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 坂本憲治は煙草を口にくわえたまま、唇で上下に振っていた。火もつけずにそうやってしばらく口元でフィルタを弄ぶのが、彼の癖だった。考え事をしている時は特にその傾向が強い。
 弟の章吾は兄の部屋のベッドに座り、椅子で黙ったままでいる憲治のことを見つめていた。表情が罪悪感に曇っている。
 珍しく午前中に起きた章吾は、朝食前に兄の部屋に呼ばれた。隠し事してるやろ、と詰め寄られ、嘘をつくことができなかった。
 憲治は章吾の瞳を覗き込んで、確認するように問う。
「間違いないんか。確かに、竜ちゃん助けに出てったんやな?」
「助けに…かどうかはわからへん。けど、行って連れ帰る言うてたんはホンマや」
 数日前、数馬がいきなり店を飛び出していったあの晩から、章吾はずっと塞ぎ込んでいた。数馬のことが心配だったからだ。
 数馬は、盗み聞きしてしまった章吾に対し他言無用とは言わなかった。口止めしようと思えばできたはずなのに、そうしなかった。それはつまり、暗に、憲治に伝えろという意味だったのではないか……と章吾は感じていたのである。
 一方憲治は、ここ数日ずっと悩んでいる様子の章吾に、違和感を感じていた。そこで問い質したところ、電話の件について聞きだすことができた。
「服も着替えず、出て行ったんか。マスターの格好で」
「髪の毛も結んだまんまやで。数馬さん、ゴムのあとつくのめっちゃ嫌がるから、帰る前に必ず、解くのに」
「まさか…な…。あの田島竜児をどないして……」
 芸能人を簡単に拉致することなど不可能だ。マネージャーやスタッフが常にそばにいる状況で、そのような事件が発生するなど考えられなかった。
 憲治はブルーの使い捨てライターでセブンスターに点火した。章吾から聞いた話を、何度も頭の中で組み立ててみた。
 数馬の行動が気になるのは、単に友人だからというだけの理由ではない。
 二ヶ月前の雨の日、憲治は開店前の[イーハトーボ]で、彼のパニック発作を目の当たりにしてしまった。自分が彼を精神的に追い詰めたことが引き金になったのではないかと、憲治はしばらくの間、自己嫌悪に陥っていた。
 ロックバンドREVENGEのメンバーについて取材していたことから、インディーズ時代に同じバンドに所属していた数馬の過去について、首を突っ込むことになった。
 REVENGEの前身であるインディーズバンドDark Legendが解散した理由は、当時のベーシストであった数馬の不祥事だった。そのため彼は友情を失い、何年も孤独に耐え抜いてきた。
 その不祥事というのが即ち、ゲイ向けのアダルトビデオであったということも、憲治は知っている。そしてそれがある人物によって仕組まれたことであり、数馬はただの犠牲者だったのだということも判明している。ビデオの中身に関しては謎が多かったが、制作の経緯についての大枠は掴んでいた。
 最終的に憲治はREVENGEの仕事からは手を引いたものの、得ることができた情報は大きなものだった。
 自分の中では終わりを告げた出来事だったが、数馬が今、何かの事件に巻き込まれているのだとしたら、タイミングがよすぎる話だと憲治は思った。取材で憲治が動いていたのが、先々月までのことなのである。関連性を疑わずにはいられなかった。
 本人から相談を受けない限り、憲治は部外者である。しかし、無関係だと背を向けるにはあまりにも、憲治は数馬の過去に深入りしてしまったのだ。
 暴力団関係者と交渉もした。指定暴力団の大物幹部である男は、かつての数馬の愛人だった。古傷を嬲ってあの子を苦しめるのはやめてくれと、憲治はやんわり釘を刺された。
 別方向からも、憲治は妨害を受けている。弟の章吾が受けた二度に渡る暴行である。二度とも、誰の仕業だったかわかっている。
 煙を吐き出し、憲治はその男の顔を思い浮かべた。
 憲治を脅迫するために章吾を襲ったように、彼が竜児を襲ったのだとしたら……数馬に何らかの脅迫行為を行っているのだとしたら……考えられないことではない。相手は、竜児が知らない数馬の過去を知っているのだ。
 しかしもしそうだとしても、何のために数馬を脅迫するのかがわからなかった。数馬があの男を陥れるために暗躍しているとも思えない。
 数馬のことが心配だった。発作を抱えて、薬が手放せないでいる。そんな状態で、竜児をも巻き込んだ事件が勃発しているのだとすれば、彼の身が持たない。
 話せと詰め寄ったところで、意味のないことだろう。万が一、脅迫を受けているのなら尚更である。
「しばらく……店にまめに顔出すわ。今、暇やから、お前と一緒の時間に行ってもええ」
「うん。兄やんおったら安心や、オレも」
 傍観者でいることはできない。そう憲治は思っていた。元はと言えば、自分の取材がきっかけだったのだから当然である。仕事とは言え、友人の古傷に触れてしまったという責任がある。
 そんなことを考えながら憲治が煙草を灰皿でもみ消した時、章吾が口を開いた。
「今、思い出してんけど……先月も変なことあってん」
「何や?」
「あんなぁ、竜児さんから数馬さんの携帯に電話あってんけど、相手、竜児さんやなかってん」
「お前、何で竜ちゃんからて、わかんねん」
「着メロちゃうもん。数馬さんの、いつも軍歌みたいな曲やん。けど、竜児さんだけローリングストーンズやねん」
「竜ちゃんやないて、わかったんは?」
「すぐ、事務室行きはったし。『何でお前がこの電話を』、みたいなこと言うてたし」
「……ほう」
 憲治は小刻みに頷いた。
 やはり、何かが動いている。大きな事件に発展しそうな匂いがある。
 今の証言で、相手は絞られた。
 竜児の携帯を拝借できる時点で、芸能界の人間であることは間違いない。プライベートで会ったりすることも可能だろう。二人だけで会うようなことがあってもおかしくはない。
 更に、相手は数馬と知り合いである人物である。「お前」と呼ばれるほどの関係だ。数馬の交友関係までは憲治は把握していないが、芸能界には親密な友人は少ないはずである。
 それらの事柄を総合すると、ある程度の答えは導き出される。先ほどの仮定が真実に近づいたことを憲治は確信した。
 思い立ったように憲治は椅子から立ち上がった。そして、
「章吾、朝メシ食い行くか。そこのファミレスにでも」
 と、明るく弟を誘う。章吾はにっこりと笑って、大きく頷いた。
「うん!」
「お前、先行っててくれるか。ちょう、電話かけてから行くから」
「わかった。注文しとくわ」
 章吾は自室で服を着ると、バタバタと大きな足音を立てて玄関から出て行った。空気を読む弟でよかったと、兄は思う。
 憲治はすぐに、デスクの上から銀色の携帯電話を手に取った。ボタンを親指で押して、登録してある電話番号に発信した。
 もうまもなく昼である。本人が出られなければ、マネージャーが出るか、留守番電話サービスになるだろう。しばらく呼び出し音を鳴らしたところ、留守番電話のメッセージに繋がった。
「HAYATOさんですか。ライターの坂本です。先日のお話の件でお電話しました。お時間あったら、連絡ください。ほな」
 それだけ言って、電話を切る。
 三島隼人。REVENGEのヴォーカリスト。華麗な外見とは裏腹に、心の中は利己的で狡猾な無頼漢。悪党との取引は慣れている憲治でさえ、対峙した時は精気を吸い取られる心地だった。
 Dark Legend時代、数馬を陥れてアダルトビデオに出演させたのもこの男だ。章吾を暴行し、憲治を威圧的に脅してきたのも……。他にも、彼には様々な疑惑がある。
 数馬と竜児の二人に接触しているのかどうかはまだわからないが、話してみる価値はあると思った。
 ネクタイを締め直し、鏡の前で髪を整えてから、憲治は自宅を後にした。

     *

 秀一はスタジオの広い控え室で、パイプ椅子に座ったまま俯いているドラマーの姿を見かけた。別室でスタッフに貰ったウーロン茶のペットボトルを手に、歩いていく。
 孝弘は黒い手帳を開いたまま、ずっと同じページを見つめていた。何かを調べているわけでも、書き物をしているわけでもない。ただ、そこにあるものを眺めているといった感じだった。どこか懐かしそうな表情を浮かべていた。
「孝弘さん」
「……っ、あ、シュ、シュウ。何?」
 慌てたように手帳を閉じて、ポケットに押し込む。その顔がみるみる紅潮する。もともと赤面症の気があるらしく、すぐに耳まで真っ赤に染まる。
 ペットボトルを手渡しながら秀一は、そばにある椅子に腰を下ろした。
「何見てたんですか?」
「い、いや、……あの、しゃ、写真。昔、撮った」
 しどろもどろになりながら、孝弘はペットボトルのキャップを開け、ウーロン茶をグイッとラッパ飲みした。
 秀一はそれ以上の詮索はやめた。女性にあまり縁がなく、決まった交際相手もいない孝弘である。おそらく思いを寄せている人がいるのだろう。内気な彼にそれを追求するのは酷だと思い、秀一は話題を変えた。
「ライブの曲順のことなんですけど」
「……」
「孝弘さん」
「……ん、あ、うん?」
「もー。何かあったんですか?」
「な…何かって?」
「いえ、何もないならいいんですけど。上の空っぽいんで」
「そうかな……そ、そうだったのかな。あ、何か……あの、わかんないや、ハハ」
 照れ笑いをする表情が、絵に描いたように純朴だった。秋田出身だと聞いたことがある。どこか温もりを感じるような雰囲気に、秀一は穏やかな気持ちになった。
 腕時計にチラッと目を落として、秀一は声を潜めた。
「隼人さん、今日は何時間遅れるでしょうね」
「ん…、そう……だね」
「孝弘さん……。このまま、REVENGEって続くと思います?」
「や…やめたいの? シュウ…くんは」
「やめたいとかじゃないんですけど。この先、どうなるのかなって」
「ソロ活動したいとか……じゃなくって?」
「オレにそんな器量ないですよ。やるなら、誰かと組んでやりますよ」
「そうか。うん、でも……君なら、ソロでもやれると思うけど、な」
 孝弘は微笑んだ。社交辞令ではないようだ、と秀一が感じてしまうのは、彼の持つ裏表のない性質のせいだった。
 こんな男が、なぜ隼人と手を切らないのかと秀一は考えた。隼人にしてみれば、人がいい孝弘は便利な存在だろうが、本人はどう思っているのだろうか。
「孝弘さんは、隼人さんのことどう思ってるんです?」
 尋ねると、孝弘はちょっと淋しそうに目を細め、まるで用意してあったような言葉を述べた。
「隼人は身勝手なとこあるけど、悪い奴じゃないよ。ちょっとジャイアンなだけで」
「孝弘さんが、隼人さんと仲いいのって、オレと弾さんにとっては永遠の謎なんです」
「そ、そんなに変かな」
「弱み握られてるんじゃないか、なんて話もしてるんですよ」
「えっ…」
 一瞬、孝弘の表情が凍りついたようになったのを、秀一は見逃さなかった。
 その時、控え室のドアが開き、廊下からダンが顔を覗かせた。
「ここにいたのか、シュウ。ヒロ。大将のお出ましだ。急げ」
「はーい……って、すごい。十五分しか遅刻してませんよ。明日は雪ですね」
 椅子から立ち上がりながら、秀一はそう言って肩をすくめた。
 孝弘は曖昧に笑顔を作って、黙ったまま彼らの後を追った。

     *

 数馬が目を覚ますと、室内はやや薄暗くなっていた。すでに陽が落ちて、もう夕方である。竜児と話しながら、いつの間にか寝入ってしまったようだった。
 悪夢で起きてしまうこともなく、こんなに長い時間眠ることができたのは久しぶりだった。
 寝入り端、手を握られたような気がしたのを思い出した。温かな感触だった。そのおかげでぐっすり眠れたのかもしれなかった。
 眠ることができたのは嬉しかった。ひょっとしたら今日は眠れないのではないかと、数馬は危惧していたからだ。予想が外れ、少しだけ安堵する。
 部屋を出て洗面を済ませてから、何気なくキッチンを覗く。
 ダイニングテーブルの上に、スプーンとグラス、マグカップが用意してあった。マグカップはさっき、数馬が部屋でコーヒーを飲んだものだ。きちんと洗って、今はここにある。
 冷蔵庫の扉を開けると、蓋付きの耐熱容器が目に付いた。取り出してみると、中身はパン粥だった。朝のブロートヒェンが細かくちぎられ、入っていた。
 このパン粥を作り、冷ましてから冷蔵庫へ入れるために、竜児は何分の遅刻をすることになったのだろうか。それを思うと胸が痛んだ。
 数馬はパン粥を冷蔵庫に戻した。食べようと思えば食べられるかもしれないが、今は時間がない。すぐに支度をして店に向かわなければ、開店準備に間に合わない。
 数馬は紙パックの野菜ジュースを冷蔵庫から取り出し、少しだけタンブラーに注いだ。ちびちびとそれを飲みながら、身支度を整えるために自室へ戻った。
 タンブラーをデスクに置いて、携帯電話を手に取る。友人などからメールが数件入っていた。竜児からのものもある。ロケ現場から送信してくれたらしい。
 黒い事務用椅子に掛けて、デスクトップパソコンを起動させる。その間に携帯電話を操作し、返信が必要なものには返した。
 その後、パソコンのメールソフトを立ち上げてメールチェックをした後、数馬はふとマウスを動かす手を止めた。
「……」
 しばらく考えてから、再び携帯を手に取り、アドレス帳を開いて発信の操作をした。程なく電話は繋がり、明るいトーンの相手の声が端末から響いた。
『ハロー。もしもしぃ?』
 それを受けて、数馬はゆっくりと口を開いた。
「夏樹。俺だ」
『わぉ、かじゅま? うわ、めずらしー。どーしたの?』
 嬉しそうな声が聞こえてくる。この年下の友人の変わらない態度は、数馬を少し安心させた。
「元気そうだな」
『うん。美味しいもの食べてるかんね。それがあるから、ツアーはやめらんないにょ!』
 子供のような言葉遣いでそう言って、夏樹はニャハハハ、と笑った。
 日向夏樹は、ロック・ヴォーカリストである。数馬よりも四歳下で、先月二十四歳になったばかりだ。日本人の父とアイルランド系アメリカ人の母を持つ混血である。劣性遺伝で奇跡的に金髪で生まれたのを本人は自慢に思っているところが、自らの髪の色を厭う数馬とは違う。同じ混血でも、育った環境によって意識は変わるものだと、数馬は感じていた。
 夏樹と数馬はもう、出会ってから八年にもなる。一時的に交流しなかった時期もあるにはあるが、基本的には仲のいい友人である。
 数馬にとって夏樹は、一番の理解者であり、同志のようなものだった。気を遣わずにいられるという点では、竜児よりも親しい間柄なのかもしれない。
 彼は八月から全国ツアー中で、主要都市を順に巡っている最中だった。今この電話を受けているのは、名古屋のホテルである。
『おかしいね。数馬がツアー中に電話してくるなんて。何かあったの?』
「ああ。……お前の力を借りたい」
『僕の? どーいうこと?』
「詳しいことは、ファイル添付してメールする。PCの方、今メールチェックできるか?」
『うーん……今はアキちゃんが持ってるノートしか手元にないんだよ。アキちゃんに内緒で見られるメアドってことになると、自宅に帰ってからじゃなきゃチェックできない。あとは携帯しか』
 アキちゃんと夏樹が呼ぶのは、従兄でもあるマネージャーのことだ。夏樹の仕事と生活をあらゆる面からサポートしている青年である。夏樹が心の底から信用している唯一の人物だった。当然、メールなどは彼が管理しているのだろう。
 数馬は少し考えたが、メールを送るのは諦めることにした。話をしながら、メールソフトを終了させる。
「そうか…。ちょっとデータがでかいんでな……携帯は無理だから……。お前が帰ってきたら、また相談するよ」
『間に合う?』
「どっちにしてもお前、ツアー終わらなきゃ何もできねェだろ」
『そーだけどさ。でもあと一ヶ月だし。ラスト一週間は東京だから、その時には会えるよ』
「わかった。じゃ、どこかで会おう」
『イーハトーボじゃ話せないってことだね。かなりヤバイ話?』
 夏樹は声色を変えた。甘ったれた様子が消え、ドライな口調になっている。真剣に、数馬の話を聞こうとしている姿勢だった。
「後で話す。でも、もし、うまくいったら……」
『うん』
「お前がずっと欲しがってたもの、やるよ」
 数馬が言うと、夏樹はまた幼稚で舌足らずな喋り方に戻った。
『えー? 何だろ。僕、何か数馬におねだりしてたっけぇ?』
「まあいいさ。とにかく……東京に帰ってきたら、頼む」
『うんいいよ。数馬の頼みなら何でも聞くよ。何でもね』
「助かるよ……じゃ、ライブ頑張れよ。またな」
 そう言って、数馬は電話を切った。

    *
 
 

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