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 幹部が、冷淡な口調で大柄な手下に命令した。
 「おい。片足折っとけ。逃げられないようにな」
 男は黙ってジキルの足枷を外した。そして片足を抱え、決して曲がらない方向へ捻り上げる。
 「いっ! 痛…っ!」
 そのまま弾みをつけて、全体重をかけようという体勢だった。
ジキルは最後の力を振り絞って暴れようとした。
 その時だった。
 スイートルームの照明が一斉に消えた。
ガラスが割れ、缶ビール状の物体が外から投げ込まれる。
 大音響と閃光。ジキルはとっさに右目を庇うように、枕に顔を押し付けた。
 チャイニーズマフィアたちは、そのままの姿勢で呆然と立ち尽くしていた。
 黒い塊が、幾つも窓から室内になだれ込んだ。
入り口の扉からも、黒い影が駆け込んでくる。
 壊れかけの電動タイプライターが立てるような連続音が、散発的に響き渡った。
 「クリアー!」
 口を押さえて喋っているようなくぐもった声。
同じ言葉が、あちこちから聞こえる。
 微かに血の臭いが漂ってきた。
 突然、ジキルは髪の毛を掴まれ、乱暴に顔を上げさせられた。
白色のライトが目の前で光る。あまりの眩しさに、ジキルは目を細めた。
 自分を照らしている人間の姿はよく見えない。が、頭をすっぽりと目出し帽で覆い、ガスマスクを着けているようだ。
 英語で何か話し合っている。どうやら写真と照らし合わせ、ジキルの顔を確認しているらしい。
 「な…何や…、お前ら…?」
 ジキルは尋ねた。
すぐに、英語で答えが返ってきた。
 「心配ない。我々は存在しない。忘れろ」
「……ああ、そういうこと。了解……」
 納得してジキルは頷き、力なく微笑んだ。
肩にチクッとした痛みを感じた。
 とたんに彼はがっくりと頭を落とし、深い眠りに落ちていった。
      *
 「じきるー」
「……………………」
 「じきるー」
 「………………」
 「しゃちょー」
 「…………」
 目を覚ますと、二つの顔が自分を覗き込んでいた。
ジキルが作ったゴシックロリータの服に身を包んだ、8歳になったばかりの少女。
 そして、ブティックの経営を任せているサーファーの青年。
 いずれも見慣れた顔だが、ジキルはとっさに状況を理解することができなかった。
 「じきる、どこいってたの?」
「ア、アリサ……」
 しゃがみ込んだアリサが、木の枝で自分をつついている。
ジキルは体の下に、コンクリートの冷たさを感じた。
 ようやく自分が倒れているのだということに気付いた彼は、両手を地について上半身を起こした。
 「かえってこないから、しんぱいしてたんだよ。そしたら、こんなとこでねてるから」
「こんなとこ、て…?」
 「社長〜。また[イーハトーボ]で飲み過ぎたんスかぁ?」
 「……ここは……店?」
 ジキルは辺りを見回した。
米軍放出品のショップ[じきる堂]の看板が見えた。
 夕方、シャッターを閉めて、ホテルに配達に出た。店先の様子はその時のままだった。
 目の前にエレベーターが見える。新宿の雑居ビルの六階だ。
 「ワシは…ここまで、…運ばれ……」
 ジキルは慌てて自分の顔に手を当てた。
黒い眼帯に指が触れる。きちんと古傷を覆い隠している。
 服も、外出した時のままだった。
 ふと、シャツの袖を見た。赤と黒のボーダーだったが、ところどころにドス黒い染みがある。おそらく、チャイニーズマフィアの血を吸ったのだろう。
 「社長〜、髪の毛ボサボサじゃないッスかぁ。せっかくきちんとセットしたのにぃ」
「ん? あ、ああ、すまんかった……」
 「明日の朝、またセットしに来ますからね。ちゃんとシャンプーしといてくださいよ」
 「ああ……わかった……」
 ジキルは、上の空で聞いていた。体のあちこちが痛む。
さすがに傷の手当てまではしてくれない。ジキルは溜め息をついた。
 「また、間違えてボディソープで頭洗わないでくださいよっ。パッサパサになっちゃいますからね」
「だいじょうぶだよー。ジキルはアリサがちゃぁんとあらってあげるんだから」
 「そっかぁー。アリサちゃんは偉いねー。社長のこと、大好きもんねー♪」
 美容師の経験のある青年は、毎朝の日課を楽しみにしているようだ。
明日はどんな髪型にしよっかな〜、と鼻歌を歌いながら、エレベーターに乗って帰って行った。
 「ねー、アリサたちもかえろうよ。おふろにはいろうよ」
「あ、ああ、そやな。帰ろか」
 「あのね、あのね。したのきっさてんで、チーズケーキもらったから、たべよう!」
 「ん。おーきに。そーしよ」
 ジキルは立ち上がった。体中がミシミシと音を立てた。
アリサの手を引いてエレベーターに乗り込み、ジキルは七階のボタンを押した。
      *
 数日後。
ジキルはアリサと朝食を済ませた後、リビングで鳴り響いていた電話に応対した。
 それは国際電話だった。ジキルは受話器に向かい、まくしたてた。
 「どアホ! 何でコレクトコールやねんっ! どんだけ通話料かかる思うてんねん! おっさん、自分がおんの、どこか知ってんのか? カリブやカリブ! カリブやがなっ!」
『よう。相変わらず威勢がいいな。いろいろ大変だったようだが』
 しゃがれた初老の男性の話す日本語だった。電話はかなり遠い。
それでもジキルは、その言葉に反応して眉をしかめた。
 「あァ? 何やと、クソジジイ。何でそないなこと知ってんねん」
『ハッハッハ。ラングレーのお友達が教えてくれたのさ』
 「し、CIAやとォ? ふっ、ふっ、ふざけんなジジイッ!」
 『てめえにくれてやったルートが知れたら誰が困る? それを考えりゃわかるだろ』
 「ちっ。手回しのええこっちゃな」
 『ちなみにこの電話は公安諸君が盗聴している。フハハハハ』
 受話器の向こうでゲラゲラと笑う声が聞こえた。
ジキルはカリブ海の方角に向かって中指を立てた。
 『ところで王女さまは元気か? 替われ』
 ジキルは返答もせず、受話器を持ったままアリサを呼んだ。
鏡台の前で髪をとかしていた彼女は、いそいそとやって来て受話器を受け取った。
 「アリサだよー。うん、げんきー。うん、ジキルはやさしいよ。ん? こっかてきようちゅういじんぶつ? それなに?」
 ジキルは、テーブルから煙草のパッケージを取った。
一本抜き出して、口にくわえ、ジッポーで火を点ける。
 また、普段通りの日常生活が始まるのだ。深く煙を吸い、吐き出す。
 ゆったりとした時間が過ぎて行く。
 「じゃ、またねぇ、じゃっく!」
 アリサは笑いながら電話を切ると、自分の部屋に行ってドアを閉めた。
ジキルは近くにあった如雨露を取り、窓辺の植木に水をやった。
 彼には、さして興味のないことだった。
 彼という人物の平和な日常を守るため、日夜努力している集団が存在することなど。
 「あーっ!」
 唐突にジキルは思い出した。
 「SMグッズの代金……踏み倒されたがな〜!」
 床にへたり込み、拳をわななかせるジキルだった。
彼に降り掛かる災難は、今後も数多く発生しそうである。
 (了)
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