真里はザイルを括りつけると、手を振ってジキルに合図した。
ジキルは何度もザイルを引っ張り、確認した。
ザイルをピンと張った状態にして、貯水槽の梯子にしっかりと結ぶ。
そして腰に命綱を括ると、仰向けになった状態で両手でザイルに飛びつく。そのままグイッと両足も持ち上げ、ザイルに絡ませた。
横に渡されたザイルにぶら下がるような形で、手足をリズミカルに上手く使い、綱渡りをする。
「モンキー渡りだ!」
真里が興奮して言った。
「真里ちゃん、それ何?」
「レスキューの技だよ! アリサ、店長って何者?」
「ジキルはもと・ようへいだよ。チェチェンとかに行ってたんだよ」
真里は仁王立ちになって腰に手を当て、納得したようにうなずいた。
「傭兵かぁ……ただもんじゃないとは思ってたけど」
ただもんじゃないのはお前だ、とジキルが聞いていたら突っ込みを入れただろう。
あっという間にジキルはザイルを伝ってこちら側に到達した。フェンスを軽やかに飛び越え、二人の前に立つ。
「ジキルぅー!」
「アリサ!」
アリサはジキルの首にしがみついた。ジキルも力いっぱいアリサを抱き締める。
しかし、感動の対面にもあまり時間を費やせないのであった。
真里には言わなかったが、すでにデパートの八階は炎が燃え盛っていた。フラッシュオーバーが起きるのも、時間の問題だ。
即刻、また隣のビルへ移らなければならない。
ジキルはアリサの肩を叩き、体に巻き付いた腕をゆっくりと解くと、わざと抑揚のない口調で言い聞かせた。
「アリサ。もう少し、ここに一人でおれるか?」
それは、ジキルにとって苦渋の決断だった。
アリサと真里、二人を同時に連れては戻れない。一人ずつ、順番ということになる。そう考えた場合……やはり真里の方が先だ。よその家のお嬢さん――まして芸能人――よりも先に自分の家族を優先するわけにはいかなかった。
アリサは黙ったまま目にいっぱい涙を浮かべ、下を向いた。
小学二年生の児童が再び災害現場に一人、取り残されることになる。アリサはもう、一秒でも一人ではいられなかった。しかし彼女は殊勝にも、
「うん……。じきるの言うとおりにする」
と、コクリとうなずいた。
「すまんな……」
「……ひっく……ひっく……えぇん……うぇぇん……」
肩を上げてしゃくり上げて、アリサが泣き出した。ジキルは心を鬼にしてアリサから離れ、真里を呼んだ。
その時、あっけらかんと真里が言った。
「店長! あたしもモンキー渡りできるよ! セーラー渡りも!」
「なっ……何やと」
ジキルは、開いた口が塞がらなかった。
「お前のおとん、可愛い娘に何教えとんねん……」
「ねえ、だからあたし、先に一人で向こうへ渡る!」
「スカートやと、足がキツイで。それでもええんか」
「覚悟はできてるよ!」
真里は自信たっぷりの顔で首を縦に振った。
跳ぶ前とは全然顔つきが違う。恐怖心を乗り越えたことで、大きく成長したのだ。
ジキルは真里の腰にザイルをしっかりと巻き付け、先端にカラビナを付けた。一部がバネで開閉する形になっている金具である。ロッククライミングなどでも用いる。
張り渡してあるザイルにカラビナを取り付け、命綱の準備は万全だ。
真里はフェンスを乗り越えると、ギュッと両手でザイルを握り、ぶら下がった。
「ふんんっ!」
腹筋を使い、両足を思いきり持ち上げて、ザイルに引っ掛ける。両腕と両足に全体重がかかり、ふるふると震えた。このまま、隣のビルまで渡って行かなければならない。
(足が痛い……でも、頑張らなきゃ! 店長があたしなんかに構ってたら、アリサがかわいそうだよ!)
真里は渾身の力を振り絞り、手足を動かした。ザイルが無情にも膝の裏を擦り立てる。サイハイソックスがすり切れて破れ、生足に直にロープが当たった。
(痛いよう……!)
そう思うと力が抜ける。両手を離してしまいそうになる。しかしそうなったら、宙吊りになった自分を救出するため、ジキルが骨を折ることになる。
女の腕力のなさというものに、真里は初めて直面した。自分の体一つ支えられない。逆立ち歩きなら得意なのに。
(負けるもんか! 負けるもんか! 負けるもんか!!)
死にものぐるいで真里はガッツを見せた。隣のビルは高く、ザイルには傾斜がついていたが、あとほんの数メートルである。
ビルの塀に頭が触れた。もう一息で両足を下ろせる。真里は踏ん張って、綱渡りを続けた。
やがて、腰の部分も塀に到達した。ペタンとそこに座るような体勢になり、直後、真里は塀を乗り越えて屋上に転がり込んだ。
「グッジョブ!」
「真里ちゃん、ぐっじょぶっ!」
ジキルとアリサが親指を立てた。