隼人はソファから立ち上がり、数馬の背後に回った。そして片足で彼の背を蹴り飛ばし、孝弘の足元へと転がす。数馬は声もなく、その場に倒れこんだ。
「数っ……、は、隼人、乱暴するな。早くこの腕の変なの、外してやれよ!」
「孝弘、こいつにしゃぶらせろ。遠慮はいらねーぜ。逆らわねーからよ」
「冗談よせよ。俺…、帰るよ!」
「逃げんなって。こんなチャンス、もうないんだぜ?」
言いながら隼人は、数馬の髪の毛を掴み上げ、引っ張り上げた。
「ほら数馬、しゃぶらせてもらえよ。フェラすんの好きなんだろ? それに孝弘に頼んでおかねーと、俺、DVD送っちまうかもよ?」
数馬は下唇をギリッと噛んだ。冷徹な視線を隼人に向け、呟くように言う。
「……卑怯な奴だ。お前は、誰に対しても……」
「なりふり構ってらんねーのよ。今の俺にはお前が必要なんだよ。俺の役に立ったら、ちゃんと解放してやるよ。それまでは……犬になれ、数馬」
「……く…っ」
犬、という単語が胸に突き刺さる。気位の高い数馬には、耐え難い言葉だった。
悔しそうに項垂れる数馬の頭を抱え、隼人は無理やり孝弘の股間へと運んだ。数馬は僅かに抵抗したが、拘束されている状態では、バランスを保つのが精一杯だった。
孝弘は慌てて避けようとして、ソファからずり落ちた。尻餅をついたような体勢になったところで、下半身に旧友の体がのしかかってくる。両腕を包むボンデージの光沢にドキッとしながらも、孝弘は最後の抵抗を試みた。
「隼人、だめだよこんなこと……数馬だって、嫌がってるじゃないか」
「お前、俺の言うことが聞けねーのかよ? 何様のつもりだ?」
「だめなものはだめなんだよ。おかしいよ、こんなの。お…男同士だし……」
「数馬の写真持ち歩いてんのは、どこの誰だよ。惚れてんだろ?」
「あ、あれは、ちが……、そ…そんなんじゃない。俺はただ、……」
「今さら善人ぶったってしょーがねーだろうが! ケツにまでぶち込んだ仲だろォ…? ほら……しゃぶってもらえよ。気持ちいいぜ……こいつのお口は。お前、そこにいるのが数馬だってわかった時から、あそこギンギンにしてんじゃん。やりてーんだろ、こいつと……」
その時、ジーッと音がして、孝弘のファスナーがゆっくりと開いた。数馬が歯でスライダーを噛み、下に下ろしたのだ。
「か…数馬……」
すでにその部分は熱く勃起していた。もう、拒むことなどできなかった。孝弘は罪悪感に身を委ねつつ、催眠術に掛かったかのように、手で自らの持ち物を引っ張り出した。
どれだけ抗っても、隼人は一度言い出したことは引っ込めない。おとなしく従い、早く終わらせてしまうのが得策だ。それが結果的に、数馬にこれ以上恥をかかせないということになるのだと思った。
薄く柔らかい舌が、ねっとりと亀頭に絡みついてきた。あまりの快感に、孝弘は思わず甘い声を上げた。
「ああっ……」
上体を起こしているため、上から数馬を見下ろす形になっている。彼の頭が動くのはわかっても、表情までは見えなかった。
視覚的に刺激を得たいという衝動を抑え切れず、孝弘は全身を床に横たえた。頭の位置を変えることにより、肉棒をくわえ込んでいる姿を直視することができる。
「んっ、ん、ちゅぷっ…あっ、んむぅ……あぁ、んぁ、ぴちゅっ……」
雄身を口に頬張り、頭を上下に動かしている様が、とてもエロティックだった。長い髪と白い肌が、まるで女性であるかのような錯覚を起こさせる。しかし孝弘にとっては、それは数馬であるということが、何よりも重要なのだった。
彼の視線を感じても、数馬は軽蔑することなどできなかった。
どれだけきれいごとを言っても、最終的には欲望に打ち勝つことができない。それが男という生物だ。男性器を所有している以上、自分だって同じようなものである。
拒絶したところで何も変わらない。この場から逃げることもできない。それなら心を閉ざし、操り人形のように動いた方が楽だった。
遠い昔、同じ思いを感じたことがあった。記憶の扉がまた開き、数馬を過去へと誘う。
『ほら、しっかりやれ! 後がつかえてるんだぞ』
継父が家に招待した友人たちのペニスまで、しゃぶることを強制された。何人もの男が順番を待ち、ぎこちなく舌を使う数馬を食い入るように見て、感嘆の声を上げた。
『まるで仔犬だな。皿のミルクを飲んでるみたいだぜ』
あの時と同じように、感覚をシャットアウトしてしまえばいい……無意識に数馬は、自分自身を追い詰めていた。これは夢なのだ。子供の頃のあの場所に再び立っているだけなのだ。そう、思い込もうとした。
数馬の閉じていた目が開かれた時、澄んだ琥珀色の瞳は焦点が合わず、何の感情も灯していなかった。
カリ首を唇全体でしごき上げ、ねぶり、尿道口にも舌先を滑り込ませた。すでに大量に滲み出ている淫汁を、下品な音を立てて啜る。
「ほーう。俺の時より情熱的じゃん。エロいね、まったく」
隼人は感心したように口角を上げた。先ほどから彼はソファで足を組み、観客となって楽しんでいた。食い入るように見つめ、舌なめずりをしている。
そんな視線にも気づかず、数馬は唇と舌を使い続けた。裏筋をなぞり、亀頭全体を口に含んだまま、中で舌を激しく回している。ビクビクと脈打つ肉根は、もう限界の様相を見せていた。
「数馬、だ…だめだ、もうっ……イクから……離れて……」
孝弘の言葉も聞こえなかった。数馬はただ、自分の役目を果たすことに夢中になっていた。硬い肉茎を、喉に当たるほど奥まで受け入れる。射精が近づいたことを舌で感じ取り、飲み下すための準備をしている。
「飲みてーんだろ。飲ましてやれよ」
「そんな…のっ、だめだ……もう、もういいよ、数馬。もう……いい、からっ」
孝弘が激しく首を振る様も、数馬には見えていない。まるでロボットのように、機械的に口と顎を動かしている。喉にシャワーを受けるまで離さない。そうプログラムされたかのようだった。
絶頂が近づいた孝弘は、とっさに数馬の頭を片手で掴んだ。そして思い切り引き離し、口からペニスを引き抜く。ぬらぬらと唾液にまみれた先端が、数馬の顔の前でブクッと膨張した。
直後、孝弘は掌で自分の亀頭を握り締め、手の中に暴発した。
「はあっ……はあっ……はあっ……」
指の間から白い液があふれて垂れる。孝弘は安心したように、徐々に興奮を治めながらそのまま仰向けに寝そべった。
「ハハハッ、何だよ。顔にぶっかけんのかと思ったらよ」
少し残念そうに隼人は笑った。
一方、数馬はまだ夢の中にいた。ボーッと宙を見つめたまま、身じろぎもしない。
隼人はその場に座り込んだままの数馬に近づき、頬をペチペチと叩いた。
「どうした? さすがにショックだったか」
「……」
「もういいぜ、帰って。孝弘と話あるからよ」
「……あぁ…」
「また電話する。これから、ちょくちょく会おうぜ。可愛がってやるからよ」
アームザックを外してやりながら、隼人は数馬の細い肩を抱き寄せた。
数馬は指で額の汗を拭うと、緩慢な動作で服を着始めた。無言のままで、淡々と身支度を整える。
「数馬、時計…」
孝弘が、落ちていたスピードマスターを数馬に手渡した。数馬はじっと時計を見つめたが、受け取ろうとしなかった。孝弘が腕を取り、手首に装着してやっている間も、黙ったまま前方を眺めている。
「数馬……許してくれ」
孝弘は、深く頭を垂れた。
「……」
「ごめんよ……ごめんよ……また、君を傷つけてしまった……」
「あぁ」
数馬は気のない素振りで、孝弘の謝罪を受け流した。そのまま振り向きもせず、リビングを出て玄関へ向かう。
その後ろ姿に孝弘が、車で送らせてくれと声を掛けたが、数馬は何も言わずに外へ出て行った。
*
始発で六本木を出て、電車で駅まで帰ってきた数馬だったが、地に足がついていなかった。ずっとぼんやりしたままで、どう電車を乗り継いだのかも覚えていない。
幡ヶ谷の駅近くにある公園の水飲み場で、数馬は何度も口を漱いだ。
蛇口を捻って水を出し、そこに口をあてがう。口の中を洗い流しては、その水を吐き出す。しかし何十回繰り返しても、気が済まなかった。いくら洗っても汚れているような気がして、水を止めることができない。
生気のない目で数馬は、もう二十分以上も同じ行為を繰り返していた。
意識はある。しかし、現実感がなかった。公園の景色も、どこかテレビの中のように感じられた。自分と外界の間に膜が張っているかのような感覚だった。
そんな状態の彼を正常に引き戻したのは、メールの着信音だった。
「……!」
ハッと現実に引き戻された数馬は、蛇口をきつく閉め、水飲み場から離れた。
液晶画面で受信メールを確認する。そこに竜児の名前を見つけた時、数馬は全身の緊張が解けるのを感じた。
[起きてます。9時まで家にいます。りゅーじ]
数馬は近くのベンチに腰掛け、傍らに携帯を置いた。
ベルトポーチから煙草を取り出す。一服すると少しだけ、口の中が消毒されたような気になった。もともと自分が煙草を吸い始めたのは、実家を離れても消し去ることができなかった、おぞましいペニスの感触から逃れるためだったのかもしれない。
深く溜め息をついて、数馬はメールを打ち始めた。長文を打つのは面倒だったが、一行ぐらいならすぐに返信できる。
[幡ヶ谷 メシ食うから]
送信完了を確認して、数馬は携帯電話をポケットに押し込んだ。
朝日の眩しさにやっと気づいた。鳥の鳴き声や、犬を散歩させている老人、ブランコで菓子パンを食べている子供。初めて認識することができた。
数馬は両手で顔を覆い、そのまま頭を抱えるように、髪に指を通した。
隼人の笑い声が、頭から離れなかった。彼の言いなりになっている孝弘にも腹が立った。
子供の頃の嫌な思い出も、頭から立ち退きはしなかった。思い出すまいと決めていたことが、次から次へと浮かび上がってくる。
そのすべてを蹴散らすように、彼の頭に響く声があった。ねえ石黒、という穏やかな声。光のような温かさに抱擁され、頭から黒い過去が消え去っていく。光は一瞬で闇を飲み込む。そこに光が灯るだけで、闇は存在することができなくなる。
「竜児……」
竜児が待っている。そう思うだけで、すべての辛苦から解放されるような気がした。
数馬は立ち上がり、家路を急いだ。
*
数馬がシャワーを浴びている間、竜児はキッチンにいた。
昨日、事務所の女性スタッフが趣味で作っているパンを分けてもらった。ブロートヒェンと呼ばれる丸いパンである。ドイツではこれを朝、食べるのが一般的らしい。籐のバスケットの中にブロートヒェンを入れて、ダイニングテーブルへ運ぶ。
朝食はこれとチーズが一切れ、後はオムレツだけである。申し訳程度に、炒めたグリーンアスパラガスが一本だけ添えられている。正にドイツの朝食に近かった。
竜児としては、もっと食卓を賑やかにしたいのだが、数馬があまり食べることに興味を示さないため、改善は難しかった。加えて彼は小食でもあるので、量が多いと持て余してしまう。
もっとも、毎日必ず一緒に食事ができるわけではない。そういう意味ではこのようなメニューは便利だった。今日のように急に一緒に食べることが決まっても、数分で支度することができる。
数馬のためにペーパーフィルターでコーヒーの準備をして、竜児は自分のカップにはティーバッグを投入した。ポットの湯を注ぎ、皿の横に並べる。
ルームメイトの朝帰りは、よくあることだった。しかしその場合、帰宅してからシャワーを浴びることは滅多にない。今日は珍しいな、と竜児は思った。
数馬はゲイであったが、竜児を性愛の対象にはしていない。だから、よく外で遊んでいた。それなりに、決まった相手も存在する。
(ホテルに行ってたわけじゃないのかな。でも、お酒の匂いもしなかったし……どこで、何してたんだろ?)
朝帰りをして、食事をするというのも普段はないことだった。アルコールだけを口にして、何も食べずに寝てしまうのが常だった。
不思議に思いつつも、この質問を本人にはできないことを、竜児は重々承知していた。プライベートに立ち入ると、数馬の機嫌が悪くなる。夜の行動に関しては、特にそうだ。
彼が誰かと時間を過ごしていることがわかっているから、竜児は暗いうちは電話もメールも遠慮していた。自分なりの基準で、6時を過ぎたら朝と決めている。今朝もその時間にメールを出した。返信があるとは思っていなかったので、竜児は嬉しかった。
カチャッとドアが開いて、数馬が顔を見せた。バスタオルを首からかけたままで、薄手のTシャツと迷彩パンツという、いつものスタイルだった。高校時代から数馬は、床に就く時はこの服装なのである。修学旅行の時もそうだった。数馬の部屋のどこかには、その時の写真があるはずだった。
「これ……どっかで売ってたのか?」
開口一番、数馬がブロートヒェンを指差して言った。
竜児は待ってましたとばかりに笑みをたたえて、入手経路を説明した。もっとも、スタッフの性別だけは秘密である。余計なことを言うと、食べてくれない恐れがあった。
数馬は少しだけ感心したように頷きながら、椅子に腰掛けた。
竜児はサーバーからコーヒーをマグカップに注ぎ、数馬の前に置く。
「グーテン・アペティート(召し上がれ)」
竜児の言葉に、数馬は小さくダンケ、と返した。
そこまで聞いてから、竜児は改めて、
「じゃ、いただきまーす」
と、箸を手に取る。
食前の挨拶の習慣がなかった数馬に対して、竜児がドイツ風の挨拶を行うようになったのは、一緒に暮らすようになってからだ。数馬はドイツ語を覚えた竜児に対して、
『そんなの、向こうでもあまり言われたことねェけどな』
と、照れたものの、文句も言わずに従っている。
竜児はブロートヒェンを掴んで一口分ちぎると、何も塗らずに口に放り込んだ。
「ん、美味しい」
少しモチモチし過ぎていたが、悪くない出来だと竜児は思った。
ティーバッグをカップから引き上げ、小型の専用トレイに乗せる。熱い紅茶を一口含んでから、ストロベリージャムに手を伸ばした。
ふと顔を上げると、数馬の動きが止まっている。竜児と同じようにブロートヒェンの味見から入ったようだが、食べている途中でやめてしまったようだった。
竜児は苦笑した。
「マズい? やっぱり、口に合わなかったかぁ…」
「いや……違う」
数馬は神経質そうに眉をひそめた。そして、
「ただ……どうしたんだろ、……」
と続け、しきりに首を傾げている。思い立ったようにフォークでオムレツを口に運ぼうとして、やはり途中で止まる。そこから先に進まないという感じだった。
「どうしたの、石黒? 食べられないの?」
「あ…ああ。何だろ……入っていかない」
「ホントはマズいんじゃ」
「違う。うまいと……思う。でも、……おかしいな。腹、減ってたはず……」
誰よりも数馬本人が、一番驚いているようだった。
竜児は箸を置き、数馬の表情を覗き込んだ。味の悪さをごまかしているなら、彼はこんな態度は取らない。適当に食べ、残すだけである。
「コーヒーはどう? 飲める?」
竜児の勧めで、数馬はマグカップを手に取った。コーヒーはすんなりと飲むことができる。しかし固形物を食べようとすると、なぜか口が閉じてしまう。無理やり詰め込んでみても、嘔吐感が襲ってくるだけだった。
「食欲ないんだね……少しでも食べた方が本当はいいんだけど、胃腸が弱ってる時は、あまり無理しない方がいい時もあるし……」
「食べたくないわけじゃ……ないんだけど」
目の前にある物が、食べ物だという気がしなかった。味もあまり感じられず、まるで砂のようだった。
諦めて数馬はフォークを置いた。
「石黒……」
竜児は椅子から立ち上がり、数馬の傍らに立った。そしてバスタオルの上から背中をさすりながら、
「寝た方がいいよ。ここにいても……ね?」
と促した。
数馬は悲愴な面持ちで、ゆっくりと席を立った。
「すまない。せっかく作ってくれたのに」
「いいんだよ。ごめんね、体調悪いのに、気がつかなくて」
「気がつくわけないだろ。会ってなかったんだから」
「そうだけど……でも、…石黒、お母さんが亡くなってから、ずっと元気ないから……」
コーヒーを持ってやりながら、何気なく竜児はそう言った。
数馬は立ち止まった。そして振り向かずに、
「それは違う」
はっきりと言い放つと、一人で先に行ってしまった。
彼を怒らせてしまったような気がした竜児は、慌ててその後を追った。
竜児が追いついた時には、数馬はすでにベッドに腰掛け、煙草を口にくわえていた。ベッドサイドテーブルにコーヒーの入ったカップを置いて、竜児は申し訳なさそうに詫びた。
「ごめん、余計なこと言って」
「いや……いい」
「理由、わからなかったから……ごめんね」
「気にしなくていいって言ってるだろ」
煙を吐き出し、数馬は俯いた。煙草を指に挟んだ手でカップを取り上げ、コーヒーを味わう。
コーヒーを飲んでいる姿は普通だった。いつも通りの数馬の仕草である。竜児から見た印象では、どこにも変化はない。
しかし、先ほどの彼の動作は明らかに異常だった。食べるという行為を無意識に拒絶していたような雰囲気だった。
「一時的なものだといいんだけど……でも、大丈夫だよきっと。元気出して」
竜児の心配そうな声を聞いて、数馬は何とか彼を安心させてやりたいと思った。しかし発することができた言葉は、
「ああ」
という素っ気ない一言だけだった。
*
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