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 腕と肩の痛みが脳天に突き抜けて、数馬はハッと目を覚ました。枕代わりにしていた腕がいつの間にか頭から外れ、ぶらりと垂れ下がっている。眠りながら、痛みに耐え切れずに無意識にそうしたのだろう。
 この店のカウンターで眠ったのは久しぶりだ。以前はよく店を閉めた後に一人で飲んで、酔い潰れて眠ってしまったことがあった。しかしここしばらくは、あまりそうやって店に残ることはなかった。
 壁の時計を見ると、2時を指していた。睡眠薬を飲んだというのに、短時間で目が覚めてしまった。しかし眠れないよりはましだった。
 髭も剃らなければならないし、髪や体も洗いたい。今から新大久保の男性専用サウナに行けば、章吾が出勤する頃には戻って来られるだろう。
 軽い気持ちで、数馬はヒョイと立ち上がった。
 しかし次の瞬間、言いようのない嘔吐感が胸にこみ上げ、心臓がバクバクと早鐘を打った。そして頭が圧迫されるような感覚と共に、まるで腰が砕けたようにズシンと床に転倒した。
「……」
 何が起こったのか理解できなかった。数馬はその場に倒れたままの体勢で、一分ほど呆然としていた。
 目の前が真っ暗だった。目を見開いて何度も瞬きした。目を開けているのに前が見えないことに恐怖を覚えた。
 手をついて、立ち上がろうとする。しかし、腕に力が入らない。
 カウンターチェアに縋りつくように両手を乗せて、思い切り踏ん張る。が、下半身はまったく持ち上がらなかった。
「嘘だろ……」
 呟きながら、数馬は片膝を立て、重心を前に掛けた。しかし結果は同じだった。腰が抜けたように、立ち上がることができない。
 次第にドキドキと心拍数が上がっていくのがわかった。首筋などの外気に触れている部分が寒い。冷えているのに、額は汗ばんでいて熱を感じていた。
 数馬はもう一度、カウンターチェアにしがみついて力を込めた。時間をかけて少しずつ、膝がフローリングから離れた。しかし直後、数馬はバランスを崩して床に倒れ込んだ。
「チッ…」
 舌打ちをして、何度も同じことを繰り返す。足腰が立たないなど、有り得ないことだと思った。しかし焦れば焦るほど、体に力が入らなくなる。どうすることもできず、数馬は諦めたように壁に寄りかかった。
 おとなしく動かずにいると、徐々に目の前が見えてきた。しかし全体に霞がかかったようにぼやけて、世界が揺れ動いているように見えた。同時に激しい吐き気がして、数馬は手で口を覆った。
 その時、ドアベルが鳴った。
「兄やんの言うとおりや。数馬さん、もう来てはる」
「ほな、俺の勝ちな。風呂掃除一回やで」
 和やかに話しながら扉を開けた兄弟は、店内の様子を見て仰天した。
「数馬!」
「数馬さん!」
 慌てて憲治と章吾は、床にへたり込んでいる数馬に駆け寄った。
 顔面蒼白で、目の焦点が合っていない。僅かに瞳が揺れ動いていた。一目で、眩暈を起こしたのだとわかる。
「数馬ちゃん、どないした? 大丈夫か」
「あ…ああ、大丈……」
「また、あの発作か」
「違う…。でも、立てない。立てないんだよ……」
 悲愴な表情を数馬は見せた。憲治の顔を見たとたん、安心したように感情が高ぶる。何もかもすべて説明して、助けを請うことができたらどんなに楽になるだろう。
「数馬さん……ボク、いつ倒れるんかと心配で……」
 章吾が後ろから、泣きそうな顔で覗き込んできた。竜児だけでなく、章吾にも心配をかけてしまっていたことに、数馬は罪悪感を覚えた。もちろん気づいていなかったわけではないが、他人のことまで気が回らなかった。
「病院、行くか。救急車がええか?」
「いや……病院は、いい。しばらくここで休めば、治る」
「あかん。ベッド寝かせる。病院行かんなら、うち連れてくわ。ええな?」
「そん…な、悪い……」
 数馬が口ごもっている間に、憲治はさっさと数馬の背中と膝の下に腕を差し込み、抱き上げた。着やせして細身に見えるが、数馬よりもずっと体格はいい。
「章吾、ドア開けて。あと、通り出てタクシー拾て。それから……」
 憲治は章吾に小声で耳打ちした。
「はい!」
 章吾は指示どおりにドアを全開し、ストッパーを挟み込むと外の階段を駆け上った。新宿通りへ走り、タクシーを捜し始める。
 ドアを抜けた憲治は、そのままゆっくりと階段を上りながら、数馬に話しかけた。
「最近、オーダー間違えるわ、グラスは割るわ、しょーもないて章吾に聞いてな。様子見に来とったんや」
「……だと、思った」
「ホンマ、しょーもない。何でこないなるまで相談せんのや。何抱え込んでるんか知らんが、ホンマにアホなやっちゃな。そない俺が信用できんのか。ホンマ、しょーもない」
 数馬はクスッと笑い、消え入りそうな声で、
「そんなふうに怒ってくれるの、あんただけだ」
 と、言った。

     *

 一人で歩けると言い張る数馬を強引に抱き上げて、憲治はアパートの二階の部屋まで上った。自室のベッドに寝かせたところで、ようやくホッと一息つく。
「重かっただろ。……済まない、こんな世話…」
「重ないっちゅうねん。お前、今何キロや。そこらへんの女より軽かったわ」
 タオルで汗を拭きながら、憲治は軽口を叩いた。そして、
「何ぞ飲むか?」
 と、尋ねる。
 数馬はふた呼吸の間、考えた。昨日まで、コーヒーなら飲むことができた。しかし今日、店に帰ってから今まで、一度も飲みたいとは思わなかった。それは今も、である。
 数馬が答えられずにいると、憲治は部屋を出て、勝手にキッチンで湯を沸かし始めた。
 それから別室でラフなジーンズに着替え、再びベッドの脇へ戻ってくる。
「もう沸いてるぜ」
 コンロのヤカンを指差して数馬が教えると、憲治はチラッとキッチンを見やって、すぐに向き直った。
「白湯作ったるから。お湯、半分ぐらいまで煮るんがええねん」
「ふーん…」
「水分補給はせんとな。メシは食えへんでも」
「どうして、食ってないってわかる?」
「お前、鏡見てへんのか? ごっつ、やつれてんで。食うてたら、そないならへん。男前が台無しや」
「ああ……そうか」
 数馬が納得した時、玄関の扉が開き、章吾が荷物を抱えて入ってきた。もともと本人が出勤時に持っていたスポーツバッグを肩から下げ、腕に数馬のジーンズを畳んで手にしていた。
「数馬さん、大丈夫ですか」
 章吾はいったん店に戻り、カウンターの上に置きっ放しだった数馬の物を持って、施錠してから一人でタクシーを拾ったのだった。
 数馬は章吾の姿を見て事情を把握し、ベッドの上から弱弱しく手を伸ばした。
「煙草……、取ってくれないか」
「ええんですか? 煙草吸うて」
「ああ」
 章吾は自分のスポーツバッグの中に詰め込んだ小物類をすべて出した。その中からラークとジッポーライターを数馬に手渡す。
「臨時休業て、紙貼ってきましてん。独断ですんません」
「いいさ。どうせシェーカーも振れない。今日は」
「何ぞあったんですか?」
「あ、いや。別に……」
 数馬は上半身だけ起き上がると、ラークを一本取り出した。条件反射のように、章吾がライターで火をつけた。兄のデスクの上の使い捨てライターである。
 憲治はキッチンでコンロの火を消すと、用意しておいたマグカップに湯を注ぎ入れた。
 シェーカーが振れない、という言葉に引っ掛かりを覚えた。数馬と付き合って長いが、彼はそのような発言をしたことはなかった。仕事が面倒臭いとか、今日は店を開けたくないとはよくこぼすが、その手の怠け癖とは種類が違うような気がした。
 やはり、数馬はいろいろと隠し事をしている。それをどうやって問い質すか、憲治はずっと考えていた。
「数馬ちゃん、ここ置くから。冷まして飲んでな」
 ベッド脇のテーブルにカップを置いた憲治は、ついでに灰皿もそこに並べた。
 章吾は床に正座している。憲治は仕事机のチェアに腰を下ろし、数馬の顔をよく観察した。頬がげっそりとこけて、ひどい有様だった。
 おそらくはもう何日もまともな食事をしていない。その状態で、急に食事をさせるのは危険だと思った。温かいものを少しずつ飲ませて、様子を見るしかない。場合によっては早急に医師に診せる必要があるだろう。
「ありがとう。二人とも……助かった」
 煙草の煙を吐き出して、数馬は軽く頭を垂れた。
「早いかな思てんけど、行ってよかったですわ」
「虫の知らせ言うんかな」
 章吾と憲治が口々に言う。
 数馬は頭こそ下げたものの、しばらくの間、煙草を吸いながら黙っていた。何も説明する気はないらしい。
 痺れを切らして憲治は、さりげなく章吾に言いつけた。
「章吾。済まんけど、ドラッグストアで栄養ドリンクとビタミン剤、買うてきてくれへんか」
 とにかく栄養を補給させなければ、という思いがあった。ついでに、弟に少しだけ席を外してほしかった。
 兄の考えを察したように、章吾は立ち上がり、すぐに外へ出て行った。
 憲治はしばし無言で、数馬を見据えた。彼も追及されることを予想してか、緊張した面持ちでいる。
「数馬ちゃん」
「ん……?」
 わざと気のない素振りで、数馬は視線を逸らした。
「誰と連絡取り合うてるんや?」
「どういう意味だよ……」
「服も着替えんと、竜ちゃん迎えに出てったそうやな。誰に呼ばれた?」
「……あんたに、そのうち聞かれると思ってた。章吾から聞いたんだろ」
「おかしいやろ、普通に考えて。そないな行動はとるわ、メシも食わんでやつれるわ。関係あらへん、とは言わせんよ」
「……」
 数馬は黙り込んだ。煙草を灰皿で揉み消し、替わりに白湯を一口含む。
「竜ちゃんが巻き込まれてる事件やったら、自分、必ず俺を頼るはずや。俺の名前、合言葉にしたあの時みたいにな。せやのに今回、なーんも俺に言うてけぇへん」
「あんたには関係ない」
「関係ない言うて一人で悩んで、制服のまま飛び出してったり、店で倒れたりすんのか。こない痩せて、どないすんねん。死にたいんか」
「章吾に迷惑かけてるのはわかってる。でも……」
「このままやと、結果的に竜ちゃんに一番、迷惑かけることなるで。それが嫌やったら早よ……」
 そこまで憲治が喋った時、数馬の携帯電話が着信メロディを奏でた。先ほど章吾がバッグから取り出し、床に置いたものである。畳まれたジーンズの上で、黒い端末の一部が光を点滅させていた。
 憲治はそれを拾い上げ、数馬に手渡した。
 それを受け取った数馬は、チラリと液晶画面を一瞥すると、軽く舌打ちして、鳴り続ける電話を枕元に置いた。
「出ぇへんのか?」
「別にいい」
 数馬は俯いたまま、留守番電話サービスに切り替わるのを待っている様子だった。前髪のせいで表情は窺えなかったが、顔色は悪かった。
 憲治はその態度をいぶかしんだ。誰からの着信なのか、知る必要があると思った。
 しかし、そのメロディが途切れた直後、三十秒と空けずに、今度は憲治の携帯電話が着信を告げた。仕事用に使用している銀色の携帯だ。
「ちょ…、すまん」
 憲治は端末を手に取ると、発信相手も見ずに、奥の部屋へと急いだ。
 部屋に一人残された数馬は、枕元の携帯を開いて、もう一度先ほどの着信のデータを確認した。履歴には、隼人を示す名が記されていた。万が一のことを考え、架空の名前で登録してある。
 数馬は奥の部屋を気にしながら、ボタンを操作し、その番号に発信した。が、相手は通話中だった。諦めて電話を切り、操作ロックしてから枕元に戻す。
 二本目の煙草をくわえ、火をつけた。そのままジッポーの蓋をカチャカチャとせわしなく開け閉めする。
 隼人は昨日の答えを早く聞きたいのだろう。しかし数馬はまだ迷っていた。
 憲治の厚意に甘え、すべてを打ち明けて楽になりたいと思った。憲治なら、自分よりも正しい判断をしてくれるかもしれない。今後の行動についても、的確なアドバイスをしてくれるはずだ。
 しかし章吾のことを思うと、どうしても先へ進めなかった。
 まだ頭がフラフラとしていた。数馬はマグカップをサイドテーブルに置くと、横になって枕に顔を埋めた。
 やがて玄関のドアが外側から開いて、白いレジ袋をぶら下げた章吾が帰ってきた。ダイニングキッチンの扉も憲治の部屋の引き戸も開いたままなので、数馬のいる場所からも姿がよく見える。
「あれ、兄やんは?」
 スニーカーを脱ぎながら、章吾はキョロキョロと周囲を見回した。
「向こうで電話してる」
「あ、なるほど」
 真っ直ぐに章吾はベッドのそばへ来て、袋を床に置くと、数馬の傍らに膝立ちになった。
「タオルケット、掛けますか? 寒ければ、布団出しても」
「いや、大丈夫だ。上に掛けると暑い」
 仰向けになったまま片膝を立てている数馬は、店で倒れた時よりは幾分、表情が柔らかくなっていた。章吾は少しだけ胸を撫で下ろす。
 章吾は買い物してきた袋の中から栄養ドリンクを取り出し、マグカップの脇に置いた。
「飲めるようなら、今……」
「ああ…、少しなら」
 数馬はドリンクの瓶を掴むと、左手でキャップを開けようとした。その瞬間、激しい痛みが上腕部に走り、ポロッと瓶を取り落とす。
「……っ」
「数馬さん」
 章吾が慌てて瓶を拾い、キャップを開けてやった。数馬は片手で腕の付け根を揉みながら、上体を起こしてドリンクを受け取った。
「すまない…」
「ホンマ、大丈夫ですか? 病院、行った方がええんじゃ……」
 章吾はオロオロした様子で、憲治が戻ってくるのを待っている。数馬は手を差し伸べ、軽く章吾の頬をつねるように摘んだ。
「大丈夫だって……言ってるだろ」
「ホンマに……?」
「ああ。でも、心配かけて申し訳なかった」
 数馬は優しく章吾の腕に指先を滑らせると、ドリンクを少しだけ口に含んだ。
 その時、奥の部屋から憲治が戻ってきた。サッシを閉める音がしたので、ベランダで話をしていたのだろう。
「お、章吾ご苦労さん。数馬ちゃんは……と、飲んどるな、ちゃんと」
 数馬はチラリと憲治の顔を見た。無表情で、特にさっきの数馬に掛かってきた電話のことを気にしている様子もない。
 憲治はデスクの上に携帯電話を置くと、チェアに腰を下ろし、セブンスターを一本くわえた。黙ったまま、唇の間に挟んだ煙草を指でしごいている。
「憲治さん」
「ん? どないした?」
 数馬の声に、視線を上げる。仰向けのまま憲治の顔を見つめている彼と目が合った。
「仕事……いいのか? 俺、邪魔だったら…」
「かめへん。それより、自分の体のこと考えや。食えそうなら何ぞ作るし。食えへんのやったら、食えるようなるまで、ゆっくり休むことや」
「わかってるけど……」
 塞ぎ込んだように、数馬は横を向いた。
 そのまま三人は取りとめのない話をしていたが、次第に数馬の言葉が途切れるようになった。うとうとと彼がまどろみ始めるまで、それほど時間はかからなかった。
 憲治と章吾は軽くタオルケットを掛けてやり、そっと引き戸を閉めて部屋を出て行った。
 それから二時間後。
 兄弟がダイニングテーブルに座って話をしていると、コンコンと小さくドアを叩く音があった。
 近くにいた章吾が椅子から立ち上がり、そっと玄関を開けた。
 そこに立っていたのは竜児だった。階段を駆け上ったのか、僅かに肩を上下させている。
「ごめんなさい。インターホンちょっと……もし寝てたら、と思って……」
「どうぞ、竜児さん。今、数馬さん寝てますんで静かに」
 やや事務的な態度で、章吾は竜児を中へ通した。憲治が椅子から立ち上がり、客人を迎える。
「早よ来れたんやな」
「はい。ちょっと時間が空いたから……でも、三十分ぐらいで戻らなくちゃいけないんです」
[イーハトーボ]を出る時、憲治が章吾に言いつけた。タクシーを拾った後、章吾は指示通りに店内へ戻って、携帯から竜児に連絡したのである。
「数馬、寝とるから。ちょう、様子見るか?」
「はい」
 竜児は手土産を章吾に手渡すと、憲治が指し示した部屋の引き戸をそっと開けた。
 忍び足で部屋に入り、竜児は息を殺して数馬の顔を覗き込んだ。横を向いて丸まり、死んだようにぐっすりと眠っている。あまり寝息も聞こえない。タオルケットは足元に丸まっていた。
 朝、電話で話した時は、何も心配ないと言っていた。それは、自分に心配をかけないための嘘だったのだ。そのことに、竜児は軽いショックを受けていた。
 一体何があったのか。何が彼をこんなに追い詰めているのか。起こして問い質したい気持ちをグッと堪え、竜児はポケットから折り畳んだハンドタオルを取り出し、枕元に置いた。そしてそっとタオルケットを数馬の体にかけてやった。
 音を立てないように引き戸を閉め、廊下からダイニングキッチンに戻る。紅茶の香りが漂っていた。章吾が竜児に背を向けて、ティーカップを準備している。
 椅子に腰を下ろした竜児を安心させるように、憲治が口を開いた。
「栄養ドリンク飲んで、眠るんに必要なカロリー取れたみたいでな。コロッと寝たわ」
「そうですか…」
「何があったんか、竜ちゃんのわかる範囲で教えてんか?」
「ええ。実は……」
 竜児はまず、数馬の母がドイツで他界したことを二人に告げた。それ以来、数馬は目に見えて調子を崩しているのに、本人は関連性を否定している。
 もともとあまり食べる方ではないが、まったく食べられなくなったのはここ数日で、最初は数馬自身も戸惑っていた。
 取り急ぎ、その二点が気になるところだった。竜児は深く項垂れて、蚊の鳴くような声でそう話した。
「本当に全然食べなくて。注意はしてるんですけど、あまり強く言えなくて……」
 憲治は火のついていない煙草をくわえながら、遠慮がちに尋ねた。
「誰かと会うてる感じはない?」
「えっ、それは……会ってると思います。誰かと……あの、朝、帰ってくることも多いですし」
 竜児はチラッと章吾の表情を窺った。章吾は下を向いたまま、落ち着かない様子で足をぶらぶらとさせ、体を揺らしている。
 すぐに戻らなければならないという竜児を前に、憲治は取り急ぎ、今後のことを話し合うことにした。質問は山ほどあるが、一つ一つ消化する暇がない。
「竜ちゃん、今、章吾とも話しとったんやけどな」
「はい」
「しばらく店、閉めたら」
「あっ、もちろんです。石黒がよくなるまで……」
「それやったらな、話早いねん。章吾ヒマなるから。夜、数馬ちゃんこっち来させて、面倒みたろかと」
「えっ? こ…ここに…ですか?」
「芸能人の家に俺らが毎日おるわけいかんやろ。せやから、午後、車で数馬迎え行くから。うち連れて来てメシ食わすなり、寝かせるなりして。竜ちゃん帰る前に、また送って」
「そんな! そんなお世話になれませんよ……」
 竜児は右手を顔の前で左右に振った。しかし憲治は決断を迫るように、身を乗り出してくる。
「ほな、治るまでうちに泊めるか? そんなん嫌やろ?」
「そ、それは……」
 竜児は言葉を濁した。確かに、憲治の話は名案である。店を休業することで、章吾の時間が空くのは当然のことだった。
 しかし、他人にそこまで世話を掛けるのも不本意だった。とは言え、毎日自宅に来てもらうのも忍びない。章吾を信用していないわけではないが、住人である竜児としては、留守中あまりいい気持ちはしない。
「数馬ちゃん、どうせ家におっても何も食わんよ。俺らが口元まで持ってってやらんと」
「そうですね……でも……迷惑じゃ……」
「そんなん、気にせんといてや。大阪人の世話好き、舐めたらあかんで」
「でも……」
 竜児は迷った。
 その時、テーブルの上の携帯電話がブルブルと振動した。竜児は液晶画面を見て、がっかりした。三十分、適当に走ってくると言った麻紀が、もう戻ってきたようだ。
「すみません。もう行かないと……マネージャーが下に来たみたいです」
「ほな、下まで送るわ」
「あ、あの」
 バッグを持ち、竜児は憲治の顔を見つめた。
「石黒に……聞いてみてくれますか。彼がそれでいいなら、俺は……」
「ん。わかった。相談して、連絡するわ」
「すみません。お世話になります。……章吾さんも、ありがとう」
 深々と頭を下げられ、章吾は恐縮したように無言で会釈した。
 憲治は竜児の後について、玄関を出た。階段を下り、車のそばまでついて行く。
「残念やったな。起きてたらよかってんけど」
「いえ。休んでくれてる方が……。あとは、食べてくれれば、問題ないんですけど……」
「消化のええもん作るわ。俺も今は、でかい仕事抱えてへんし」
「本当にすみません。あの…服まで貸していただいちゃって。お世話になりっ放しで」
「……服? 貸してへんよ?」
「えっ? でも、あのスウェット……そうですよね?」
「……」
 竜児は不思議そうに首を傾げた。憲治は黙ったまま、じっと竜児の次の言葉を待っている。
「石黒は、ああいう感じのは持ってませんから……てっきり、坂本さんのだとばかり」
「……ああ、き…気にせんでええて。あんなもん」
「あっ、やっぱりそうですよね? あの…後でちゃんと、部屋で着る服とか持ってきますから」
「かめへんよ。長なるわけちゃうし。適当なん着せるから。ほな。気ィつけて」
「ありがとうございました」
 竜児は何度も頭を下げ、車に乗り込んだ。車はそのまま、青梅街道方面へと走り去っていった。
「……」
 憲治は階段の手すりに寄りかかりながら、暗くなり始めた空を仰いだ。
 様々な事実を糸で繋ぎ合わせてみる。数馬の物ではないスウェットパンツ。シェーカーが触れない、という言葉。数馬の携帯に掛かってきた電話。それが切れた直後に自分に掛かってきた電話の相手。竜児の携帯電話から掛かってきた、誰かからの電話……。そして、竜児を迎えに数馬が飛び出して行った夜……。
 頭の中で、一つの仮説が作られていく。数馬の摂食障害の理由はわからなかったが、彼が隠していることについては、形がはっきりとしてきた。
 階段を上りながら憲治は、さっきの電話での会話を思い出した。あの悪知恵にたけた男の目的が、おぼろげながら見えた気がした。

    *
 
 

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