き上がった。食道が圧迫されるような感触に耐えられないのだ。
「憲治さん…。明後日、ここへ戻ってくる途中……病院に行こうと思う」
思い切って数馬がそう切り出すと、憲治は安堵したような表情で微笑んだ。
そして、食後しばらくしてから、数馬は荷物をまとめた。
数日振りに穿いたジーンズは、緩くなっていた。胴回りの筋肉が落ち、体が薄くなったような気がした。上半身裸のままでいると、窓から吹き込む風が寒く感じた。
アパートの階段を下りる時、足がガクガクと痙攣した。数日間、寝て過ごしただけで、思うように足が動かない。
一緒に車に乗って送りたいと拗ねる弟を、兄が部屋へ押し戻した。数馬はパワーウィンドを開けて章吾の名を呼び、軽く手を上げて挨拶を交わした。
運転中、憲治は取り立てて難しい話もせず、ただ、数馬の体調だけを気遣った。
数馬は妙な胸騒ぎを感じた。急に早く帰ると言い出した理由について、問い詰められると思っていた。普段の憲治なら、そばに章吾がいなくなった時点で、核心をついてくるはずだ。そう思うと、不気味な心地がした。
「竜ちゃんによろしゅうな。明後日、電話くれたら午前中、迎え行くわ」
「すまない。もう迷惑かけたくないんだけど……」
「そのへんの話は、病院行ってからやな。ま、けど、うちにおった方がええ。竜ちゃん、忙しいしな。明日も、無理して休み取ったんやろなぁ」
「ああ……。そうだと思う」
数馬は何気なく、腕時計に視線を落とした。まだ零時前である。約束の時間までには間がある。
世間話をしているうちに、車は幡ヶ谷へ到着した。
数馬は、章吾に借りたスポーツバッグを持つと車を降りた。
「ほな、またな」
数馬が拍子抜けするほどあっさりと、憲治は車を発進させた。
去っていくカローラを見送り、数馬は鍵を取り出し、オートロックを開けた。しかし、ふと思いついて、先に郵便ポストの中を確認した。
特に目立ったものは入っていない。音信不通の間に、隼人が竜児に郵便物を送りつけてきたらと危惧していたが、取りこし苦労のようだった。
改めて数馬は扉を開け、数日振りにマンションのエレベーターに乗った。
*
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