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「気に入らねェな……」
隼人はリビングのソファに腰掛け、苛々した様子で貧乏ゆすりを繰り返していた。
夏樹が急に接近してきたことが、どうも隼人には引っかかっていたのである。
あの人付き合いの悪いダンが夏樹と知り合いだという点も気になっていた。
あのダンが心を入れ替えたなどとは、はなから思っていなかった。秀一と二人で自分を毛嫌いしていた男である。
夏樹は、歌番組などで顔を会わせた時はにこやかに会話をしたが、積極的に向こうから絡んでくることなど今まではなかった。
このタイミングで、周囲がみんな”らしくない”行動を取り始めたような気がしていた。
秀一が脱退したことで、事務所を出る理由もなくなった。孝弘と二人で移籍したいと思っていたのは、バンドとしての活動が足枷になっていたことと、秀一たちと同等の扱いに腹を立てていたからである。
秀一が辞め、ダンに対しても風当たりが強くなった今、事務所のスタッフは隼人の言いなりだった。そういう意味では、あの事件は自分にとって契機になったと言っていい。
すべてが思い通りに動いているというのに、この言いようのない不安はどうしたというのだろう……そんなふうに隼人は感じていた。
「孝弘……あいつ、まだ立ち直れねェのかよ……」
孝弘と話がしたいと思った隼人は、立ち上がって部屋の中を歩き回りながら孝弘に連絡を取ろうとした。
しかし何度かけても彼は電話に出ず、留守番電話サービスの音声が流れてくるばかりだった。
「孝弘よォ、そろそろ外に出て来いよ。いつまで引きこもってんだよ、まったく……」
携帯電話を耳に当て、隼人はイライラしたように何度も舌打ちをした。
「留守電聞いたら、とりあえず電話よこせよな。いろいろ話があるんだからよ。わかったな!」
吐き捨てるように言うと、隼人は乱暴にキーを操作して、留守番電話のメッセージを保存した。
「孝弘の野郎、マジでいい加減にしろっての。いつまでもウジウジしやがって」
携帯電話をリビングのローテーブルに置き、隼人はドスンとソファに腰を下ろした。
「シュウのことで落ち込んでんだか、数馬のことで落ち込んでんだか……ホントに使えねー奴だな、あいつは……こういう時」
無表情で親指の爪を噛みながら、隼人はゴロリとソファに横になった。
「ん……?」
ふと、ソファの座面にキラキラと光る細い毛を見つけ、指で摘まむ。強く引っ張ると、クッションから長い髪の毛が一本、ズルズルと引きずり出された。金色にも栗色にも見える髪の毛を見て、隼人は不愉快そうに顔を歪めた。
「あいつの毛かよ……何度も掃除してんのに。畜生、こんな時にイライラさせんなよ」
静電気で指にまとわりついてくる髪の毛を振り払い、隼人はそれをゴミ箱に落とし込んだ。
*
『三島は日向のことを少し警戒しているようだ。気をつけてくれ』
夏樹が電話でダンに忠告されたのは、津村との食事に向かう途中の車の中だった。
「やっぱり焼肉誘ったのは、ちょっと早かったかな~。昔馴染みだから怪しまれないと思ってたんだけど、意外と疑り深いんだね、あいつ」
『まあ、もともとそういう奴だ。ヒロ以外は誰も信用してない。そのヒロが今は誰とも会おうとしない状況だから、ストレスを溜めてるんだろうさ』
「くふふ、ああ見えて、Takahiroさんがいないと何もできないんだ~」
『大将が余計なことを考えないように、適当に機嫌を取っておくが……』
「うん、僕もまめに誘ってみるよ。心からREVENGEの行く末を案じて、メンバーを心配してるのは確かだしぃー」
『でかい赤ん坊みたいな奴だ。お守りは大変だと思うが、よろしく頼む』
「弾さんは僕よりずっとずっと大変でそ! ホントにごめんね! この埋め合わせは必ず……」
『俺のことはどうでもいい。気にもしなくていい。目的のために最大限、利用してくれ』
それだけ言って、ダンは一方的に電話を切った。ありがとう、の一言も夏樹は言わせてもらえなかった。
「弾さんって、本当にいい人だなあ……」
秀一がダンと活動し続けることにこだわった理由がよくわかった。実直で、自分が信じるもののためなら火の中に飛び込むことも厭わない。信頼できる仲間のことを真っ先に考え、誰もやりたがらないようなことを率先して買って出る。そういう男だった。
ダンの思いに応えるべく、夏樹は決意を新たにするのだった。
*
右手首にはめたロンジンは11時45分を指していた。
今夜も新宿のバー[ユリウス]を訪れていた憲治は、会計を済ませると、クレジットカードを財布にしまった。
毎晩のように出歩いて、ろくに原稿も書けていない。そろそろ日常に戻らなければと思うものの、沈んだ気持ちからはなかなか脱却できなかった。
数馬と一緒に店を切り盛りしていた弟の章吾も、意気消沈したままである。兄として、弟を元気づけてやりたいと思う。しかし、気がつけば章吾を誘うことも忘れ、一人で飲み歩いている。
もっとも章吾は少し前、大学時代の旧い友人と再会したと喜んでいた。彼は彼なりに立ち直りつつあるのだろう。
なおさら、このままではいけないという思いが湧き起こってくる。しかし感情をコントロールすることができず、憲治は足掻いていた。
その時、スーツのポケットで携帯電話がメールの着信を告げた。
「なんやねん……こない時間から……」
キーを操作してメールの本文を読んだ憲治は、うんざりしたように首を回すとタクシーを拾うために靖国通りへと向かった。
*
「いっえぇーーいっ、ケンジ久しぶりッ!」
「な、夏ちゃん!? なんでここに……?」
部屋に入るなり抱きつかれた憲治は、わけがわからないまま、自分を呼び出した相手の姿を捜した。
「よぉ、憲治。遅い時間に済まなかったな。王子様がどうしてもこの時間じゃないと都合がつかないっていうんでな」
このオフィスの賃貸主は、のっそりとした動作で冷蔵庫を開け、事も無げに缶コーヒーを取り出している。
「ねー、ケンジ痩せた? 痩せたでしょ。章吾に聞いたよ、最近飲み歩いてばかりいるって! 体には気をつけないとダメだからねー!」
「夏……ちょ、わかったから放してぇな。暑いわ」
「えええぇぇーー、キスぐらいしてくれると思ったのにぃ」
「そんなん、あとあと。なあ、おやっさん! どういうことです、これ?」
首に巻きついてぶら下がる夏樹を引き剥がした憲治は、呆然としながら部屋の中へ歩を進めた。
四谷三丁目の雑居ビル。ここはフリーライターである憲治がたびたび仕事で訪れる零細新聞社である。
新聞社といっても、ここで作られる新聞は一般には出回らない。多くの購読者がいるわけではない。場合によっては、一人が読んだだけで、刷られた分はすべて燃やすことになる。しかしその時、莫大な金が動く。
[怪文書屋]。それこそが、この新聞社の実態だった。
社長の熊田正康は憲治に缶コーヒーを差し出すと、どっかりとソファに腰を下ろした。
「細かいことは気にするな」
「気にするいうねん」
「しなくていいよぉ。クマきゅんもそう言ってるし」
「クマきゅんて」
「早く座りなよ、ケンジ! 僕、あまり時間ないの。1時には帰って寝ないと、明日早いからさぁ」
「ああ、もう、わかったがな」
なんとなく空気を読んだ憲治は、大きく溜め息をつくと、熊田の向かいのソファに座った。すぐに横にぴょこんと夏樹が座る。
「……にしても、メールか電話で一言教えといてぇな。心臓に悪いわ」
「だって、酔ってると思ったからさ。酔い覚ましのサプライズだよ!」
「なにがサプライズやねん。アホか。ここはな、芸能人が来るとこちゃうねん!」
「うんうん! 芸能人を陥れるための会社だもんね! 確かにそうだっ! 正論だっ!」
「おやっさん、もぉ……ええかげん説明してぇな」
憲治はほとほと困り果てた様子で熊田に助けを求めた。
熊田はぐびりと缶コーヒーを飲むと、ニコニコと笑いながら夏樹を見つめる。
「数年来の付き合いだ。いつもいいネタを持ってきてくれる。まあ、今日はどっちかというとネタ提供じゃなくて、依頼みたいなもんだよな?」
「依頼? 夏ちゃんが?」
熊田の言葉に、憲治は驚いて夏樹の顔を見やった。
「うふふふー」
夏樹は意味深に笑いながら、すりすりと猫のように憲治に頭をすりつけている。
憲治はポケットから煙草を取り出すと、一本引き抜いて口にくわえた。そして、ようやく落ち着いた様子で小刻みに頷いて言った。
「依頼いうことは……誰か気に入らん奴を陥れるいうことかいな」
その発言に対して夏樹が返してきた言葉は、憲治の予想から大きく外れていた。
「それよりも人助けが優先なの」
「は? 人助け?」
驚く憲治に、夏樹はニッコリと笑って応える。
「たくさんの人を助ける過程で、たっくさんお礼がもらえること間違いなし! マスコミに嗅ぎつけられる前に、クマきゅんとケンジに協力して欲しいんだ。あいつを潰すのはその後、ゆっくりでいいの」
「………………」
「ハハハ、さすがのお前も面食らっただろう」
熊田がニヤニヤとほくそ笑んだ。夏樹も大げさに腹を抱えて笑っている。
「おやっさん、ホンマですか? この子が言うてること……人助けて。ヤクザと黒い交際しまくりの暗黒の王子様でっせ?」
「もう前ほどじゃないよ! 言っておくけど!」
早口で夏樹が釘を刺す。
「ホンマかいな」
「人聞きの悪いこと言わないでよぉ。売れる前ならともかく、今はそれほど重要な人たちでもないよ。仕事に関してはね」
「仕事以外では、まだまだ利用してんのやろ?」
「目的のために必要ならね。……それはお互い様でしょ?」
「……目的、ねぇ」
憲治は歯で軽くフィルターを噛み、言葉を続けた。
「目的のために、ヤクザも熊田のおやっさんも俺も、利用する腹かい」
すると夏樹は大きなブラウンの瞳をキラリと光らせ、にんまりと歯を剥き出して笑った。
「僕とケンジの目的は最終的にはかなり近いんじゃないかと思ったから、こうやって声をかけてるの。利用じゃなくて協力を仰いでるんだよ?」
「わかったがな。ほな、話、続けて。その……人助けについてや」
肩の力を抜き、憲治は足を組んだ。ようやく話を聞く気になったか、とでも言いたげな顔で、熊田が含み笑いをする。
「じゃあ、まずは資料に目を通してよ」
「資料?」
「クマきゅんっ!」
夏樹が合図すると、熊田は家臣のように恭しくお辞儀をして、折り畳んだ書類をシャツのポケットから取り出した。
「それ、僕がエクセルをプリントアウトしたの」
「ちょっとこいつを見てみな、憲治」
「これは?」
熊田の手から紙の束を受け取ると、パラパラと憲治はめくり始めた。
「それはね、ある会社の顧客情報の一部なんだ。住所と電話番号は個人情報だから、僕の一存で消してあるけど……」
「なんの会社やねん」
「一言で言うと、マルチかな。会員集めて美容器具とか健康食品とか売りつけるアレ。それで、契約者が更に契約者を紹介して……ってやつ」
「…………。……おい、夏ちゃん、これ……どういうことや?」
ページをめくる手が止まる。憲治は凍りついたように動けないまま、書類の文字をじっと凝視した。
「気がついた?」
「お前、これ……全部、有名な歌手や女優の名前やんけ!」
憲治は驚きを隠せない表情で言った。
「それが全員、そこの契約者なの。びっくりでそ?」
「なんで、こないなことに……?」
「その会社のタチの悪いところは、有名人を広告塔にしてることなんだよ。講演会やコンサートを開催して、会員を無料で招待したりしてるの。当然、その後は商品説明やら展示即売会やらして、結果的に会員からお金を巻き上げるっていう」
「えげつない商売やな」
「こういうの、放っておくと大変なことになるよ。マルチだってことが明るみに出て摘発されたりしたら、全部報道されちゃうからね! 契約してた人たちは、めちゃくちゃイメージダウンだよ」
「前もあったな。そんなんで紅白出られんようになった歌手とか……」
「うん。そこに名前がある人たちは、たぶん多額の出演料をもらってるはず。だから金銭的な被害は少ないとしても……」
「詐欺容疑で立件されたら、被害者から損害賠償を請求されてもおかしくねえってことさ」
夏樹の説明を熊田が補足した。
「そこの実態を知らないまま契約しちゃってる人も多いと思う。このまま放っておいたら被害が拡大しちゃう」
「確かにな……。こんなん、マスコミが嗅ぎつけたら大騒動なるわ」
「僕はこのリストに載ってる人たちに真実を教えて、助けてあげたいの。そうしないとすごい大変なことになるんだ……だって、もともとこのリストは、竜児さんの携帯電話に登録されてたアドレスなんだもの!」
「りゅ…………! おい待て。そらどういうことや?」
憲治の背中を、冷たい汗がひとしずく流れ落ちた。
EVERYTHING IS READY - 05へ続く