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ジキルは、米軍基地の病院へ搬送された。
何人もの人間が、交代で何時間もかけて、ジキルの全身を摩擦した。
いきなり温めると、心臓に大きな負担がかかるための配慮だった。
ジキルはその間、ずっと眠り続けた。
目が覚めた時は、完全に夜になっていた。

「う……ん、ここは……?」

白い壁と天井。パイプベッド。病院であることは明らかだった。
すぐ隣のベッドにアルフレッドが寝ている。ジキルが覚醒したことに気付かず、本を読んでいた。

「アル……」
「……? ジョナ! 目が覚めたのか。どうだ、調子は?」

アルフレッドは丁寧な母国語で話しかけてきた。日本では関西弁を喋るというジキルとの約束を、少し忘れているらしい。
仕方なく、ジキルも英語で言葉を返した。

「ああ、大丈夫や。どこも悪くあらへん」
「本当に、すまなかった……ボクの部下がもたついたばかりに」
「ええんや。アルがそばにいてくれへんかったら、ワシ、とっくに」
「あの倉庫が取引に使われるという密告があったんだ。本来なら部下が張るところだったんだが、ジョナが品川に行くというので、もしやと思って……」

密告を行ったのは、あのテロリストに事務所を貸していた暴力団だったという。
情報と引き換えに、服役中の組長の刑期減免を公安に持ちかけたらしい。
倉庫での取引に自分が絡んでいるということから、CIAに話が行ったのだろう……そうジキルは判断した。

「あいつらはボクの部下が片付けたから、もう心配しなくていい」
「ホンマか。あいつら、人のこと殺そうとしてからに」
「いざとなったら金が惜しくなったということだろうね」
「それにしても、アル……。ようあの中、入ってこれたな」
「ジョナが、あの男と倉庫に入って行った直後、ボディーガードを蹴散らして、中に潜り込んだんだ。その後、男が外に出る時に、出口を確保すべきだったんだが……」

倒れたジキルについ駆け寄ってしまったため、閉じ込められてしまったのであった。
後から部下が来るとわかっていたからよかったようなものの、そうでなければ二人で心中するところだった。

「せやかて……あんちゃんのコト、心配やってんモン」

突然、アルフレッドは関西弁になった。
そして、ジキルの顔をまじまじと見ると、目に大粒の涙を浮かべた。

「ホンマ、よかったワー。あんちゃん、無事でよかったワー」
「アル」
「あんちゃんに、もしものことあったら、ボク、兄貴たちに顔向けできヒン」
「アル、おおきに……」

ジキルは従弟に向かって微笑むと、柔らかい枕に体を委ね、大きく深呼吸した。
改めて、ここは何処かとアルフレッドに尋ねる。神奈川県にある米軍基地だとわかった後は、現在の時刻を尋ねた。
その時、病室のドアをノックする音が響いた。

「失礼。話し声がしているから、意識が戻ったらしいと、看護士が言っていたものでね」

病室に入って来たのは、カラフルな装飾を施した濃緑色のスーツを身にまとった初老の男だった。同じような服を着た若い男をお供に連れている。
その男を見るや、アルフレッドは姿勢を正した。
ジキルも、その男の服には見覚えがある。じきる堂の取扱商品だからだ。
じきる堂で扱う様々なミリタリーグッズの中には当然、軍隊の制服類も含まれている。
当然ジキルは、軍隊の制服というものが「着用する履歴書」であることを熟知しており、それを一目見ただけで、その人物が何者かわかる。
濃緑の制服の両肩に将官を表す星が三つ。これは中将という階級を表す。
つまりこの男は、在日米軍司令官ということになる。後ろに控えているのは副官だろう。

「ようこそ、リトルペンタゴンへ。合衆国の英雄に敬礼させてくれたまえ」

司令官は姿勢を正すと、ジキルに向かい、挙手の礼をした。
ジキルも釣られて敬礼をしたが、正式な兵隊の訓練をしていない彼は、いつ手を下ろせばいいのかわからなかった。

「……」
「……」

将軍が民間人に敬礼するというレアイベントが、今、この部屋では繰り広げられていた。
ジキルが返礼のマナーを知らないことに気付いたアルフレッドは、慌てて小声でジキルに囁いた。

「あ、あんちゃん、もう手を下ろしてええんヤデ! 司令官も手を下ろされヘンから、困っとるガナ……!」
「あっ、そうなんか」

高速でジキルは手を下ろす。
その後、ゆっくりと司令官は敬礼の手を下ろした。
敬礼というものは、下級者が先に上級者に対して敬礼し、それを受けて上級者が返礼し、上級者が手を下ろした後に下級者が手を下ろす……それが常識なのである。

「こんなに長い間敬礼したのは、ウエストポイント以来だよ」

司令官はにやりと笑い、見舞客用のパイプ椅子にどっかりと腰を降ろした。

「い、いや……すんません、あの」
「ん? 何かね?」
「その……ワシみたいなもんにでも……例え相手が二等兵でも、将軍が先に敬礼するいう噂は、ホンマやったんやな、と……」

ジキルは緊張し、しどろもどろになった。
笑いながら司令官は言葉を返す。

「名誉勲章受章者が今さら何を言っている。基地内では、もっと堂々としたまえ」

ジキルはポリポリと頬を指で掻いた。
中将は愉快でたまらないという顔をしながら、じっとジキルを凝視した。

「英雄の御尊顔を一度は拝したいと思っていた。今日は本当にラッキーだ」
「いや〜、ワシはそない、大したもんでは……」
「1862年の制定以来、名誉勲章というものがどれほどの価値を持っているか、わかっているのだろうね? 日本人は奥ゆかしいと聞いていたが、まったく」
「は、はあ」

ジキルは額から滲み出る汗を指で拭った。
それを見て、司令官は微笑みながら椅子を立った。長居しては体に触ると判断したようだ。

「ミスター鈴木、またいつでも基地に遊びに来てくれたまえ。健康には留意してな」
「はい。ありがとうございます」
「フフ。とぼけたところは師匠そっくりだな」

去り際に、司令官は言った。

「ジャックとは、ベトナムの頃からの付き合いだ。あの頃、私はまだ駆け出しだったが、彼と仲良くしておいてよかったと思っている。今の私があるのも、そのおかげだ」
「はあ……」
「それじゃ、元気でな」
「はいっ!」

司令官が退室し、再び病室に静寂が戻った。
ジキルは全身の力を抜き、布団に身を沈めた。

「はあああ〜〜っ、びっくりした〜〜っ」
「あんちゃん、自分がどういう立場か、ホンマにわかっとらんノー」

アルフレッドが冷やかした。そして彼は真顔になると、英語で言葉を続けた。

「ジョナは、ボクたち兄弟の……いや、一族の誇りなんだよ。家からは、他に誰一人名誉勲章受章者など出ていないのだから」

アルフレッドは、過去を振り返った。
当のジキルにとっては、忌わしい過去でもあった。

     *

1998年、イラク。
ジキルは頭から大きな布を被り、日射しを遮っていた。
50度を超える気温。まるで、体が焼かれるようだ。顔や手など、直射日光に当たる部分がジンジンと痛む。
この春、東京の美大を卒業したばかりのジキルは、しばらく就職もせずにぶらぶらと遊んでいた。
時折、小遣い稼ぎのアルバイトをしては、それで適当に食い繋いでいた。俗に言うフリーターである。
画家になるつもりもなかったし、美術関係の仕事に就くつもりもなかった。
彼はただ、自分自身の居場所を探し続けていた。

『そや、どっか旅に出たろ。スケッチブックだけ持って』

そんな軽い気持ちでジキルが訪れたのは、中東だった。
80年代のイラン・イラク戦争、そして90年代の湾岸戦争の傷跡が生々しく残る場所へ、なぜ行こうと思ったのか……。
ジキルは今となっては、その時の心情が思い出せなかった。
しかし、危険な地であれば、極限というものを知ることができると思った。
セルフ・アイデンティティという概念を持たずに悩んでいたジキルの、それは挑戦だったのかもしれない。

自分は誰なのかという疑問に、答えてくれる者はいなかった。
だからジキルは、答えを求め、彷徨った。そして彼は、夏、イラクを目指す。
そしてその旅の途中、思わぬ人物との再会が、彼の人生を狂わせた。

『ジョナじゃないか……。なぜ、こんなところにいるっ?』
『あー、ジェド? 久しぶりやな〜、ワシ、旅行で来とんねん』

それは、従兄のジェド。傷を負った仲間を連れ、ひっそりと用水路に隠れていた。
合衆国海軍特殊作戦部隊……ネイビーシールズを、従兄は率いていた。
この時、シールズはある作戦の支援のため動いていたのである。
それがひょんなことから発見、追尾され、あわや全員捕虜か虐殺……というピンチに直面していた。

『ほな、ワシが囮なったろか? その隙に逃げたらええがな』
『バカなことを言うな。捕まったら殺されるぞ!』
『けど、大事な従兄を見殺しにはでけへんよ。同じ名前のよしみやんか』

ジェド、というのはジキルのファーストネームの愛称でもあった。
しかしこちらのジェドがいるため、彼の兄弟たちにはジキルはミドルネームで呼ばれていた。

『ダメだジョナス、論外だ。民間人がそんな……』
『ほな、勝手にやらせてもらうわ。ワシらはここで会わんかった。それでええやろ?』
『ジョナス……なぜ、そこまで……』
『あんなあ、ジェド。日本にはブシドーいうもんがあんねん。それはな、日本人でおる限り、守らないかんルールみたいなもんやねん』
『……』
『大事な人救うためなら危険も厭わん。これ、ブシドーやねん。カッコええやろ』

そう言うとジキルは、その場を離れようとした。わざと目立つ行動に出て、イラクの大統領警護隊の目を引くためである。

『待て、ジョナス。せめて、これを飲んでくれ。発信機だ』

従兄に渡されたカプセル型の発信機を飲み込む。
そしてジキルはジェドに手を振り、姿を消した。
近くまで忍び寄っていたはずの警護隊も、いつの間にかいなくなっていた。
ジキルの機転により、ネイビーシールズのチームが丸ごと、救われたのである。

しかし、旅行者を装ったスパイとの嫌疑をかけられたジキルは、想像を絶する恐怖と直面することになる。
ジキル本人は、悲しいかな、そこまでは考えが至っていなかった。

数時間後。
投獄されたジキルを救うため、救出部隊が急襲をかけた。
チームの面々は、ボロ雑巾のようになった彼を見て、絶句した。
体中、傷跡がない箇所などどこにもなかった。皮膚の色は変色し、手足はあり得ない方向に折れ曲がり……片目をえぐり取られた顔には、大きな穴が空いていた。
血溜まりの中、それでもジキルは生きていた。
黒髪のチームリーダーは言った。このガキを必ず生かして日本に帰すと。

虫の息だったジキルは米軍の空母へと搬送され、治療を受けた。
拷問の恐怖で一時は錯乱状態となっていたものの、心のケアもうまくいった。
そしてサウジアラビアの基地の病院に入院中……。
彼は、メダル・オブ・オナー・ネイビー――海軍議会名誉勲章を授与されたのである。
生命の危険を顧みず、勲功を上げたこと。
[砂漠の狐作戦]を成功へ導いたことなどが受章理由だった。

しかし……。

     *

「本当なら、大々的に表彰式が行われるべきだったのに……合衆国は、それをしなかった……ボクたち兄弟が、どれほどいたたまれない気持ちだったか……」

アルフレッドは唇を噛み、体の上の両手をわなわなと震わせた。
数年前の悔しさが甦ってきているという感じだった。
勲章の授与は非公式のもので、秘密裏に行われた。
ジキルが日本人であったこと。軍人ではなかったこと。事情はたくさんある。

「日本人の旅人が、米軍の作戦巻き込まれて大怪我した……なんてことが明るみに出てみい。国際問題やろ」

ジキルは寝返りを打ち、従弟に背を向けたまま静かに言った。

「そ、そうだけど、でも……!」
「シールズが民間人を盾にして逃げた、て批判されてもおかしない状況や。せやから、あれでよかったんよ、アル」
「ジョナ……。ボクたちは、それが悔しくて悔しくて……ジェドだって、どれだけ怒ったと思う」
「ええんや、ワシは。大統領と仲良うなれたしな。ええ人やったなあ、あの人」
「ジョナあんちゃん……」

アルフレッドは、そっとベッドから起き上がった。
そして隣のベッドに歩み寄り、ジキルの手をそっと握った。

「命をかけて兄を助けてくれたあんちゃんを……ボクは絶対に守る。命に代えても」
「アル……おおきに。ありがとな」
「シャドウ・ウォリアーやから、ホンマは姿見しタラいかんのヤけどナー」
「かめへん。いつでも姿見せてや。また朝まで飲もうや」

ジキルはアルフレッドの顔を見上げ、ニッと笑った。
 
 

シャドウ・ウォリアー-04へ続く