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 数馬の両足を拘束していたベルトを解きながら、隼人は言った。
「おとなしくしてりゃ、天国に行けたのによ。お望みなら、地獄を見せてやるよ」
 数馬の尻の割れ目にトロトロとローションが垂らされた。冷たい感触に声を上げようとした彼は、一瞬、息が詰まった。
 呼吸をするための空気穴がない上、かなり大きなサイズのボールである。口ではほとんど息ができない状態だ。
「おっ…あ、が、がっ…」
 獣のような声と共に、ポタポタと大量の唾液が垂れる。顔の目の前に両手があった。左右の肘から手首までが密着した状態で束ねられ、縛られている。その、自由を奪っているガムテープの上に、唾液が水溜りを作っていく。
 隼人はバスタオルを畳んで数馬の顔の下に敷いた。ちょうど、腕と顔の間にタオルが挟まったような形になった。数馬は布地に顔を押し付け、とめどなく顎を伝う唾液を拭いた。
 衣服を脱ぎ捨て、隼人は強引に数馬の背後からのし掛かる。ローションを擦り付けるように指で伸ばし、谷間に指を滑り込ませた。硬く窄まった恥孔を揉みほぐすように、指先に力を込めた。
「二度と、野郎なんかとしねーつもりだったんだがな」
「ぐっ…あっ、が…」
「後でフェラしてもらえりゃよかった。ホントだぜ? でも……しょーがねーよなァ」
「ああっ…はがああっ……」
 体内を指で掻き回される不快感を、必死で数馬は堪えた。呼吸を整えていなければ、すぐに息が詰まってしまう。しかし腸壁を嬲る力は強く、数馬にくぐもった悲鳴を上げさせるには充分だった。
 やがて隼人は指を抜き取ると、別のものを窄まりに押し当てる。硬く閉まった門を容赦なくこじ開けるように、腰を前に進めていく。その動作には、一片の迷いもなかった。
「あっ…あっ、が…っ!」
 大きく張り詰めた剛直に粘膜を突かれ、数馬は前方に逃げようとした。しかし腰を両手でしっかりと捕まえられ、ズルズルと連れ戻される。
「てめーが悪いんだぜ。俺をその気にさせちまったんだからなッ!」
 怒鳴るように言葉を弾き出し、隼人は力任せに数馬の尻を引き寄せた。巨大な亀頭が先端だけ、秘門の中に埋まった。
「あがああああっ! や、や、あ……あっ、はああっ!」
「痛いか。痛いだろーなァ、太いからな。でも許さねえ…」
「あっ…あぁ、がっ、が…」
「オラ。お前が望んだ地獄だろ? もっと苦しめよ」
 あざ笑いながら、隼人は少しずつ猛根を沈めた。大きく外側に張ったカリ首で、狭い肉穴を残酷に犯す。ろくにほぐしもせずに詰め込むには、あまりにも太い肉塊だった。
「ああ……あ、かはっ…ん、がっ…」
 自分の腕に額を擦りつけ、全身を痙攣させながら、数馬はじわじわと拡張される痛みに耐えた。喉から絞り出される声を、何とか抑えようと努力した。
 いくら体を強張らせても、侵入してくるモノを止められないのなら、自分から受け入れた方がダメージが少ない。咄嗟の判断で数馬は、下半身の筋肉を緩めた。
 同じように、男のペニスを自分から飲み込んだことなど、何度でもある。
 一番最初は、いつだったのか……無意識にそれを思い出す。忘れていた記憶が、徐々に甦ってきた。
 太過ぎるほど太い男根が、幼い体を串刺しにした。初めての相手は、さんざんペニスをしゃぶらされた継父ではなく、どこの誰とも知らない男だった。家に何度か出入りしていただけの、醜く太ったやくざ者だった。
 そこまで思い出した時、一気に隼人のモノが根元まで突っ込まれた。
「はがアアアッ!」
 声を上げるしか、その場の苦痛から逃れる術はなかった。しかしボールが邪魔をして、大きな声は出せない。喉がじんと痛み、息が苦しくなる。数馬の呼吸に合わせて、肛門が勝手に収縮を始めた。直腸の奥深くまで挿入された異物を追い出そうとしている。
「すげ……締まるっ…」
「が、がっ、あがああ……っ、や、やあぁ……やっ、あ、あっ……」
 窮屈さを味わうように、隼人は肉棒をゆっくりとピストンさせた。菊門の縁から直腸が外に引きずり出され、ぬらぬらと光っている。それを中へ押し戻すように、残酷に腰を押し進めた。
「ああっ…、やっ、あぁ、お、おぉ……」
「ケツ振れよ。髪振り乱してヨガれ。俺ァ、ホモじゃねーんだよ。刺激してくんねーと、いつまでも終われねーだろうが」
 隼人はピシッと掌で裸の尻を叩いた。数馬が自分で動き出すまで、何度も繰り返し、引っぱたく。臀部の右側だけが赤く腫れ上がっていく。
「へへっ、どうよ? 憎んでる奴に、お尻ペンペンされる気分はよォ」
「お、おごっ……ぉあ、あっ……ああっ……」
 屈辱感が込み上げてきた。数馬は硬いボールギャグに歯を立てて、悔しさを噛み締めた。
 初めての時も、こんな思いを味わわされたような気がした。忘れていた光景が次々と脳裏に浮かび上がってくる。
『言うことを聞かないから叩かれるんだ。ほら、もっとちゃんと入れさせろ!』
 泣いても許してはもらえなかった。大きな手で口を塞がれ、嗚咽さえ漏らすことができなかった。継父が隣の部屋で寝ている間の出来事だった。
『最後まで大声をあげなかったら、メシを食わせてやるから。ほらっ、ほらっ!』
 ぽろぽろと流れ落ちる涙。呼吸ができない苦しさ。肉穴を蹂躙される気持ち悪さ。体が真っ二つに裂けてしまいそうな激痛。すべてがリアルな臨場感と共に甦る。
「あっ……はぁ、はぁ……」
 ゆっくりと数馬は腰を使い始めた。尻の穴を緩めて開放し、深奥まで挿入を許した。
「そうそう。やる気になりゃできんじゃん」
「……、……っ、……」
「もっとヨガり狂えよ。あの時みてーによ。悶えまくって、奥までくわえ込むんだよ!」
「はっ、はが……ぁっ!」
 抱えられた腰を揺さぶられ、数馬は頭を左右に振る。汗で背に貼り付いていた長い髪が乱れた。金色や栗色が混じり合った毛束が揺れ動く様は、隼人の目には神々しいほどだった。
 数馬はもう、痛みも感じなかった。射精を促すための動作を行うだけだった。口元からしどけなく流れ落ちる唾液を、タオルで拭う余裕もなかった。
 カリ高の先端が、無防備な腸壁を摩擦する。最大限まで開ききった後孔は、根元まで肉刀を受け入れ、不規則な収縮を繰り返していた。
 痺れるような感覚が、少しずつ数馬を包み込んでいく。頭の中が蕩け、恍惚が全身を飲み込んでしまう。ぶるぶると皮膚が震えて、快感に総毛立っている。
 心は拒否しても、体は感じている。ゲイであるが故の習性で、肛門性交の快楽には耽溺してしまう。普段は攻める側に回ることが多い数馬だが、アナルセックスの受身になることもなくはない。当然、淫らなホールは開発されている。
「ああ……ああ……ああ……ああ……」
 熱い水が目に溜まり、やがり目尻から滴り落ちた。焦点の合わない淀んだ瞳が、悦楽の涙に溺れていた。喉から甘い喘ぎ声が絞り出され、止めることができない。
「数馬……お前、マジ淫乱な。男にしとくの、惜しいよなァ……」
「ああっ、ああっ、ああっ、ああっ!」
「ホント、クラクラするぜ……すげ、気持ち……イイ…」
 隼人は夢中になって目の前の双丘をグッと鷲づかみにした。そのまま力強く、ピストンのスピードを速めていく。
 数馬は目が眩むような心地の中、下半身に血液が集まるのを感じていた。触れてもいない陰茎が、血管を浮かせていきり立っている。
 隼人の腰使いが、数馬を狂わせていた。激しく後ろから突き刺され、息もつけない。
『いい子だ、アルブレヒト。もうじきイクからね……』
「も…もう……っ、ヤバ……で、出るっ……」
 脳内で響く声と、現実の声が重なった。もう終わる。ようやく助かる。そんな安堵感が込み上げてくる。
 直後、黒い不安が数馬の心を突き抜けた。
「……っ!」
 夢の中で、扉が開いた。部屋のドアだ。光が差し込む。立っている人影。無言の威圧。戦慄が背中を走り、脳天に届く。
 刹那、数馬は両目を見開き、取り乱したように絶叫した。
「ああっ……ああ、あああっ、アアッ、アガアアッ! アアアアアアッ!」
「な…何だよ、いきなりっ? そ…そんな、動く…な、って……で、出……」
 隼人は眉間に皺を寄せ、きつく目を閉じた。腰を尻に密着させ、アヌスの奥に注ぎ込むように、勢いよく白濁液をぶちまける。
 熱い液体を腹の中で感じた数馬は、頭を仰け反らせてビクビクと震えた。
 カーペットの上に、雄汁がポタポタと滴っている。前立腺の刺激だけで漏らしたのは初めてだった。
 隼人は菊門から肉竿を抜き取った。
「はあっ……はあっ……て、てめ……バカ、おどかすな……って……」
「ああっ……」
 だらしなくぽっかりと空いた穴がそこにある。中からドロドロとしたザーメンが、少しずつ垂れ流れてきた。
 数馬はゆらりとその場に倒れた。長い髪がその場に広がる。全身が汗にまみれ、ひどく汚れていた。きつく噛み締めたボールギャグは、唾液にまみれて歯型がついていた。
「おい」
「……」
「数馬、どうした? おい」
 隼人の声が遠のいていった。いつの間にか、数馬はその場で失神していたのである。
 最も奥深くに封印されていた記憶が、牙を剥いた。
 忘れなければ、彼は生きることができなかった。そのため、記憶は無意識下に抑圧されていた。
 呼吸が不自然に速くなる。息苦しかった。ただ、息苦しいだけだった。
 数馬は閉ざされた空間で夢を見た。
 何もかも思い出してしまった彼に襲いかかるのは、当然、悪夢のみだった。
 口の中に、乱暴に肉塊がねじ込まれている。顎が外れそうだった。息が詰まり、呼吸ができなかった。涙を流して首を振っても、男に対して何の効果もなかった。
 泣き喚いても哀願しても、許してはもらえなかった。誰も助けてくれなかった。
 息子に何の興味もない母は、ただボーッとビールを飲みながら、窓の外を見ていた。
 毎日のように続けられた虐待。死んだ方がましだと何度も思った。
 狭い物置部屋での激痛が呼び覚まされる。大きな掌で口を塞がれ、息もできなかった。すすり泣くことさえ許されず、凶根に体を貫かれた。
 あまりの苦痛に気が遠くなった頃、扉が外側から勢いよく開いた。継父がつかつかと歩いてきて、自分を男から引き剥がした。
 流れ出る血液が、床を汚した。ポタポタと垂れ落ちる赤い雫を見つめた。
 外は雨が降っていた。雨音と血の滴る音の区別もできないほど、意識が混濁していた。
 あの後、抱き上げられて自分は、……。……。
「……」
 肌寒い大気に、ブルッと悪寒を感じて、数馬は目を開けた。
 白い階段が目の前にあった。それがまるで死刑台のように見えて、一瞬ビクッとする。
「あ…あ、……」
 軽く声を発してみた。猿轡は外されており、普通に口が動く。
「お、俺は……」
 言葉を口に出してみた。どこか違和感を感じてしまうのはなぜなのか、自分ではわからない。
 ふと、そばに何か置いてあることに気づいた。手で触れて、確認しようとする。
「ぐ……っ!」
 ズキンという疼痛が肩に走った。
 数馬は軽く肩を上下させた。ズッシリした重さと、張り裂けるような痛みが両腕を支配している。無理な体勢で緊縛されていたせいで、ほとんどまともに動かすことができない。
 ようやく数馬は、自分が冷たいコンクリートの上に座らされていることを認識した。上り階段が目の前にそびえている。そばには、ジーンズが無造作に畳まれて放り出されており、その上にはベルトポーチが転がっていた。
 頭を上げて、上を見る。クローズの札がかかっている黒い扉が、数馬が今背もたれにしている板だった。見知った場所も、視点を変えるとまったく別の趣があると思った。そこは[イーハトーボ]の出入り口である。ドアハンドルに朝刊が挟み込んであった。
 数馬は自分の体を見下ろし、服装をチェックしてみた。上半身は、隼人の家に行く時に着ていたラグランのカットソーだが、下半身は見慣れないブルーのスウェットパンツが穿かされていた。
 どうやら自分は、失神している間に服を着せられ、店まで送り届けられたらしい。タイトなジーンズを穿かせるのが困難だったのだろう。おそらくは隼人のスウェットだ。
 右手首のスピードマスターに目を落とす。時刻は9時を指していた。
 九月も中旬になると、ずいぶん早朝は肌寒くなるものだと思う。残暑が鬱陶しいと感じているうちに、あっという間にもう秋である。
 数馬はベルトポーチの中から煙草を取り出そうとした。ちょっとの動作がとても面倒に感じた。ボックスを掴んで開けるだけの所作に手間取ってしまう。腕が重く、どうしようもなかった。
 それでも、肺までたっぷりと煙を吸い込むと、疲労感が少しだけ和らいだ。立ち上っていく白い煙を見つめ、大きく息をつく。
 とにかく店内へ入ろうと、数馬は立ち上がった。
「う……く、ああ……」
 体中の関節が鈍い痛みを発していた。両肩は特にひどく、だらんと両腕を垂らしているだけでも、あちこちがピクピクと痙攣している。
 鍵を手に取ろうとして、ベルトをしていないことに気づく。投げ捨てられているジーンズを拾い、ベルトに装着されているウォレットチェーンから鍵を選び出した。
 鍵を開け、くわえ煙草で中へ入った数馬は、カウンターの上に荷物を投げた。
 ポーチの中から携帯電話を取り出し、メールや着信を確認する。一時間ほど前に、竜児からメールが入っていた。今日は、十時までは家にいるらしい。
 返信の文章を打とうとして、数馬は電話に切り替えた。少しでいいから、声を聞きたいと思った。
『もしもし、石黒?』
 心配そうな声が耳に届く。数馬がちゃんと食べているかどうか、気になって仕方がないのだろう。
『あのね、スープ作っておいたから……野菜、細かくしたから食べやすいと思うんだ』
 竜児の生活に負担をかけてしまうのが心苦しかった。しかしどうすれば、彼を安心させてやることができるのか、今の数馬にはわからなかった。
『ベーコンも切ったんだけど、脂が嫌だったらと思って、取り分けてあるから。食べられるようなら、入れて食べて。あ、あの……具を食べなくても、飲むだけでも違うと思うから。気が向いたらでいいから』
 最初から最後まで数馬を気遣いながら、ルームメイトは名残惜しそうに電話を切った。数馬は端末をパタンと閉じると、チェアに腰掛けて灰皿に手を伸ばした。
 吸い終わった煙草を灰皿で揉み消し、カウンターに両肘をつく。肩が重くズキズキと痛んだ。これで今夜シェーカーを振れるのだろうか、と不安になった。その不安は、すぐに別の不安を呼び込んだ。
 今日、ありありと甦ったあの日の記憶。打ち消そうとしても、意識の中に居座って、離れてくれない。
 狭い物置のような部屋で、幼い蕾を無残に散らされたことは覚えていた。今まで忘れていたのは、その後のことだ。雨が降っていた、あの晩の出来事だ。
 かつてPTSD−−心的外傷後ストレス障害−−と診断されたことがある。過去の外傷体験によって引き起こされている精神疾患である。数馬は思春期からずっと、治療を続けていると言っていい。
 母親のネグレクト。継父や他の大人たちによる性的虐待。性的な悪戯に関しては母はまったく関わらなかったが、息子がペドファイルである配偶者の犠牲になることを、何年も黙って見過ごした。生まれてから十年近く続いた地獄。その克服ができないまま、現在も苦しんでいる。
 薬物療法とカウンセリングで、日常生活が送れる程度には回復していた。薬も継続的に飲まなくても、調子のいい時は何の影響もなかった。
 数馬にとって、母の死がフラッシュバックの大きな要因だった。数馬は自分の感情に戸惑い、子供の頃のように母を憎むことができるならと、自ら記憶の扉を開いてしまった。
 そのせいで、嫌な記憶に囚われている。あまりにも鮮明で臨場感のある記憶である。
「……Scheisse!」
 忌々しい時に言う汚い言葉を、小さく呟く。
 カウンターに突っ伏し、目を閉じる。気を許すと、鮮やかな場面が脳裏に浮かぶ。それをふるい落とすように、数馬は別のことを考える努力をした。
 シャワーを浴びたい、と考えた。一度、自宅に帰ろうか。それとも、二十四時間営業のサウナにでも行こうか。しばらく忙しくて、店内の掃除が行き届いていない。後で棚からボトルを全部出して、一本ずつ埃を拭こう。章吾を誘って、遊ぶのもいい。憲治とバーで飲み交わしてもいい。信之は二学期が始まって忙しいだろうか。宮本は店へ来る時間があるだろうか。夏樹は残り少ないライブをうまくこなしているだろうか。友人たちに会いたかった。会っていろいろ話をして、気を紛らわせたかった。
 何よりも、竜児とゆっくり話がしたい。食事は無理でも、リビングのソファでハーブティーを飲みながら……何を話そうか。
 不意に、頭の中で声が響く。
『田島竜児に話通してくれよ。お前がチャリティーシングルに参加するって言えば……』
「……っ!」
 数馬は頭を掻きむしった。隼人の言葉が思い起こされ、意識を黒く塗りつぶしていく。
 どうすればいいのかわからなかった。従わなければ、竜児がビデオの一件を知ることになる。それだけは、どうしても避けたかった。
 しかし、素行の悪い隼人を飯田プロの系列事務所へ移籍させるわけにはいかない。必ず、問題を起こす日が来ることは、目に見えている。
 竜児を巻き込めば、そうなった時に立場を失うことになるかもしれない。評判にも関わってくる。社長の養子とは言え、他人の目というのは残酷なものだ。断じて、彼を不利にさせるような状況は作りたくなかった。
 竜児に辛い思いをさせるぐらいなら、恥をかいたほうがましだった。が、どうしても決心がつかない。あのビデオを見て、竜児が自分を軽蔑することが恐ろしかった。
 それに、もしも数馬が断れば、隼人はまた竜児に直接コンタクトを取ってしまうかもしれない。そして欲望のはけ口として、彼を選ぶかもしれない。あの男の部屋で自分がされたようなことを、もしも竜児が……そう思うと、数馬は気がおかしくなりそうなほどの焦燥感に苛まれた。
 常に竜児のそばにいたかった。彼を守りたかった。しかし、当の竜児にそれを相談することはできない。話せば、ビデオのことまで口にしなければならなくなる。
 八方ふさがりだった。どの道を選んでも、そこには苦渋しかない。数馬は拳で自分の太腿を殴りつけた。
 激しく頭を左右に振って、数馬は財布の中からシートに入った薬を取り出した。緊急時のために、服用中のすべての薬を一錠ずつ、こうして持ち歩いている。
 薄いオレンジの錠剤を口に放り込む。水も飲まずに、そのまま飲み込んだ。本来は、日中に飲むものではない。眠れない時に服用する薬である。
 しばらくすると、徐々に意識がぼやけてきた。数馬は艶のあるカウンターに身を委ねるように突っ伏した。
 今はとにかく、すべてを忘れて眠ってしまいたかった。そうでなければ発狂すると思った。

     *

 秀一はエントランスにある鏡を見ながら、手櫛で髪を整えていた。肩までのセミロングを軽く手でまとめつつ、ダンの車が玄関に回るのを待つ。
 やがて、見慣れた車が駐車場から出てきた。秀一は嬉しそうに、ギターをトランクに積むと、自分は助手席に乗り込んだ。
 ダンが一人で暮らすマンションから、二人で都内のスタジオに向かうところである。ライブツアーが直前に迫っている。もう、やる気のないメンバーのことなど構ってはいられない。
「結局、また朝になっちゃった。いつもすみません、弾さん」
「俺は楽しかったからいい。ヒロと打ち合わせもできたしな」
「チャットで打ち合わせなんて、ファンの子が知ったらびっくりしますよね」
「オフィシャルの掲示板にも顔出せたし、よかったよ」
 ダンはあまり表情も変えず、運転に集中しているようだった。秀一はその間、携帯電話で今日のスケジュールを確認していた。
 ダンの部屋に行くと、つい長居してしまう。日本酒を飲みつつ音楽の話などして、そのままソファで眠ってしまうのが常だった。
 秀一がダンに懐いているのを、杏子はよく思っていない。口を開けばチクチクと皮肉を言って、秀一のことをイライラさせた。
「またオレ……愚痴ばっかでしたね。すみません…」
 ダンはすぐには答えなかった。黙ったままハンドルを握っている。しかしすぐに、
「お前は一番ストレス溜めてる。俺に話して楽になるなら、それでいい」
 と、言った。
「でも迷惑ですよね。気をつけなくちゃ」
「吐き出して終わる思いなら、気をつけなくてもいい。気をつけなきゃいけないのは」
「……はい?」
「答えの出ない問題を、いつまでも悩み続けることだ。意味がない」
「……」
「悩むより、行動だってことさ」
 ちょうど信号待ちの停車時だった。ダンは手を伸ばし、秀一の頭をクシャッと撫でた。その手の重みに安心感を覚えつつ、秀一は独り言のように呟いた。
「不言実行、ですよね。男なら」
 ダンは無言で頷いた。
 秀一はシートに体を沈め、何も言わずに目を閉じた。

    *
 
 

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