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 竜児が目を覚ましたのは、ベッドの上だった。
「んっ……痛っ…、頭、痛いっ……」
 見回すと、そこは数馬の部屋だった。ドアが開いたままになっている。
 竜児は起き上がり、床に足をついた。
 Tシャツはそのままで、ジーンズも穿いたままである。ベルトは抜き取られ、ファスナーの上のボタンだけが外されていた。靴下が床に揃えて置いてある。
「石黒……?」
 竜児が何らかの理由で私服のまま寝てしまった時、このような処置をするのは数馬だ。自分のベッドで寝かせるのは、竜児の部屋の布団を敷くのが面倒だという理由である。
 竜児は急いで部屋を出て、リビングへと走った。ひょっとしたら親友は、ソファで寝ているかもしれない。
 数馬が眠っていることも考慮して、竜児はそっとリビングの扉を開けた。
 ソファの上には誰もいなかった。しかし、室内には煙草の煙が充満している。彼が起きていることは間違いなかった。
「石黒?」
 おずおずと竜児は声を掛けつつ、リビングへ足を踏み入れた。
 すると窓際で、フローリングに直接座っている数馬が目に入った。緑色のジンのボトルと灰皿、シガレットケースがそばに置いてある。
 数馬は竜児が来たことに気づくと、ショットグラスを床に置いた。
「石黒……俺、どうして……?」
 竜児は数馬に尋ねた。
 REVENGEのHAYATOの部屋に行き、ワインを飲まされたことは覚えている。しかしその後の記憶がぽっかりと抜け落ちていた。
 数馬はラークを一本くわえ、ジッポーライターで点火した。そして片手でジッポーの蓋を弄びながら、
「俺が車で迎えに行った。お前が倒れたって聞いてな」
 と、説明した。
「倒れた……?」
「ああ」
「そうか、俺……ワイン飲まされて、酔っちゃったんだ」
「そのようだな」
 竜児は深く溜め息をつきながら、数馬の傍らに膝を揃えて正座した。
「ごめん石黒。迷惑かけちゃって」
「いや……そんなことはいい。気にするなよ」
「HAYATOさんから電話が行ったの?」
「……ああ、そうだよ」
 数馬は曖昧に返事をした。竜児の顔を見ようとはしなかった。
 竜児は少しだけ黙り、何か考えた後、不思議そうに首をひねった。
「どうしてHAYATOさん、石黒が俺と住んでるってこと、知ってたんだろ?」
「……」
 数馬はスパスパとせわしなく煙草を吸った。片膝を立てている脚を入れ替え、姿勢を整えようとする。
「俺、そんなの話したことないんだけど……」
「悪い、間違えた。俺がお前に電話……あの、メールくれただろ? あれで電話した時……だよ。その時に」
「えっ? じゃあHAYATOさんが、俺の携帯で出たってこと?」
「い…いや、それも……違うな。向こうから……」
 数馬は頭を掻きむしった。煙草の灰が先端に溜まって、今にも落ちそうになっている。竜児は灰皿を煙草のところまで持ち上げると、指でつついて灰を落としてやった。
 数馬はジッポーライターの蓋をカチャカチャと開閉しながら、頭を振って、呟くように言った。
「ごめん。……俺、酔ってる。よくわかんねェ」
「うん。いいよ。ありがとう…」
 竜児はニッコリと微笑んだ。数馬はずっと竜児から視線を逸らしたまま、落ち着きのない様子で、窓の外を見ていた。
 すでに陽は高く昇っている。壁の時計は、九時を指していた。
 吸殻を灰皿に転がした数馬は、すぐに新しい一本を吸い始めた。そして、思い出したように、
「あ、そうだ。滝瀬さんからお前の携帯にメール入ってたから……」
 と、竜児に告げる。
「あっ、しまった! 家に帰ったら電話しろって言われてたんだ!」
「そう思って。俺が自分のでメールしといたから。もう帰ってるから心配ないって」
「え……?」
 急に竜児は言葉を切り、口を噤んだ。
「何だよ? いけなかったか?」
 竜児の表情の変化を捉え、数馬は不可解そうに片眉を上げた。
「う、ううん。いいんだ。ありがとう。助かったよ。叱られないで済むから」
「どうしたんだ? 急に」
「あっ、いや……あの、石黒……さ、メール……」
「メールが?」
「いや、俺…ね、石黒の携帯、メールが打てなくなってるんじゃないかって、心配……してたから。壊れて……るんじゃ、って……でも、アハッ、違うんだね」
「……」
「あ、ごめん。今の……別に嫌味とかじゃなくて、本当に俺、気になってて」
 数馬は煙草をくわえたまま、無表情で手元のジッポーを見つめた。
 竜児は居心地が悪そうに、フローリングから立ち上がった。足早にキッチンへ行き、ポットの蓋を開けた。そして水道の水を水差しに汲み、ポットへ注ぎ入れる。
 数馬が追いかけるように、リビングからやってきた。そして言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「悪かった。……これからちゃんと、返信するから……」
「う…うん、別にいいよ。無理しないで。面倒……だろうし」
「そんなことない。これから気をつける」
「うん…。ごめんね、変なこと言っちゃって」
 竜児はぎこちなく微笑むと、ハーブティーの準備を始めた。
 数馬は黙ったまま俯き、再びリビングへと戻っていった。

     *

 竜児が仕事に出掛けた後、数馬は自室のベッドに横臥した。
 この一ヶ月、意識的にメールを返信しなかったことが、竜児を傷つけていたのだと、さっき初めて気がついた。どうりでこのところ、メールが来なかったわけである。
「くそっ……」
 拳でベッドを殴る。スプリングが軋む音がした。
 すべては、隼人に振り回されたせいだった。あの日、隼人が竜児の携帯さえ使わなければ、こんなことにならずに済んだ。
 おそらく竜児は気を揉んで、数馬に言いたいことも我慢していたのだろう。普通にメールをやり取りしていたなら、隼人に誘われたことも、前もって教えてくれたかもしれない。
 同居生活を始めて、この九月で二年十ヶ月。未だに二人の間には妙な遠慮があった。
 特に竜児は、数馬の気持ちに対して引け目を感じているのか、決して本心を曝け出すことはなかった。自分はこうしたいのだ、という自己主張もほとんどしない。いつでも数馬の気分や都合が優先だった。
 二人のそういう関係に、いつか竜児が疲れてしまうのではないかと、数馬は時折不安になった。
 しかし数馬自身は、竜児のように他人の心を気遣うことができない。コミュニケーションは不得手である。だから自分でも気がつかないうち、竜児を追い詰めてしまうことがあるのだ。
 いつでも、気がついた時には遅い。昨晩のこともそうだった。
 あの後、数馬はやっと解放され、服を着ることを許された。
 隼人は数馬の目の前で、きっちりと携帯電話の竜児のデータを削除した。
 玄関の外にいた隼人の取り巻きの中の、体格のいい男が二人で竜児を車まで運んだ。数馬は隼人と言葉も交わさず、黙って運転席に乗り込み、六本木を後にした。
 奴隷のように扱われた屈辱は、数時間経った今も、数馬の自尊心をズタズタにしたままだった。思い出すだけで、体の芯から沸々と怒りが込み上げてくる。
 竜児の携帯電話から、勝手に隼人の名前を削除することはできなかった。発着信履歴などは消せても、さすがにアドレス帳を弄ることはできない。
 竜児のことだ、おそらく今日、隼人に電話を掛けてしまうだろう。昨夜のことを謝罪するに違いない。それを思うと、数馬は身を焼かれる思いだった。
 しかしもう二度と、隼人が竜児にちょっかいを出すことはないのだ。それだけは安心できた。隼人は同性愛者ではない。竜児本人に気があるというわけではないのである。竜児の人脈さえ手に入れたら、あとはもうどうでもいいはずだった。
 携帯電話の個人情報が抜き取られたことは心配だったが、それよりも、竜児を守ることができたという安堵感の方が上回っていた。
 それなのに……なぜか妙な胸騒ぎが消えない。
 胸騒ぎの正体が何なのかわからないまま、数馬は次第に眠りの世界へと誘われていった。
 そして彼は、夢を見た。
 熱い手に、体中撫で回されている。
 アルブレヒト、と耳元で囁かれた。自分をミドルネームで呼ぶのはドイツ人だ。母と再婚した、あの男だ。
 夢の中は、感覚が何倍にもなっている。指先の感触が、じりじりと全身を焦がす。
 逃げようとしても、体が動かない。ベッドに縛り付けられているような意識があった。
 体中がざわざわと戦慄した。自分の体が自由にならないことが恐ろしかった。不安が徐々に大きくなり、黒い雲となって脳内を覆い尽くす。
 口が大きくこじ開けられ、何かが詰め込まれた。柔らかいのか硬いのか、よくわからない。唯一体感できるのは、生温かさだけだった。
『ヒ…』
「Hilfe...」
 思わず呟いた自分の声に驚き、数馬はゆっくりと瞼を持ち上げた。
 直後、枕元の携帯電話がメロディを鳴らし始めた。
 数馬の意識は一瞬で現実に引き戻された。金縛りが解けたばかりの状態では、なかなか腕が上がらない。
「……はい」
 やっと動いた手で端末を握り締め、着信ボタンを押す。直後、聞き覚えのある声が数馬の鼓膜を撫でた。
『おい』
「隼……」
 強制的に覚醒させられ、数馬は目を見開いた。
『田島竜児から留守電入ってたのよ。お前、まだ俺の番号残したまんまだったのかよ?』
「そんなの、勝手には……」
『フーン、そーいう権限はねーのか。俺はまた、同棲してたら何でもアリなんじゃねーかと思ってたがなァ』
「お前が思ってるような関係じゃないと、何度言ったら…」
『まァどうでもいいけどよ。今起きたら留守電にメッセージあってさ。俺はどうやって自宅に帰ったんでしょうか、なんて言ってんだけど、俺が送ったことにしていいのか?』
 数馬は一瞬、狼狽した。今朝、竜児にいい加減な説明をしてしまったことを思い出したのだ。その後のメールの返信についての話ばかりが印象に残っていたため、すっかり忘れていた。
「いや、……困る。俺が迎えに行ったと、あいつには…」
『やっぱりなァ。そんなこったろうと思ったんだよ。俺は、帰りはちゃんと送るって本人に言ったんだ。それなのにそんなこと俺に聞いてくるってことはよォ、食い違いがあるってことだろ? お前が余計なこと言ったんじゃねーかと思ってな』
 図星だった。数馬は自分の失言に初めて気づいた。
 隼人が家まで竜児を送ったと言えば、竜児は彼に負い目を感じてしまうと思った。それほど親密ではない人間にそこまでさせたということになれば、生真面目な竜児がどんな思いを抱くかは明らかだった。そのため数馬は、呼ばれて自分が行ったということにしたのである。それなら彼も気が楽だろうと。しかし、それが逆に竜児を混乱させてしまった。
 黙って何も言わない数馬に痺れを切らしたように、隼人は提案した。
『口裏合わせてやってもいいんだぜ。お前が迎えに来たことにすりゃいいんだろ』
「あ、ああ。でも」
 竜児は数馬と隼人の関係を知らない。今更、真実を伝えるのも不自然だ……そんな数馬の意見を、隼人は一蹴した。
『俺、お前の店の名前知ってるからよ。前に言ったろ? 画像見せてもらっていろいろ聞いたって。だからタウンページで調べて店に電話したことにしてやるよ』
「……」
『だからお前もそう言っとけ。それで万事解決ってわけだ』
「ああ……」
 隼人の言うとおりだった。それなら、どこにも論理の破綻がない。
 隼人は[イーハトーボ]が飯田プロの経営する店であることを知っている。それはドラマ撮影中、竜児が直接教えたことだ。
 店の名を隼人が覚えていて、電話でスタッフを呼び出した。石黒数馬個人を呼び出したのではなく、飯田プロの社員を呼び出したということである。
 他に、数馬の失言を取り繕う手段はなかった。少なくとも今は思いつかない。
『ククッ、何か俺に言うことねーのかよ? 礼ぐらい言ったっていーんじゃね?』
「う、……あ、その……」
『ま、今はいいや。貸し一つってことでな。じゃ、田島竜児には適当に言っとくよ』
「あ、…隼人…!」
 電話は切れた。
 数馬は緩慢な動作で携帯を閉じ、枕元に置いた。
 隼人の行動の意味がわからなかった。数馬に助け舟を出した彼の真意はどこにあるのだろうか。
 赤いボックスから煙草を取り出し、数馬は口にくわえた。火をつけて、煙を深く吸い込む。
 とにかく今は、竜児さえごまかせればいいと思った。
 彼に無意味な負担をかけないためならどんな嘘でもつくし、どんな屈辱にも耐える。
 それが、竜児を守るということに繋がるのだと、数馬は信じていた。

     *

 コーヒーに、ミルクが渦を描いた。
 秀一は昼下がりの喫茶店で、軽く食事を終えたところだった。
 彼の正面には、バンドメンバーのダンが座っていた。相変わらずの仏頂面であったが、秀一と二人でいる時の彼は、幾分、優しそうな表情を見せていた。
「まだ隼人さん、来てませんよ。もう、いいかげんにしてほしいですよね」
 溜め息混じりの声で、うんざりしたように秀一はこぼした。
 ダンはカップを手で掴むように持つと、ブラックを軽く啜った。
「もう気にするな。お前がいくら言っても、あいつは何も改めやしない。ストレスを溜めるだけ、こっちが損だ」
「わかってますけど……ライブのリハーサルも進まない状況じゃあ……」
「ヒロと話した。三島は曲順さえわかっていれば、あとは勝手にうまくやる。あとはその場のノリで、適当に進めればいい。今までもそうやってきたし、これからも変わらない」
 ヒロというのはドラムスの孝弘のことだ。ダンは彼のことをそう呼ぶ。隼人と孝弘の二人よりも三歳も年上の弾は、自分と違って誰にも媚びない強さを持っていると、秀一は常々感じていた。
「去年のツアーの時は、もう少しマシでしたよ。ドラマとか出るようになったら、急に天狗になってきたような気がするんですよね、あの人」
「もともとそういう素養はあったってことだ。とにかく、ライブではヒロと俺があいつに合わせて行くから大丈夫だ。心配するな、シュウ」
「はぁ……オレ、不安ですよ。普通に演奏するだけでもいっぱいいっぱいなのに」
「大丈夫だ。お前はやれる。自信を持て。ライブ中、何か迷ったことがあったら、俺かヒロを頼れ。どんな時でも、ちゃんと合図して助けてやる」
 秀一は顔を上げ、ダンの顔を見つめた。人付き合いに関しては不器用すぎる男だったが、誰よりも頼れるメンバーだと、秀一は思っていた。
「ありがとう、弾さん。オレ、弾さんいなかったら……続いてませんよ、REVENGE」
「俺はお前がいなきゃとっくに辞めてた。ヒロみたいに、身を削ることもできないしな」
「孝弘さんは、どうして何の文句も言わないで、あんな人を庇うんでしょうね? オレには理解できないです」
「インディーズからの付き合いだから、そういう力関係で落ち着いてるんだろう」
「何か、弱みでも握られてなきゃ、オレはあの人のためには動けませんけどね」
 秀一は疲れたように首を回して、大きく背伸びをした。そして思い出したように、
「そう言えば……あの、チャリティーシングルの話なんですけど」
 と、言葉を続けた。
「隼人とお前が参加する、あれか?」
「オレ、てっきり弾さんも参加するもんだと……」
「俺は最初から聞いてたが?」
「憂鬱ですよ。REVENGEから離れての仕事なんか。しかもあの人と二人って……」
「他のミュージシャンと知り合ういい機会だ。勉強になっていいだろう」
「そうですけど。……あーあ、どうせなら、まったく別のユニットで活動したいですよ。弾さんと……あと、誰か加えて」
 ダンは瞬きもせずに秀一を見つめ、悟ったように言った。
「俺なんか、何の役にも立たんぞ。それにお前は、俺たちほど自由でもない」
「それ、言わないでくださいよ」
 秀一は表情を歪めた。杏子が自分を抱え込んで離さないことは、自分自身が一番よくわかっていた。

     *

 それから数日が過ぎた。
 数馬は何度か竜児と顔を合わせたが、あの夜の話にはならなかった。隼人がうまく説明してくれたおかげだった。
 電話の内容を聞いたはずの章吾も、特に何も尋ねてはこない。もともと、数馬と竜児のプライベートに関しては、彼は何も興味を示さない。そうでない時期もあったが、現在は違った。
 数馬は今まで通り[イーハトーボ]でバーテンダーの仕事をこなした。
 そんなある日、数馬は店の戸締りをして帰宅する際に、数人の若者から呼び止められた。
 見覚えのある男たちだった。隼人の部屋の前にたむろしていたゴロツキである。
 それだけで数馬は、近くに隼人が来ていることを察した。思ったとおり、路地を抜けて新宿通りへ出た先に、一台のベンツが停車していた。
 パワーウィンドが開き、隼人が顔を覗かせた。
「仕事はないのか? 芸能人」
 冷徹に数馬は、昔からの口癖を言い放った。
「助けてやったってのに、そーいう態度取っていいのかねェ?」
「……」
「お前らの仲がどうなろうと、俺は知ったこっちゃないんだぜ?」
「感謝してる」
「じゃ、お礼ぐらいできるよな?」
「何をすればいい」
「くっくっく……フフッ、ハハッ、さすが、話が早いよなァ」
 堪えきれないように吹き出しながら、隼人は助手席のドアを開けた。
 数馬は最初から、こうなることは予測していた。交換条件がなければ、隼人が数馬を助けるわけなどないのだ。あらかじめ用意していた話だからこそ、あの日、電話を掛けてよこしたに違いない。
「心配しなくても、俺の部屋に連れてくだけだよ。朝までには話、終わるからさ」
 車を発進させ、隼人は意味ありげに笑った。

     *
 
 

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