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Pincers

 

 ジュリアス・A・マックモーディ。今年、1869年の秋には二十三歳になる。
 癖のないブロンド。長く伸びた前髪が、血の気の薄い顔の半分を覆っている。その髪の間から光る碧眼は、何者をも寄せつけない憎悪に満ちていた。アイルランド人の父を持つ彼の気性の激しさは、その眼差しの強さから充分に伺い知ることができた。しかし容貌は母方の――百年前に起こった革命戦争の折、戦場へ送り込まれてきたドイツ人傭兵の血脈が、色濃く残っているようだった。
 何度目かの鞭が、ジュリアスの背に振るわれた。鋭い音がして皮膚が破れる。家畜に用いられる皮革の鞭は、容赦なく彼の肌に赤黒い傷を作った。
 ジュリアスは床に俯せに這いつくばり、打ち下ろされる凶器から逃げることもせず、ただじっと激痛を堪えていた。両腕を斧で切り落とされた時の痛みに比べれば、それは僅かな痛みにすぎない。そう、自分に言い聞かせた。
 彼が両腕を失ったのはちょうど一年前の、乾いた風が吹きすさぶ日だった。
 出血多量で死の淵をさまよったジュリアスを助けたのは、元南軍の軍医だった。それは彼にとって、地獄のような毎日の始まりでもあった。不具となった男が強制的に選ばされた道は、想像を絶するほどの屈辱の日々だった。
 しかし彼は数日前、一つの復讐を果たしたのだった。
「ああああっ!」
 思わず上げた悲鳴が、木の床に反響した。ジュリアスは唇を噛み、喉から続けざまに上って来る絶叫を飲み込んだ。彼の血を吸って真っ赤に染まった鞭が、なおも背中の皮膚を剥ぎ、幾筋もの傷を更に削ぐ。それでもジュリアスは額を床に擦り付けながら、肩を震わせて耐えた。
 鞭を持った男は、そんなジュリアスの反応を見下ろしながら、吐き捨てるように言った。
「まったくお前は信用できねえキツネだぜ。ゴールデンフォックス」
「……」
「忠実な番犬になったと見せかけて、寝首をかくとはな。ズル賢い奴だ。ゲリラの時もそんなふうに、ヤンキー野郎を騙してたのか? 賞金稼ぎの時もそうか? その、女みてえなツラで相手を安心させて、何人殺してきたんだ?」
 言いながらボギー・デッドマンは足を上げ、ブーツの底をジュリアスの背中に叩き落とした。
「ひぐぅっ!」
 傷口に、尖った爪先が食い込んだ。裂けた皮膚から新しい血液が噴き出し、露出した肉がえぐられた。
「そうだ。お前も同じだ。てめえの身を守るためなら、平気で俺を裏切りやがる」
 デッドマンは、表情一つ変えずにジュリアスの傷口を踏みにじった。
 身長は高く、全身が無駄のない筋肉で覆われている。二度の戦争をくぐり抜けた、軍人特有の筋骨逞しい体躯。このコロラドで、彼の名を知らぬ者はいない。
 ボギー・デッドマンとその一味は、かつて新聞を騒がせたこともある犯罪者集団だった。数年前にカンザスで駅馬車強盗と銀行強盗を働き、手配書の回っていないコロラドへ流れ、後に鉱山の権利を持つ町の名士としての地位を築いた。しかし内実は、西部におけるあらゆる犯罪の糸を裏で引いている。
 ボギー・ギャング。人々は彼とその一味をそう呼び、恐れた。
 デッドマンは、ジュリアスの背中を葉巻の吸い殻のように踏みにじると、強く蹴り付けた。腕のない細い体が床を転がり、壁に激突した。ジュリアスは低い声で唸りながら、その場に倒れて動かなくなった。
 その肢体を、再びデッドマンは鞭で打ち据えた。
「あーっ!」
 肉の弾ける音が部屋に響く。
 デッドマンは、ブーツの甲をジュリアスの顎の下に差し込み、強引に上を向かせた。
「ちょっとお前を見くびってたぜ、ジュリアス。大したもんだ」
「う…ぅ、ハ、ハアァッ……」
「拳銃も握れねえ野郎が、足だけで人殺しするとはさすがに思わなかったからな」
 そう言うと、デッドマンはジュリアスに唾を吐いた。
 その時、ドアが開いてアッシュブロンドの男が顔を覗かせた。彼の名はスコットといった。壁際で丸太のように横たわるジュリアスを一瞥すると、馬鹿にしたように鼻を鳴らして目を逸らす。そして、
「ボス。オネイル少佐が着きましたよ」
 と、言った。
「そうか」
 デッドマンは鞭を床に放り投げ、ブーツでもう一度ジュリアスを蹴り上げると、スコットが開けたドアを通って出て行った。その後ろ姿にスコットは声を掛けた。
「予定通り、キツネをテーブルに……用意しときますよ」
 デッドマンは振り向かずに、片手で背後に合図を送った。

「ボガード大佐! 久しぶりだな」
 スチュアート・オネイルは、両手を広げてデッドマンを迎えた。白髪混じりの猫背の男だった。デッドマンは彼と抱き合い、固く握手を交わした。
「その名前は捨てたんだ。ここでは呼ばないでくれ」
「みんなは君をボスと呼んでいるようだが」
「あんたにそれを強要するつもりはないがね」
 デッドマンはスチュアートの肩を叩きながら、上着を脱ぐようにすすめた。
 スチュアートはコートを脱ぐと、砂ぼこりを払った。
「プラムリー曹長は元気か? ラッパ吹きのフィリップは? みんな一緒だと噂で聞いてるよ。まったく……まさか悪名高いボギー・ギャングが、あの誇り高き騎兵隊の残党だったとはね。驚いたよ」
「サム・プラムリーとフィリップ、あとテッドは、仕事で出掛けてる。あんたが来たと知ったら喜ぶだろう。ゆっくりしていってくれよ、ドクター・オネイル」
「本当に……懐かしいよ大佐。キャンプ・ダグラスへ収容されたと聞いた時は、居ても立ってもいられなかった。生きて帰れるとは、とても……」
「キャンプ・ダグラスでは、よくあんたを思い出したよ。モルヒネが欲しくてな」
 デッドマンは冗談のように言った。しかしスチュアートは笑えなかった。捕虜収容所の生活がどんなものか、それなりの知識は持っていた。
 俯いたスチュアートを気遣うように、デッドマンは年上の医師を奥の部屋へと促した。
「今日は、ちょっとした余興を用意してるんだ。楽しんでもらえるといいんだが」
 背中を叩きながら、デッドマンは笑った。
 スチュアートが、ボガード大佐の部隊と行動を共にしたのは1863年のことだった。北軍の救援物資奪取作戦の際に、スチュアートは臨時に騎兵隊に配属されたのだ。ボガード大佐の側近であった軍医が負傷していたことが原因だった。
 ふと、スチュアートはその軍医の姿が見えないことに気がついた。しかしすぐに、プラムリーとともに外出しているのだろうと考えた。そうでなければ、この後すぐに会えるはずである。すでに、当時軍曹であったグレッグとスコットとは挨拶を済ませていた。
 しかし、再会を喜ぶスチュアートの心は、デッドマンがドアを開けた瞬間、凍り付いた。
「大佐! これは一体……」
 スチュアートは息を飲んだ。
 部屋の中央に置かれた大きなテーブル。そのテーブルの上に、一人の若い男が仰向けに寝かされている。正確には、磔のようにテーブルに拘束されていた。胴体に巻かれたロープはテーブルの下できつく結ばれている。広げられた両足は、それぞれテーブルの脚に括り付けられていた。幾分ロープには余裕があり、男はジーンズにブーツを履いた脚を曲げ、膝を立てていた。気丈な顔が、苦しそうに歪んでいた。
 しかし、縛られていたことよりも先にスチュアートが驚いたのは、男の上半身だった。裸の上半身の両側には、あって然るべき肉体の部分が欠損していたからである。
「彼は……せ、戦争で?」
 スチュアートはデッドマンに尋ねた。彼はその問いには答えず、テーブルの傍らへとスチュアートの背中を押した。
「うちの参謀だ。おそろしく頭がいい。しかしなかなか懐かねえんでな。反抗するんで手を焼いてるところさ」
「そんな……。看護はどうしてるんだ? 医者は……そうだ、ケンドールは。ドクター・ケンドールはどこにいる?」
「奴がいないことには気がついてるだろう。死んだよ。数日前にな」
「何だって?」
「腕のいい軍医だった。終戦後も、いろいろ俺に尽くしてくれた。そいつを殺したんだ。こいつがな。俺たちが留守にしてる間に仲間殺しをしやがったのさ」
「ケンドール少佐を! ど、どうしてそんなことに。いや、それより……」スチュアートはジュリアスの上半身を見つめ、疑問を投げかけた。「どうやって……?」
「俺たちが戻って来た時、奴は、階段の下で倒れてた。首にロープが何重にも巻き付いてな。ロープで首吊られて、階段をずり上げられたんだ」
「それを足でやったというのか? 彼が?」
「痛めつけても吐かねえんだが……。おそらく自分で両足に長いロープを括りつけて、ケンドールの首に引っ掛け、引きずって階段を上ったんだろうぜ。奴の顔には蹴られた痕が残っていた。あらかじめ蹴り付けて床に転がした上、ロープを巻いた」
 スチュアートは呆気にとられた。両腕のない男が、足の指と口を使い、自らの両足首にロープの端を縛り、殺人の道具にしたというのだ。
「信じられん。手を失っていて、そんなことが可能だとは……」
「ケンドールと二人きりにしたのがマズかった。それは俺のミスだ。このところ、やけに従順だったんで油断してたんだ。それも全部、芝居だったのさ。このキツネのな」
「……」
 デッドマンはジュリアスの頬を力任せに叩いた。そしてダークブラウンの鋭い瞳で、射抜くように見下ろす。
「お前は、奴を憎んでた。そうだな、ジュリアス?」
「……あ、当たり…前だ」ジュリアスが苦しげに口を開いた。「あのまま……死んでれば、俺は、…こんなことには……」
「クックック。奴がお前を生かさなかったら、ジョージアの家族を食わせることはできなかったんじゃねえのか? お前がここで仕事をするようになったから、俺はお前に報酬を支払ってやってるんだぜ」
「う……」
「まあいい。ちゃんと身の程をわきまえてるからこそ、今まで協力してきたわけだからな。しかし、仲間殺しの罪は重いぜ、ジュリアス」
「殺せ。とっくに覚悟はできてる」
「お前は殺さねえ。死ぬまで俺のために知恵を絞るんだ。ただ、ちょっと刃向かう牙を抜かせてもらう。聞き分けのいいペットになりな」
 そう言うと、デッドマンはスコットを呼びつけた。
 スコットはジュリアスの両脇に手を当てると、その体をずるずると上に滑らせた。
「ぐうぅっ!」
 背中の傷がテーブルの表面で擦れ、ジュリアスは苦しそうに呻いた。
 スチュアートはようやく、ジュリアスがずっと苦悶の表情を浮かべていた理由を理解した。しかし、これから起こることの予想までは、とても頭が回らなかった。
 スコットはジュリアスを、肩までテーブルの淵に引きずった。曲がっていた膝が伸び、ロープがぴんと張った。頭を置く場所がなくなり、ジュリアスは、テーブルの上からはみ出た頭を力なく垂れた。仰向けに横たわったまま、首だけがテーブルの淵で折れ、頭が不安定に浮いた姿勢になっている。
 次の瞬間、スコットがジュリアスの髪を掴み、強く後ろに引っ張った。
「……っ!」
 ジュリアスは、頭を左右に振って逃れようとした。しかし、置き場のない頭は宙にぶら下がり、横を向くことさえ困難だった。頭を後ろに引かれれば引かれるほど、不自然に口が開く。スコットは片手で彼の頭を押さえ込んだまま、もう一方の掌を顎に乗せ、更に大きく口をこじ開けた。
 その口の中に、デッドマンが指を差し入れた。
「あ、が……」
 ジュリアスは、口を閉じようともがいた。しかし、がっちりと顎を押さえ付けられ、歯を噛み合わせることは不可能だった。
 太い指が奥まで差し込まれ、奥歯を撫でた。
「ここがいつも当たるんだ。痛くてかなわねえ」
「あ…や、あ…あ…」
 青い瞳がデッドマンを見上げ、睨んだ。その視線を平然と受け止めながら、デッドマンはジーンズのポケットから小振りのナイフを取り出した。
「舌が邪魔だ。スコット」
 デッドマンは、片手でジュリアスの頭を支えた。すぐにスコットがジュリアスの舌を乱暴に引っ張り出して摘まみ上げた。首のスカーフをほどいて巻き付け、唾液で滑るのを防ぐ。
「大佐! 何をするつもりだ?」
 スチュアートが慌てて駆け寄ろうとした。しかし背後からグレッグが羽交い締めにする。
「言っただろう。牙を抜いてやるんだ。逆らえねえようにな」
「麻酔なしでか?」
「ドクター。こいつは仲間を殺した。その罰を与えなきゃならねえ。治療は後でしてやってくれ。そのためにあんたを呼んだんだ」
「バカな真似はやめろ! 耐えられるわけがない!」
「そうかな」
 デッドマンはジュリアスの口を覗き込み、上顎の歯茎にナイフを突き立てた。
「あガアァッ!!」
 ジュリアスが絶叫した。構わずにデッドマンは奥歯の脇に刃を滑らせる。そして、狙いをつけた右の一番奥の歯の根元を何度も刃先で突いた。
「ギャ、ガ…ア…、アアアッ! アーッ!」
 柔らかい歯茎はすぐに破れ、生温かい血がジュリアスの喉に流れ込んだ。
「ゲ…ゲホッ! ゴボッ、アガ…、アアアッ」
 やがて、奥歯の周囲から血が吹き出てきた。歯茎の傷口が広がり、歯の表面がナイフで削られて行く。デッドマンは下から上にナイフを動かし、歯を横からぐいぐいと押した。鋭い刃先が歯根に食い込み、神経をいたぶる。
「アッ! ガハッ、…ハーッ、ア…ガッ、アー、アァーッ!」
 ジュリアスは、不自由な体をのたうち回らせた。ロープで固定された足をばたつかせ、苦痛に喘いだ。その口元から大量の血が流れ出す。それを見てスチュアートは叫んだ。
「血! 血を吐かせろ! 喉に詰まって死んでしまう!」
 デッドマンはナイフをテーブルに起き、再び指を突っ込んで奥歯を摘んだ。左右に揺さぶりながら引き抜こうとする。ミシミシという音がジュリアスの鼓膜に伝わった。が、奥歯は少しぐらぐらとしただけで、抜けるまでには至らなかった。
「大佐! 血を……」
「スコット。水を汲んで来い」
 命じられ、スコットは外へ走って行った。
 ジュリアスの口から流れた鮮血は、鼻からの血と合わさり、頬を伝って床にポトポトと落ちた。口の中に指を突っ込まれた状態で、何度も咳き込み血を吐いている。
「大佐、もうやめてくれ。もう、その子もわかっただろう。後は私がやる」
 金切り声でスチュアートは訴え続けた。1846年以降、麻酔なしの抜歯など考えられないことだった。彼は歯科医ではなかったが、エーテルやモルヒネを用いることで、ジュリアスを痛みから解放することはできると考えた。
 しかしその声が聞こえていないかのように、デッドマンは指を抜くと再びナイフを取り、小刻みにジュリアスの歯茎を掘り始めた。剥き出しになった神経を刃先が摩擦する。
「ギャアアーッ、アーッ!」
 ジュリアスは頭を振って絶叫した。頭が下を向いているため、溢れ出た血が顔中を真っ赤に染めている。
 やがてスコットが、木桶に水を汲んで戻って来た。
 デッドマンは木桶を受け取り、ジュリアスの頭を後頭部から水に沈めた。顔面を染めていた血が水で洗われ、同時に口の中に溜まっていた血液も流れ出た。髪を掴んで水の中で乱暴に振ると、砕けた小さな歯の破片が幾つか浮かび上がった。
 ジュリアスの体がロープの下で暴れた。デッドマンはジュリアスの頭を水から引き上げ、横を向かせて水を吐かせた。
「ゲホッ…ゴホッ! ハアッ、ハアッ」
 咳き込んで血と水を吐くと、ジュリアスはぐったりと頭を垂れた。
 スチュアートは少しほっとして肩の力を抜いた。しかし歯はまだ抜けていない。デッドマンはゆっくりと時間をかけて、このリンチを行うつもりでいるのだ。スチュアートは身震いした。
 

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