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 絶対安静のため、基地に一泊するべきだ、という軍医の言葉をジキルははね除けた。
 反対を押し切り、自宅に帰ると駄々をこね、強引に周りを従わせた。
 今日だけは、名誉勲章受章者の権限を振りかざしまくりというわけである。
 「ボクはいろいろ連絡があるカラ、ここに残るヨ、あんちゃん」
「ああ。またな、アル」
 「ボクは、あんちゃんを護衛するのが仕事やカラ、いつでもそばにおるデ」
 「ホンマ、アルに先に忍者なられるとは思わんかったなぁ」
 ジキルとアルフレッドは、顔を見合わせて笑った。
そしてジキルは従弟と別れ、ヘリコプターで新宿まで送られた。
      *
 そっと自宅の鍵を開け、中へ入る。
とっくに零時を回っている。睡眠薬のせいで、かなり長い睡眠をとってしまったことが災いした。
 「アリサ、怒ってるやろなぁ……」
 ジキルはそっとリビングの扉を開けた。
電気が煌々とついたままで、中には誰もいない。
 テーブルの上に鍵盤ハーモニカと、音楽の教科書が置き去りになっていた。
 ジキルはテーブルの上の煙草を取り、一本くわえた。
ライターで火をつけ、一服する。そして、
 「アリサ……すまんな……」
 そう、ジキルが呟いた時だった。
 「じきる……?」
 後ろから、アリサの声がした。
驚いてジキルは振り向いた。リビングの出入り口で、アリサが眠い目を擦りながら立っている。今日は、シックな紺色のパジャマだ。
 「アリサ、ただいま」
「お帰りなさい、ジキル」
 アリサは、トテトテと走って来て、ジキルに飛びついた。
ジキルは煙草を灰皿で揉み消すと、フローリングの床に座り、膝の上にアリサを乗せた。
 「すまんな、約束破って。針千本や」
「うん……でも、アルからおでんわがあったよ。だから、おそくなるの知ってたの」
 「そやったんか」
 「でもね、こんなにおそくなると思わなかったからね、さっきまでここにいたの」
 「うん、うん、すまんかったな」
 「今日、ひとりでとっくんしたから、ずいぶんうまくなったよ。聞いて!」
 アリサはおもむろに鍵盤ハーモニカの吹き口をくわえ、指で鍵盤を叩き始めた。
定番の『きらきら星』である。
 アリサは力強く演奏し、ジキルは黙ってそれを聞いた。
 探し求めた自分の居場所が、ここなのかどうかは、まだわからなかった。
ジキルは未だに自分というものがよく掴めていなかったし、迷宮の中にいた。
 しかし、アリサと一緒にいると、何かが見つかりそうな気がした。
 だからジキルは、今の生活を大切にしていた。誰のためでもない、自分自身のために。
 「どう?」
 一曲演奏し終わったアリサは、得意そうにジキルを見上げた。
ジキルは拍手をした後、アリサの頭を撫でた。
 「ごっつうまかったで。明日、もっと練習しような」
「うん!」
 「さ、今日はもう寝よ。遅なると、オバケが出るで」
 「ガンマンのゆうれい?」
 「そうそう。誰もいないはずの部屋でな、弾丸を……」
 「もう、何度も聞いたよ、それー。ちがうゆうれいの話がいいなあ」
 ジキルに連れられ、アリサは自室のベッドに横になった。
 「ここからー始まる、わたしーたちの道〜♪ 通り過ぎた季節は〜♪」
「あぁっ、ジキルもその歌覚えてくれた!」
 「覚えたがな。アリサがいつも歌てる歌やもん」
 「あのね、アリサね、もっと、けんばんハーモニカうまくなったらね、それ、吹くの」
 「そうか。ほな、楽譜に起こさんとな。今度、[イーハトーボ]で、カッツェさんに頼んでみよか」
 「うん……そうする……」
 「おやすみ、アリサ」
 「おやすみなさい……じきる……」
 アリサは目を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。
時計を見ると、午前二時。小学三年生には遅過ぎる時間だった。
 「ふーっ……」
 軽く息をつき、ジキルは自分の部屋へ入ると、服を着替えた。
体全体が重い。低体温症で死にかけたのだから当然である。
 「ん?」
 ふと見ると、留守番電話が点滅していた。何か用件が入っているようだ。
ジキルはボタンを操作し、メッセージを再生した。
 『おい、今日はお前、凍死しかけたそうだな。フハハハハハッ、間抜けめ! こ〜の死にぞこないが!』
 それだけでメッセージは終わった。ほとんどイタズラ電話である。
 「あの、クソジジイッ!」
 ジキルは、遠い国に住む相手の顔を思い、悪態をついた。
机の上に置かれた写真立てをちらりと見る。
 サウジアラビアでジャックと並んで撮った写真が、まだ飾られていた。
 何度も引き出しの奥にしまい込んだが、結局は出してしまうので、諦めて飾ったままにしてある。
 「……クソジジイが……まったく……」
 ジキルはスウェットに着替え、ゴロンとベッドに横になった。
今日はとても疲れた。死にかけた上、過去と向き合う事態になった。
 米軍の、ジキルの立場を知る人間たちの中にいるのは心地よかったが、ストレスでもあった。必要以上に敬意を表されるのは、あまり好きではない。
 「ジャック……」
 あの日……片目を失い、右目だけで見た初めての顔が……ジャックだった。
 『ワシ、ワシ、目ん玉えぐられて……あああ……ああああああ〜〜っ! あーーーっ!』
『しっかりしろ! 見ろ、俺も片目だ! お前さんだけじゃねえ!』
 『に、日本語? なんで……? あんた、誰や……?』
 あの時、ジャックが枕元で日本語の歌を歌い続けてくれなかったら……自分は発狂していたかもしれないと、ジキルはその後、何度も思った。
 『その子守唄の、そこんとこ……間違うてる。うちのおかんと同じ間違いや』
『ん? そ、そうだったかな? どう歌えばいいんだ?』
 『くふふっ、そこはぁ……』
 サウジアラビアの病院でも、ジャックはジキルに付きっきりで看病をしてくれた。
三十歳も歳が離れているジキルを、ジャックは息子のように可愛がってくれた。
 『俺と一緒に仕事をしないか? お前さんに向いてる仕事だと思うんだが』
『武器商人……って、何? えっ? 米軍の……横流し?』
 『シーッ! 声がでかい!』
 ジャックのおかげで、ジキルは一人前の武器商人となった。
感謝している。感謝しているからこそ……ジャックが突然、自分を裏切ったことが許せなかった。
 ジキルは片手で顔を覆った。思い出したくないことまで、思い出してしまいそうだった。
 布団を頭までかぶり、中で丸まる。
自分の体温を感じながら、ジキルはうとうとし始めた。
 左の眼球、そして大きな心的外傷と引き換えに得た物は、星の形をした勲章。
しかしジキルの存在は、アメリカ合衆国の都合により、揉み消された。
 その償いとして、諜報機関が自分の身辺を護衛しているのだということは、ずっと前からわかっていた。
 もちろん、合衆国がジキルを要注意人物として扱う理由は他にもあるのだが……。
 ジキルはすやすやと寝息を立てた。しかし、しばらくして……。
 「……はっ!」
 いきなりパチッと目を開ける。そして、
 「し、しもーた! 結局、代金踏み倒されたんか……ワシ……」
 と、重大な事実を把握して、落ち込むジキルであった。
いつまで経っても商売下手なところは、師匠と同じなのであった。
 (了)
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