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 薄暗い部屋の中で、携帯電話の液晶バックライトだけが点っていた。
 細く長い指が、ゆっくりとキーを操作している。
「……」
 石黒数馬は、先ほど届いたメールを読んでいた。夜明けが近いとはいえ、まだ外は暗かった。メールの送信元の都市は現在、夜の9時ぐらいだろう。
 たった今、彼の母親がこの世を去った。メールはそれを告げるだけの短いものだった。
 数馬はベッドに座ったまま、じっと画面を見つめていた。ほんの一行の文章を、何度も読み返した。
 表情はほとんど変わらなかった。こうなることは一ヶ月前から……いや、十年前からわかっていた。いつかこんな日がやってくることなど、数馬はとうの昔に理解していたのである。
 エリカ・ヴァイスはもう十数年もの間、癌で入退院を繰り返していた。最初は確か乳癌だった。その事実を電話で聞かされた時のことは今でも覚えている。
 数馬は動揺はしていないつもりだった。子供の頃から憎んでいた親がやっと死んでくれた。その程度にしか感じていないはずだ。ざまあみろ、とさえ思っている。自分ではそう、信じていた。母一人この世から消えることぐらい、どうでもいいことだと思っていた。
 しかし今、この胸の中に沸き起こる切なさは何なのだろう。彼はずっと、そればかり考え、困惑していた。予期していなかった自分の感情と、戦っていると言ってもいい。
 数馬は携帯電話をベッドの上に放り投げると、太腿の上に肘をついた。背中が丸まり、がっくりと項垂れたような体勢になる。長い髪が前に流れ、両側から彼の顔を隠した。
 母の面影が頭をよぎった。濃い化粧。真っ赤な唇。鼻につく香水の臭い。男にしなだれかかる甘い声。闇に揺れる白い脂肪。そのすべてを数馬は憎悪していた。
 優しくしてもらったことなど一度もない。いつでも自分は厄介者で、邪魔な存在だった。
 数馬はドイツで暮らしていた頃の記憶を必死で漁った。母が自分に対して行った行為のすべてを拾い上げようと思った。そうしなければ、納得のできない思いを今、抱えることになる。母の死を悲しんでいるというくだらない感情を振り落とすためには、そうするしかなかった。
 あの女が自分に何をしたか思い出せ……何度も自分に言い聞かせる。
 認めることのできない感傷に振り回されるぐらいなら、辛いことを思い出している方がずっと楽だと思った。
 そうすることが後々、自分を追い詰めることになろうとは、この時は知る由もなかった。彼はただ、不可解な気持ちから逃れたかった。
 立ち上がって、グレーのカーテンを開ける。夜はすでに明けて、朝陽が差し込んできている。端正な顔を朝の光が照らした。
 彫りの深い顔立ちだった。くっきりとした二重瞼の下に、長い睫毛で縁取られた切れ長の目。鼻筋が通っていて、口元と顎は中性的な形状をしていた。瞬きをしなければ、人形のように見えてしまうかもしれない。透けるように白い肌と、小さな琥珀色の瞳だけ見たら、誰もが異国の人種であると勘違いする。
 実際、外国の血は四分の一しか入っていない。母がハーフであったため、数馬はクォーターである。エリカの母親、つまり数馬の祖母が日本人で、第二次世界大戦中にリトアニアでドイツ人の子供を身ごもったのだということだけ、子供の頃に聞かされたことがある。
 数馬は母に瓜二つである自分の顔を嫌悪していた。しばらく鏡を見る気にはなれないだろう。
 彼は子供の頃から、写真を撮られることが嫌いだった。物心ついた頃から、なぜ赤の他人が自分の顔をじろじろと見るのかわからなかった。観光客にいきなりカメラのフラッシュを焚かれたこともある。それが自分の整った容貌のせいだと理解するまで、彼は他人の視線に怯えながら暮らしていた。
 それでもデュッセルドルフで生活していた頃は、成長するにつれ、その不安はなくなっていった。時折クォーターであることを指摘されるだけで済んだ。半分以上、日本人の血が濃いにもかかわらず、数馬はドイツ人の中に溶け込むことができたのだ。
 しかし、十二歳からの日本での扱いは、再び子供の頃に逆戻りしたようだった。日本人離れしたその顔は、常に他人の好奇の対象だった。どこの国との混血なのか、人と出会う度に答えなければならなかった。日本語が、あまりうまくなかったせいもある。どこへ行っても、ガイジン、ガイジンと指をさされた。
 そしてそれは、覚えのない妬みをぶつけられる回数とも比例していた。
 誰も、数馬の心の中など理解しようとはしなかった。自分という人間の価値を、内面で評価してくれる人間など、ほとんどいなかった。
 数馬はベッドへ戻ろうとしたが、思い直して部屋を出て行った。ここではなく、リビングで煙草を吸いたいと思った。
 誰もいない枕元に、携帯電話が転がっている。後から届いたメールには、違う文章が書かれていた。
[先日の発作のことも心配だから、近いうちに日本へ行こうと思う。連絡するよ。]
 しかし数馬はそれを軽く読み流しただけで、すぐに忘れてしまっていた。文面は、まったく頭に入っていなかった。

     *

「えっ?」
 大きな瞳が見開かれた。その表情を見て、数馬は少し伏目がちになる。
「お母さんが……」
 田島竜児は泣きそうな顔で、数馬の方を見た。
 広い室内の、窓のそばだった。壁一面の大きな窓から、朝の日差しが燦々と差し込む。二人が住んでいるマンションのリビングである。
 数馬はくわえ煙草のまま、右手でシガレットケースを弄んでいた。普段はこの部屋のテーブルに置いてある、シンプルな黒革のケースである。開閉部分のラインストーンを指の腹で磨くように擦っている。
 ソファに座っていた竜児は、すぐに数馬のそばに来て、言葉を続けた。
「大丈夫? 石黒」
「何が?」
「大丈夫なら、いいんだけど…」
 こういう時に、大丈夫かと尋ねられることの意味が、数馬は一瞬わからなかった。しかしすぐに竜児の気遣いを理解し、僅かに首を縦に振る。
「ああ、俺なら大丈夫だよ」
「帰らなくていいの? お葬式とか」
「そのへんはどうでもいいんだ。やってくれる人はいるから。ただ、もしかしたら後始末や、何かの手続きで、行くことになるかもしれない」
「どうせ行くなら、早めに行った方がいいんじゃない?」
「呼ばれたら行くさ。呼ばれなきゃ行かないよ」
「まだ呼ばれて…ないんだ」
「ああ」
 数馬は煙草の先に溜まった灰を落とすため、テーブルに向かった。
 その後を追いかけるように竜児が付いていく。彼はすでにシャツと麻のパンツを身に着けており、すぐに出掛けることができる服装だった。
 まだ午前8時である。しかし竜児は、まもなく家を出なければならなかった。仕事が彼を待っている。俳優という職業を蔑ろにすることは許されなかった。
 ウェーブのかかった黒髪。他者と比べるまでもなくわかる小さな顔。優美で柔らかい物腰。地味な服装と、おとなしそうな風貌は、一見、目立たない印象を他人に与える。
 しかしひとたびカメラの前に立つと、その存在感は他者を圧倒する。彼はそれを武器に、着々と実力派俳優としての地位を築き上げてきた。
 しかし数馬と二人きりでいる時の竜児は、いつでも高校生の頃のような感覚になる。そこに存在するのは、他愛ない日常の話や映画の話、バイクの話などで盛り上がるのが好きな、どこにでもいる普通の青年だった。
 煙草の灰を灰皿に落とす数馬に、竜児は後ろからおずおずと話しかけた。
「行く時はいつでも言って。チケットの手配とかも任せてくれれば。社長にも言っておくから」
「頼む」
 後ろを振り向かず、数馬は言った。
 竜児の優しさが身に染みた。それ故に、彼の顔を見つめることができなかった。親友としてではなく、別の目で彼の顔を、体を見てしまうことがわかりきっていたからだ。
「石黒」
「ん?」
「元気出して」
「元気だよ。全然平気」
「うん……」
 竜児は俯いた。
 そこで初めて数馬は振り向き、そっと竜児の肩を叩いた。
「そろそろ支度しろよ。間に合わなくなるぞ」
「寝坊したことにするよ」
「だめだろ」
「わかったよ。でも、元気出して」
「だから元気だって」
 何度も元気だと繰り返す数馬を見て、竜児は安心したように口を閉じた。
 数馬は短くなった煙草をせわしなく吸い続けていた。

     *

 新宿三丁目で数馬が店長を務めているバーの名は[イーハトーボ]といった。
 芸能プロダクションを経営する竜児の継父が名付け親だった。もちろんこの店は、その人物の所有であり、数馬はただ雇われているだけに過ぎなかった。
 数馬はこの店が気に入っていた。竜児が一緒にいる時は自宅もそこそこ落ち着く場所だが、そうでない時は、つい早い時間から出勤してしまう。広いマンションに一人でいるよりも、ここにいる方がずっと楽しかった。
 深夜にメールの着信音で起こされ、そのままずっと起きていて、午前中に竜児を見送ってから、少し眠った。しかし二時間ほどで目が覚めてしまったため、まだ午後だというのに店に来てしまった。
 ここで独りで新聞を読んだり、コーヒーを飲んだりする時間が数馬は好きだった。
 数馬はふと、竜児と一緒に軽く朝食をとった後、何も食べていないことに気がついた。が、食欲が湧かなかった。いつものことだった。
 179センチの身長に56キロの体重というのがアンバランスであることは承知していたが、どうしても体重を増やすことができない。食べることがあまり好きではない、と言うよりも興味がないのだった。
 幼い頃は、毎日飢えていた。だから体が空腹に慣れてしまっているのだと、数馬は思っていた。
 数馬の母は、息子に充分な食事を与えなかった。だから数馬は何度も頭を床に擦り付けて頼み、一日に一回、食べ物を恵んで貰った。貰ったものはどんなものでも残さず食べた。例え残飯でも、自分にとっては大事な食事だった。
 数馬が六歳で基礎学校に入学する頃、母は決まった男を作り、一つ屋根の下で暮らし始めた。その後は、食事に関してだけは幾分まともになった。もっとも、きちんと食事をさせてもらうためには、言いつけを守らなければならなかった。難しいことであったが、数馬は生きるためにそれに従った。
「……」
 眉間に皺を寄せ、数馬は煙草の煙を深く吸い込んだ。
 過去の記憶を反芻することは苦しかった。しかし、今はそうしなければならなかった。心の底で母の死を悼んでいるなど、絶対に認めたくなかったからだ。
 あんな女は母親じゃない……何度も心で繰り返しながら、数馬は唇を噛んだ。
 数馬は今でも覚えている。彼の目の前で男に抱かれ、喘ぎながら腰を振る浅ましい姿を。
『アルブレヒト、お前はこの女のマンコから産まれてきたんだぜ、ヒャハハハッ』
 男に強引に見せられたグロテスクな器官。数日間、吐き気が治まらなかったことを思い出す。
「……ウッ」
 一瞬、当時と同じ嘔吐感を感じて、数馬は手で口を押さえた。
 カウンターの上には煙草と灰皿、新聞の他、白い紙袋が置かれていた。数馬はその紙袋の中から白い錠剤を一個取り出し、口の中に放り込んだ。吐き気を抑える作用のある薬である。本来は、別の薬の副作用として表れる症状を緩和するために処方されているものだ。
 カウンターの中に入り、グラスに水を汲み、飲み干した。
 グラスを洗い、再び席の方へ戻る。長い髪を掻き上げて、ボックスから新しい煙草を一本つまみ出したその時、ドアベルが鳴った。
「おっ、やっぱりおったな」
 扉が開いて顔を覗かせたのは、坂本憲治だった。この店の常連でもある、数馬の大事な友人の一人だ。
 高価そうなブランドスーツに身を包み、キュッとネクタイを締めている。いつ見ても身奇麗にしている伊達男だった。漆黒の髪をムースで固め、オールバックに整えている。少々目尻の下がった表情と、不敵に笑っているように見える口元が、遊び人であることを周囲にアピールしていた。数馬よりも二歳年上で、今月中には三十歳になるはずだが、ちっとも落ち着く気はないようである。
「章吾は?」
 数馬は尋ねた。憲治は背後を親指で指し示しながら言う。
「紀伊国屋寄ってから来る言うてたで。中古で買うたゲームの攻略本探してるんやと」
 言いながら憲治は、店内に歩を進めた。手に持っていた包みをカウンターの上に置く。同時に、数馬の名前が書かれた白い薬の袋に気がつき、軽く眉をひそめた。
「まだ、あの発作出んのか?」
「いや、もう出ないよ」
 数馬はあっさりと答えた。
「病院、行っとるんやろ?」
「もう行ってないよ」
「薬、飲んでるやん」
「ある分は全部飲み切れって言われたからさ」
「ふむ…」
 憲治は心配そうな顔で肩をすくめると、カウンターの上に置いた包みを開け始めた。白い紙とビニール袋の中から、すぐにピンク色の塊が登場した。燻製によりベーコンに姿を変えた豚バラ肉である。独特の香りがぷんと鼻をついた。
「ごっつようできてん。使うてや、な?」
「悪いな。いつも」
「いやいや。俺も趣味やからね。息抜きいうか」
「金払うよ。材料費と……」
「かめへんがな。ここで客に出してもらえるだけで嬉しいし」
「ヴルスト…、ソーセージは作れないのか?」
「ドイツ人の舌に合うもんは作れんなぁ」
「そのへんで売ってるのよりマシなら、妥協するよ」
「妥協言われてもなぁ」
 憲治は複雑な表情で頭を抱えた。
 数馬は少し笑いながら、ベルトポーチの中からアーミーナイフを取り出し、ベーコンの端の方を薄く切り始めた。
 その時、再びドアベルが鳴った。扉が開いて、憲治の弟の章吾が中に駆け込んでくる。
「数馬さん、お疲れさんです!」
「よう」
 章吾は大きなスポーツバッグを持って、足早に兄の隣に立った。白いTシャツにダボッと大きな迷彩パンツ。学生が履くようなスニーカーと、黒いベースボールキャップが若々しい。その顔は驚くほど子供っぽく、愛くるしかった。この店でウェイターを務める彼のことを、客はおそらく学生のアルバイトだと思っているだろう。実際は、もう二十五歳にもなる。
「あ! 今朝、臭うたやつや」
 ベーコンを覗き込んで、章吾が嬉しそうな声を上げた。
「持って来たやろ、ちゃんと」
 憲治が胸を張る。章吾は数馬の顔を見上げながら、
「今朝、兄やん、オレの足踏みましてん。それでオレ起きてもうて。これ、よそに持ってかれたら、どついたろ思てましてん」
 と、まくし立てた。
「スモーカー置いてるベランダに、章吾の部屋からしか行けへんもんでな」
「めっちゃ腹立つわぁ。足首痛ぁて、かなわんわぁ。どこぞのマッサージ、連れてってもらおかなぁ」
「あー、わかったわかった」
 憲治は、数馬が切ったベーコンを一切れ摘んで、章吾の口に押し込んだ。
「むー」
 口に押し込まれた肉片を、章吾はもぐもぐと食べる。やがて仰天したように、兄の顔を見つめた。
「うまいわ!」
「そやろ」
 憲治が目を細めて微笑む。
 数馬は二人の様子をじっと見つめながら、軽く笑った。
 彼らと会うと、辛い出来事を忘れられるような気がした。数馬は大きく息をつくと、ベーコンを一切れだけ口に運んだ。それが、この日、彼が食した最後の固形物だった。
 壁の時計は、午後4時を指していた。

     *

 都内のテレビスタジオの楽屋で、竜児は座布団に座り、じっとテーブルに向かっていた。
 テーブルの上には、手付かずの弁当やペットボトル、菓子などが整然と並べられている。
 竜児は先ほどからずっと、ノートパソコンで検索を繰り返していた。ディスプレイに豪華な花束が幾つも表示されている。竜児は忌々しそうにウィンドウを開いたり閉じたりしながら、ひたむきに目的の商品を探しているところだった。
 しばらくして、ノックと共に楽屋の扉が開いた。眼鏡をかけた痩せぎすの女性が、速い動作で中へ入ってくる。
「もうちょっと待つみたいよ。何か飲む?」
「いえ。まだいいです」
 竜児は微笑んで首を左右に振った。
 女性の名は滝瀬麻紀。竜児のマネージャーである。薄化粧で、長い髪をゴムで束ねている。四十近いというのに、まったくと言っていいほど飾り気がない。姿勢がよく、立ち居振る舞いはきびきびとしていた。
 麻紀は竜児の向かい側に座ると、テーブルに肘をついた。
「どう、お花は決まった?」
「うーん。何だか豪華すぎる感じで……。菊とか少しあればいいんですけど」
 竜児はうんざりしたように両肩を上げ、ぐるぐると回した。コキコキという音が麻紀の耳にも聞こえる。相当、肩凝りがひどいようだった。
「じゃ、そのへんのお店で買っちゃってもいいわね。お部屋に飾るだけなんでしょ?」
「ええ。どこに持っていくわけでもないから。リビングにちょっと飾れたらって」
「今夜は何時までかかるかわからないから、あたし後でちょっと行ってきてあげようか? 花瓶も地味なの買っちゃっていいわね?」
「あ、それだと助かります。すみません」
 竜児はホッと息をつくと、大きく背伸びをした。
 麻紀は多少男性的な部分もあったが、竜児よりはずっと繊細な心の持ち主だった。彼女に任せられるなら安心できる。
「石黒くんは、帰らなくていいの? 実家に」
 麻紀が尋ねた。
 数馬のことは、麻紀もよく知っている。女性に対しては敵意を剥き出しにする数馬だったが、麻紀のことは信頼しているようだった。年齢が離れていることと、彼女が数馬と同じゲイ、つまりレスビアンであるというのが理由らしい。
 竜児は肩を落とし、悲しそうに、
「何か、複雑みたいで」
 と、答えた。
「帰省したこともないわけ?」
「少なくとも、俺と暮らすようになってからは一度もないです。手紙とかは、お父さんの方からはたまに来てましたけど」
「あっ、お父さんはご存命なの」
「いえ、本当のお父さんはもう亡くなってて。……多分、手紙や電話をくれてるのは、お母さんの再婚相手じゃないかと思うんです。何か、いろいろ複雑なんですよ」
 竜児は口ごもりながら話した。普段、数馬はプライベートを話題にすると不機嫌になるため、こういう話をしていると、条件反射でビクビクしてしまう。
 生まれる前なのか後なのか、とにかく父親が事故死した関係で、赤ん坊の頃にドイツの母の実家に行ったのだ、という話は本人から聞いたものである。それでも竜児は、本人のいないところで数馬の家族や生い立ちの話をすることに罪悪感があった。数馬自身のことであれば、字が下手だとか体が柔らかいとか身軽だとか、噂するのは楽しいのに。
 麻紀はテーブルの上のウーロン茶のペットボトルを一本取り、キャップを開けた。
「ふぅん。でも変わってるわね。その人、石黒くんに好かれようとしてたのかな。結婚に反対されてたりとかしてさ」
「でも、結婚を反対するってことは、お母さんっ子ってことでしょう。それはないんですよ。仲……、悪かったみたいだから。むしろその人は、お母さんと、石黒の間の溝を埋めようとしてたような気がするんですよね」
 数馬が母親を憎んでいた、という話は聞いたことがある。だが本人の口からではない。だから実際のところどうなのかは、竜児にはよくわからなかった。
 しかし今朝の数馬の様子は、明らかに淋しげだった。親子は親子である。悲しくないわけがない。そう竜児は思ったからこそ、花を飾ろうと思いついたのだ。
 数馬が文句を言ったら捨てればいい。それぐらいの心づもりでいた。
 その時、竜児の携帯電話が着信メロディを奏でた。古い映画のテーマ曲である。
「はい、田島です」
『あっもしもし、田島さんですか。俺、REVENGEのHAYATOっスけど』
「ああHAYATOさん。お久しぶりです」
 電話の相手は、人気ロックバンドのヴォーカリストだった。先日まで竜児が撮影に参加していたドラマの主演男優である。撮影中、向こうから声を掛けてきて、何度も食事をしたりした仲だ。
 人見知りするタイプの竜児は、他人から声を掛けてもらうのが有り難かった。馴れ馴れしいHAYATOの態度を批判する俳優も多かったが、それほど竜児は気にしていなかった。
 撮影中、竜児がパーソナリティーを担当するラジオ番組にHAYATOがゲスト出演したこともある。粗野で無遠慮な男だったが、自らの仕事に関しては厳しい。そんな発言が好評で、その回のリスナーの満足度は高かった。
 HAYATOは世間話を幾つかした後、声をひそめ、
『前に話したホームパーティーのことなんですけど。田島さん、顔出してくれませんかねぇ…』
 と、猫撫で声を出した。
 竜児は困った。その話はもう何度も断ったはずなのである。
「俺なんかが行っても、別に盛り上がらないから」
『そんなことないっスよ。女の子たち、田島さんのファンばっかりですって。ちょっと顔出すだけで……5分! 5分でいいから、ぜひお願いします』
「うーん……」
 電話口で黙り込む。竜児は酒が飲めない。そのため、そういった類の集まりは苦手だった。店ならまだいいが、誰かの家、部屋というのは一般人の視線がない分、乱痴気騒ぎになりやすい。竜児はそれが嫌いなのだった。
 しかし、部屋に遊びに来て欲しいと、HAYATOは撮影中から何度も誘ってきている。それをその都度、無下に断るわけにもいかなかった。
 一度行けば、しばらくは何も言ってこないだろうし、今後、断る口実ができる。そう思った竜児は、不承不承、
「わかりました。じゃ、ほんの少しだけなら……明日ですよね? 夜遅くでもよければ」
 と、答えた。
『やったァ! その後、ちゃんと送りますから!』
「あの、家の方でちょっとしたことがあったんで……どっちにしても長居はできないと思うんですけど」
『いいです、ちょっとで。田島さんが来るってことが大事なんスから』
「じゃ、近くから電話入れます。はい、ええ、それじゃ」
 竜児はボタンを押して通話を切った。少し口を尖らせている。面倒臭そうな表情だった。
「REVENGEの?」
 ゆっくりとした口調で麻紀が尋ねる。腕組みをして、イライラしているような様子だった。
 竜児は何も言わず、上目遣いでマネージャーを見つめると、頷いた。
「あいつ、評判悪いわよ」
「わかってます。……でも、俺に対しては、そんなにひどい態度取る人じゃないんですよ。だから……断る理由がなくって」
「計算してるのかもしれないわよ。竜児くんが大物だから」
「お、大物? …あ、事務所が大きいって意味ならわかりますけど。俺には何の力もないのに、そんなこと」
「向こうはどう思ってるだろうね。まあ、付き合いは程々にすることね」
「わかりました」
 数馬がこんな状態の時に、仕事以外のことで時間を潰すのは嫌だった。竜児は頼まれると断りきれない自分の性格を怨んだ。
 ふと、数馬にメールを出そうと思った。HAYATOのことを数馬に相談すれば、いいアドバイスを貰えそうな気がした。
 しかしメールを打ちかけて、竜児は思いとどまった。
 ここ一ヶ月ほど、なぜか数馬はあまり返事をよこしてこない。ドラマの撮影中は特にそうだった。電話をすれば何のわだかまりもなく話すのだが、メールに関しては急に冷淡になった。
(どうせ、返事くれないんだろうな……迷惑なのかも)
 竜児は携帯電話をセカンドバッグに押し込むと、ファスナーを閉めて脇に置いた。

     *
 
 

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