「ふーん。コレクターが血眼になって探しているエメラルドねえ」
「間違いないねん。あんなもん持ってたら、絶対あの人狙われる」
ジキルはソファに座り、自分の1.2倍はあろうかという大男と向かい合っていた。
男は午前中から叩き起こされたため機嫌が悪かった。大家の特権で、合鍵を使って入って来られたのだからたまらない。
彼の名は神田槍介。このビルの四階に事務所を構える私立探偵である。
タータンチェックのシャツをだらしなく羽織り、ボサボサの頭をポリポリと掻いている。事務所の中はお世辞にも整頓されているとは言えず、雑然とした印象だった。
「そんなに珍しいもんなのか。そのエメラルドってのは」
「特別ないわれがあるんや」
ジキルは、目上の人間には丁寧な言葉遣いをしなければならないという義務を明らかに放棄していた。俗にいうタメ口である。
人生の半分近くを外国、或いは米軍基地内で過ごしたジキルであったが、日本語特有の敬語の文化にはすっかり慣れ親しんでいた。それは偏に、彼の小学生時代の家庭内教育の賜物だった。
しかしそんな経験も槍介の前では、まったく役に立つ気配がなかった。
ジキルはこのビルの事実上のオーナーであり、槍介は店子である。つまり立場的には、ジキルの方が上なのであった。
「19世紀末のヨーロッパで作られた、少女の像があるんや」
「ふーん」
「オスカー・ワイルドの『幸福の王子』をモチーフにしたような。全身プラチナで、体の各所に宝石が埋め込まれてた。プラチナのボディと一部の宝石だけは、今は博物館に保存されとる」
「まさかそのエメラルドが、その宝石だっていうのか?」
「目や。目の部分の宝石や」
「証拠があるのか?」
「30.17カラットでオーバル・カット。こんなもんは他にない」
「そうとも限らんだろう」
「ナッキーさんも言うてたけど、エメラルドは四角いんが当たり前なんや。そないカットするんが最も安全やから。割れてまう危険を侵してまでオーバル・カットにする意味あらへん。30.17カラットやど? 幾らする思うてんねん。仮に『目』やなくても数百万。もしもホンマに『目』やったら、数千万から億の値がつくんやで」
「ふーん。俺にはただの石コロだけどな」
「アホか。そんなん言うてるから仕事にありつけへんねん」
「悪かったな」
「ホンマのことやん」
私立探偵という看板を掲げてはいるものの、槍介が暇を持て余していることは周知の事実である。
彼は、ジキルもまめに顔を出すバーの常連客であったが、会計をしているところを見たことがない。どうやら槍介は特別らしいが、マスターにその件を尋ねると不機嫌になるため、誰も関わろうとはしなかった。
「……で、俺に日向夏樹の身を守れと?」
槍介は煙草に火をつけて、面倒臭そうに言った。
ジキルは立ち上がり、テーブルを飛び越えて対面のソファに座った。横から槍介ににじり寄り、袖を掴んで甘えた声を出す。
「なぁ〜、ええやろ〜? あんなもん持ってたら、ナッキーさん危ないんやから〜」
「わかったから近寄るな。俺は男は嫌いだ」
「ここの家賃、何ヶ月分溜まってるやろか〜?」
「わかったよ。やればいいんだろ。……で、いつまでやるんだ? エメラルドを持ってる限りずっと、なんて御免だぜ」
「撮影終わったら、ワシがさりげなく話すわ。どっか貸金庫にでも預けるよう勧める」
「まあ、そういうことなら」
「やっぱ、頼りになるわ〜。持つべきもんは店子やなぁ〜」
ジキルは槍介の腕にすりすりと頬擦りした。
膝の上に乗ってきそうな勢いのジキルから逃げつつ、槍介はソファから立ち上がった。
その時、ジキルの携帯電話が着信メロディを奏でた。槍介には曲名がわからない、騒々しい音楽だった。
「もしもし? おう、やってくれるか? おーきに」
喋っていたのは英語だったが、槍介の頭の中では関西弁に翻訳されていた。
ジキルは早々に電話を切ると、機嫌がよさそうな微笑みを浮かべながら、事務所を出て行った。
*
二週間が経過した。
その間、槍介は夏樹から離れず、目を光らせていた。
夏樹もまた、同じバーの常連である。槍介とは顔見知りだ。
しかしジキルの意向で、夏樹にはエメラルドの話は秘密のままだった。
もしも夏樹がプロモーションビデオにエメラルドを使用しない、という話になったら、服のデザインをやり直す羽目になる。それが理由らしかった。
その日、ジキルは仮縫いの衣装を持って、夏樹のマンションを訪れた。
リビングのテーブルの上に、待ち針をうった状態の衣装を広げる。黒いベルベットにレザーを組み合わせている。裏地やスリットの内側には緑色を用いて、激しく動けばチラチラと覗くような仕組みだ。
「カッコイ〜!」
「ホンマ、仮縫いまで進んでよかったんですか? ちょう、心配で」
「うん。OKだよ。ジキルのこと信用してるもの」
「ほな、合わせてみますか? 待ち針んとこ気ィつけて」
夏樹の首には、例のエメラルドをはめ込んだチョーカーが輝いていた。
ジキルに着付けてもらいながら、夏樹はベルベットの肌触りを楽しんでいる。
「あの後、ジキルの言ってたこと、少し考えてみたんだけどさ」
「は? ワシ何か言いましたっけ?」
「自分ってものがないんだって話。そのために服を作るんだって言ってたじゃん」
「ああ〜、あのことですか……」
「服を作るのが好きだっていう気持ちは、自分らしさとは違うの?」
「いやぁ……これが好きや、いうんは違うんちゃいますか? ようわからんけど」
「そうかなぁ」
「例えばワシはナッキーさんとカッツェさんのファンやないですか。けど、それはワシの『感情』であって、プロフィールでも何でもないわけですよ。そういうことやなしに、アイデンティティいうのは、もっとこう、信念とか……正義とか、倫理観とか……」
「う〜ん、難しいね、やっぱり」
「混乱させてもーてすんません。アホですねん、ワシ」
言いながらジキルは何度も、生地の緑色とエメラルドの色を見比べていた。
そして突然、バッグの中から別の生地を出し、
「やっぱ、こっちの緑やわ。替えますわ、これ」
と、言った。
夏樹は驚いて、それぞれの緑色を見比べた。確かに僅かだが色が違う。
写真でしかエメラルドの色を確認できなかったため、頭に描いていたイメージと食い違いがあったのだろう。
「どれかな〜思うて、同じように裁断したの幾つか持ってきてますねん。すぐ付け替えられますんで、ちょこっと直したいんやけど、どっか場所使うてええですか?」
「ちょっと待って。緑色の部分、全部取り替えるの?」
「ハイ」
「じゃあ、結構、大仕事だね……。向こうの部屋のテーブルなら大きいから、そこでいいかなぁ?」
「すんません。ほな、やらしてもらいます」
今までも何度かこのようなことがあった。だから夏樹は慣れていた。
撮影直前になって、いきなり服の一部を破いたり、鋏を入れたりしたこともあった。ジキルは自分が縫った服に関して妥協はしなかった。
ジキルは夏樹の衣装を脱がせ、色を合わせるためにチョーカーを借りると、隣の部屋へと移動した。
夏樹はソファの背もたれに体を沈め、ジキルの作業が終わるのを待った。
服を仕上げている時のジキルは、正にプロフェッショナルだった。誰も近寄ることを許さない。同じ部屋にいることができるのは、スバルぐらいのものだった。
夏樹は冷めたコーヒーを口に含み、ジキルと初めて会った時のことを思い出していた。
『ファンですねん! ちょうど片目失明した時、紅白見て……。これから一生、どないしよ思うてた時やったから、歌、心に染みて……』
彼が自分自身を探そうとして苦悩していることの意味が、まだ夏樹には理解できなかった。
ジキルはよく喋り、よく笑う、子供のような青年だった。
好きなものには愛情を注ぎ、興味のないものには見向きもしない。
熱しやすく冷めやすい性質で、心変わりも激しかった。
それらすべてが、彼の個性だと夏樹は思っていた。
ジキル本人が求めているアイデンティティの基準がどこにあるのか、夏樹にはわからない。
そのうち酒でも飲みながら、ゆっくりと話し合ってみたいと思った。
「お待たせしました。これでバッチリですわ」
服を持って戻って来たジキルは、満足そうな笑みをたたえていた。
自分自身、納得のいく仕事ができたのだろう。
夏樹はジキルから返されたチョーカーを再び首に巻いた。
そしてもう一度、衣装に袖を通す。
鏡を見ると、確かに前よりも緑色がしっくりと馴染んでいる印象だった。
「すっごいいいよ! これ気に入ったー!」
「ホンマですか? よかったわ〜」
「次に着るのは完成した時だよね? 楽しみだなー」
夏樹が喜ぶ様子を見て、ジキルはホッと息をついた。
改めて納品までの日数を打ち合わせると、丁寧に衣装を包み、バッグの中へ入れる。
手を振る夏樹に見送られ、ジキルは夏樹の部屋を後にした。
「よっ、お疲れさん」
マンションの外で、ジキルは槍介に声をかけた。
壁にもたれながら煙草を吸っていた槍介は、くわえ煙草のまま、ジキルを一瞥した。
「機嫌がよさそうだな」
「まあ、ねえ。仕事がうまくいったからやろなぁ〜」
「ふーん。そりゃよかったな。ところで、日向夏樹のこの後のスケジュールは?」
「夜遅くまで家で作詞して、その後[イーハトーボ]に顔出す言うてたで」
「そうか。お前も来るのか?」
「行く行く。当然やろ」
「じゃ、またその時に」
「おう。よろしく頼むわ」
ジキルはスクーターに飛び乗り、手を振りながらその場から走り去った。
槍介は吸いかけの煙草を勢いよく吐き出すと、地面で踏んで火を消した。
「まったく……」
そう呟き、槍介は疲れたように首を回した。
一方ジキルは、ヘルメットから覗く長い髪をなびかせ、細い道を疾走していた。
明治通りに出れば、新宿までは真直ぐである。
「ん?」
不意に、通行止めの看板が目に入った。
仕方なくジキルは脇道に逸れ、遠回りをすることにした。
しかししばらく走ると、
「何や、また通行止めかいな」
ジキルは口を尖らせながら左折した。
さすがに二回も脇道に入ってしまうと、どうすれば明治通りに出られるのか、よくわからなくなった。
「ありゃ?」
進んだ先に、またも通行止めの看板があった。
「このへん一帯、大掛かりな工事でもしてるんやろか?」
ブツブツと文句を言いながら、さっきの看板のところまで戻り、今度は右折した。
そのまましばらく走っていると、道路ではなく、大きな敷地に出てしまった。
廃虚のような古い建物がある。どうやら、使用されなくなった工場のようだ。
「こっち……は抜けられへんか。ほな、最初のとこまで戻るか……」
ジキルはUターンをして、もと来た道を戻ろうとした。
その時だった。
廃工場の中から、数人の人影が飛び出してきた。
「!!!」
ジキルはアクセルグリップを思いきり回した。
しかし、間に合わなかった。
吹かしたエンジンの動力がタイヤを介して地面に伝わる前に、ジキルの内臓は、強く左右に振られた。
「しまっ…」
突然、横合いから飛び出してきた車がスクーターにぶつかってきた。
小柄な彼の体は、ピンポン玉のように弾かれた。
エメラルドの秘密-03へ続く
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