*

「ふにゃあ……日が暮れるのが早くなったにゃぁ……」
 窓の外を見やって、日向夏樹はそう呟いた。秋の空が真っ青に澄み渡っている。
 従兄でもあるマネージャーは、夏樹をこの場所へ車で送り届けた後、家に帰った。今日、ここを夏樹が訪れたのはプライベートであるからだ。
「会長はお体の具合はどうなんですか?」
 夏樹は心配そうに目の前の男に尋ねた。
 本来の目的であった会長との対話はすでに済んでおり、今は別の人間とこの応接室でくつろいでいるところだった。
 夏樹に尋ねられ、男は穏やかに微笑みながら答えた。
「医者の話では、今のところそれほど心配することはないそうです。ただ、病院に行ったり入院したりすると堅気の方にご迷惑がかかるのでね。自宅療養という形を取っています」
「早くよくなるといいですね」
「夏樹さんが顔出してくださったんだから大丈夫ですよ。奥様は夏樹さんの大ファンですからね。奥様の機嫌がよければ、会長も元気が出るってもんです」
「あはは。それならいいんですけど」
「ご迷惑でなければ、ちょくちょく遊びにいらしてください」
「はい! 僕でよければ喜んで」
 夏樹は無邪気に笑ってコーヒーを飲み干した。
「コーヒーのおかわりはいかがですか?」
「ありがとう。いただきます」
 そう言って夏樹がカップをソーサーの上に置くと、男は傍らに立つもう一人の男に手で合図をした。冷えたカップが下げられ、湯気の立つコーヒーが運ばれてくるまでに一分もかからなかった。
「ありがと! 津村さん」
 夏樹はペコリと頭を下げた。
 夏樹の前にいる五十がらみの男の名は津村忠嘉。細い体にダークな色のブランドスーツ。洒落っ気はなく結婚指輪と腕時計ぐらいしか着けていない。しかしそれがかえって彼の品のよさを引き立てていた。緩いウェーブのかかった髪を後ろに流すように整えている。細面で、表面上は温和な顔つきをしていた。
 津村は黒目がちの瞳で夏樹の顔を見つめ、話を続けた。
「今日いらっしゃった理由は、会長の見舞いだけというわけではないんでしょう?」
 そう切り出され、夏樹は少し戸惑った。しかしすぐに首を横に振り否定する。
「今日は本当にそれだけなんです」
「大丈夫ですよ夏樹さん。それを口実に私に会いに来ただなんて思っていませんから」
「うぐぅ。……意地悪ぅ~~……」
 夏樹は口をとがらせて上目遣いで津村を見た。
 その幼い表情と物言いに笑みをこぼしつつ、津村は言う。
「今回の件、少しは把握していますよ。ただ、どうにも辻褄が合わないことが多すぎてね。調べさせようと思っていた矢先でした」
「……会長にも報告しようと思ったんです。でも言えなかった。……数馬の病気のこと」
「それは伝えなくて正解でしたよ。会長はあの子のことを溺愛していますからね。それこそ目に入れても痛くないほどに」
「それをわかっていて、数馬はこっち方面には頼らないんだもんなあ。何でも一人で解決しようとする……」
「私らで良ければ力になりますよ。日を改めてゆっくりお話ししましょうか?」
「そうしてもらえると有り難いです。たぶん数馬は僕が津村さんに相談するってこと、わかってたと思うから」
「フフッ、直接頼んでくれたら嬉しいんですがねえ。昔から意地でも甘えてくれない子でね」
「津村さんは、数馬に会ったんですか? 日本を発つ前に……」
 夏樹の質問に、津村は黙って首を横に振った。
「いいえ、ずぅっと会ってませんよ。あの子は夏樹さんみたいにこちらに足を運んでくれませんからね」
「けっこう津村さんのことは好きだったと思うんだけどなぁ」
「そう言ってくださるのは有り難いんですがね。実際はどうだか」
「数馬はあの頃、いつでも年上の人とばっかり付き合ってましたけど、何ヶ月も続いたのは僕が知る限り津村さんだけですよ」
「単に金づるだったからじゃないですかねぇ?」
 津村は懐かしそうに微笑んだ。
「それに、僕と数馬が出会えたのは津村さんのおかげだし」
「そうでしたか? はて……もう忘れちまいましたね。昔のことですからねえ」
「僕は覚えてますよ! 津村さんにいきなりライブハウスのチケットもらって、びっくりしたんですもん」
「ああ、そうそう。数馬に買わされたんだった。あんたは来なくていいから誰か堅気のヒマな人に売りつけろって言われましてね」
「そうかぁ……僕は堅気のヒマな人だったんだぁ~」
「いやいや、妹にやったら夏樹さんに回ったというだけの話で」
 津村の妹はかつて夏樹のマネージャーだった。その後ちょっとした事件を起こしたが、今となっては過去の出来事である。
「はあ……数馬、僕にはすっごいいろんなことさせようとしてくるのに。あ、それは甘えてるんじゃなくて利用してるのかな僕を」
「いやいや、甘えでも利用でもない……信頼ですよ」
「う~ん……信頼されてるのかなあ? 付き合い長いつもりなのに、いまいち数馬の気持ちはわからないこと多くて」
 夏樹はポリポリと頭を掻いた。
「友達ってのは、それぐらいがいいんじゃないですか?」
「えへへ、そう思っておきます。それじゃ僕、今日はこれで失礼しますね」
 深々と頭を下げて、夏樹はソファから立ち上がった。
「後日、またお話ししましょう。一週間後はいかがですか?」
「承知しました! スケジュール確認してからお電話します」
「今日はもう遅いですから、お宅までお送りしますよ」
「あっ、それなら……僕、友達と待ち合わせをしてるんで、駅前の立体駐車場まで乗せてくれませんか? そこで車、乗り換えますから」
「立体駐車場で待ち合わせですか? 珍しいですねえ」
「はい。僕はともかく、向こうはちょっと人に見られたら困る時期なんですよ……あっ、今、電話しちゃって構いませんか? これから出るって」
「どうぞ。お話が終わったら玄関のほうへお願いしますよ」
 そう言って津村は席を立ち、スッと部屋を出て行った。後ろに控えていた男もその後に続き、ドアの外へ出る。
 夏樹は携帯電話を取り出し、キーを操作した。数秒後、電話が繋がった。
「あっ、もしもし弾さん? 待たせちゃってゴメンのそい! これから……うん、ほーい、よろしこー」
 軽妙な口調で夏樹は端末の送話口に語りかけた。

     *

 石黒数馬がドイツへ発ってから、半月が経過していた。
 摂食障害……俗に言う拒食症で痩せ衰え、ついには倒れた。本人の希望で、故郷の病院にて治療をすることになったのである。
 いつ帰国するのか、誰も聞かされていなかった。彼と同居していた親友でさえ、今後のことについて何の話もしなかったというのだから、その他の友人で事情を知る者などいるはずがなかった。
 坂本憲治はショットグラスのジンをあおり、深い溜め息をついた。
 年下の友人である数馬とよく一緒に訪れたバーのカウンター席に、憲治は一人で座っていた。
「石黒さん、早く帰国されるといいですね」
 カウンターの中からマスターが憲治を気遣った。いつもなら饒舌な憲治だったが、今日は、
「そやな……」
 と、一言返しただけだった。
 数馬を救えなかった。後悔の念が憲治の胸の中に渦巻いている。数馬が苦しみ、足掻いていることを知りながら、何もしてやることができなかった。
 もっとも、憲治が手を差し伸べることを拒んでいたのは数馬のほうだ。相談にさえ来ることはなく、何を聞いても口を噤んだまま答えなかった。
 何かが彼を翻弄していた。その結果、数馬は自らを追い詰め、摂食障害という病気で体を傷つける結果となった。
 HAYATO――三島隼人――という名の粗暴な怪物が暗躍していたことは間違いなかった。
 六年前、HAYATOは同じバンドに在籍していた数馬を陥れた。そのことが原因で二人は絶縁している。おそらく数馬はHAYATOを恨んでいるだろう。恨んでいないまでも、進んで関わりたくはないはずだ。
 それなのに……数馬はHAYATOと密会を重ねていた。部屋を訪ねた形跡もあった。深夜にそっと車の中で会っていたこともある。
 数馬が目に見えて体調を崩していた時期と、それは見事に一致する。
 二人が何の目的で連絡を取り合っていたのか憲治は探ろうと動き出した。しかしその数日後、ある事件が起こった。
 驚愕と戸惑いの中で、数馬は日本から姿を消した。
 その事件の現場に数馬がいたのだという話は後から知った。
 一体、彼の周囲で何が起こっていたのか……憲治は知りたいと思った。が、この一週間、生気が抜けてしまったようで何も行動する気が起きなかった。
 良くも悪くも、すべてが終わったという気がしていた。
 憲治が再びこの件に身を乗り出していくのは、もう少し先のことだった。

     *

「弾さん、ごめんね。待ったでしょ」
 助手席に乗り込みながら、夏樹は両手を顔の前で拝むように合わせた。
「じっくり本が読めたからよかった。今はそういう趣味を堪能する時期だと考えてる」
 弾こと早川ダンはそう答えると、ゆっくりと車を発進させた。
 ハンドルを握る手は見るからに武骨だった。全体的に体格がいい。暑いのか、シャツの袖を肘の上まで捲り上げている。日焼けした褐色の肌が夏樹とは正反対だ。
 仏頂面で鋭い目つき。少し前まではスパイラルパーマがかかっていた長髪も、今はバッサリと切り短髪にしている。
 彼は人気ロックバンドのベーシストである。しかし仲間が起こした事件が原因で、現在は活動を自粛している。
 走り始めた車の中で、夏樹はシートに身を預けると、無表情のまま黙っているダンをちらりと見た。
「何も言わないんだね」
「何か言って欲しいのか?」
「あっちの人たちと付き合いがあるってのにさ」
「そんなのは個人の勝手だ。多かれ少なかれ、この世界の人間は似たようなもんだしな」
「僕は決して聖人君子ってわけじゃない。あくどいことやってるよ、かなりね」
「正直、そんなことはどうでもいい。俺はただ、今はお前の言う通りにしたほうがいいと思った。だから、こうしてる。それだけだ」
 夏樹の住む渋谷へと車を走らせながら、ダンは抑揚のない声で話した。ラジオ番組などでもこういう話し方をする。誰が相手でもさして変わらないのだろう。
「HAYATOのほうは?」
 夏樹は本題に入った。
 ダンは一瞬、頬をピクリと痙攣させ、不愉快そうな表情を見せた。そして、
「……俺が擦り寄っていったことがよっぽど面白かったらしい」
 と、言った。
「そうかぁ……ごめんね、面倒なこと頼んじゃって」
「気にするな。俺の意志でやってることだ」
「何か、変なことされてない?」
「変なこと?」
「ん」
「意味がわからんが……土下座させられたことは変なことに入るか?」
「あわわわっ、そんなこと……ううっ、弾しゃーん!」
 夏樹はうるうると目を潤ませてダンの顔を見た。
「気にするなと言ってる。土下座ぐらいどうってことない。それであの大将の機嫌を取れるなら安いもんだ」
「でも僕は弾さんに申し訳なくてさ。HAYATOのこと、大嫌いなんでそ? それなのにいやな思いさせちゃって……」
「そんなことはいいんだ。俺はともかく……シュウのことをそっちで受け入れてくれるなら、俺はどんなことでもする。どんな屈辱にも耐える。だから日向、頼む」
「ん! その件は今、ちゃんと話通してるから待ってて。悪いようにはしないって約束するよ」
「二度と表舞台には出られなくてもいい。それは仕方がないと思う。しかし、シュウからギターを弾く仕事を取り上げることだけはしたくない。ギターはあいつのすべてだからな」
「弾さんは、本当にシュウくんのことが好きなんだね」
「好き? 好き……か。そうかもしれんな……」
 ダンは少しだけ表情を緩め、切なげに笑った。彼のことを思い出したようだった。
 シュウこと井上秀一。刃物による刺傷事件を起こしたギタリスト。バンド脱退表明をして事務所との契約が打ち切られたため、事実上芸能界からは引退した形だ。
 事件を起こしてから数週間が経過しており、すでに起訴が確定している。程なく裁判が開始されるはずだった。
「あの事件は俺のせいで起こった。あいつは俺の扱いに関して腹を立てていたんだ。俺の存在価値を守ろうとした。だから俺は、なんとしてもあいつの思いに応えなければならない」
「でもさ……あそこまでシュウくんを追い詰めたのはプロデューサー自身だからね。少なくとも世間はそう思ってるよ。減刑嘆願書もたくさん提出されてるんでしょ?」
「ああ。弁護士がそう言っていた」
「ずっと我慢してて、辛かったと思う。僕もわかるんだよね、権力者にペットみたいに扱われる気持ちはさ……」
 自らの過去を振り返り、夏樹は少しムッとした表情になった。そして更に言葉を続ける。
「それに何と言っても、一番の原因はやっぱりHAYATOなんだよ。REVENGEのチームワークをガタガタにしたのも、解散とか脱退とかの原因作ったのもHAYATOなんだからさ。それなのに、それに振り回されたシュウくんだけが罰を受けるなんて、僕は許せないからね!」
「日向、お前はREVENGEを潰すつもりか?」
「弾さんだってそのつもりでしょ? だから僕のやることに力を貸してくれてるんでしょ?」
「ああ、そうだ。それに……」
「それに?」
「もし、ヒロに関してお前が言うことが本当だとしたら、俺は三島を許さない」
「ヒロ? ああ……Takahiroさんのこと……それは僕もはっきりしたことはまだわからないんだけど……でも……」
「シュウとよく冗談で話してた。ヒロがあんな奴の言うことを聞くのは、何か弱みを握られてるんじゃないかってな」
「うん。とりあえずそっちは僕に任せて。何とか証拠をつかんでみるから」
「頼む。ヒロも俺にとっては大事な仲間なんだ」
「わかってるよ。僕だってTakahiroさんとは知り合ってけっこう経つんだもん。まったく他人ってわけでもないよ。Dark Legendの頃から見てるんだからさ!」
「ヒロはここしばらくほとんど出歩いてないようだ。三島は何度も連絡しているが、電話にも出ないらしい」
「そろそろ僕もHAYATOに近づいてみようかな。聞きたいこともあるしね」
 そう言って夏樹は疲れたようにシートに身を沈めた。

EVERYTHING IS READY - 03へ続く