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「坂本! なあ、坂本ってば!」
「……んぁ?」
 肩をばんと叩かれ、坂本章吾はハッと顔を上げた。大学時代の友人、市川の顔が目の前にある。
「聞いてた? 今の話」
「う、うん。聞いとったよ」
「別に伝える必要もないと思うんだけどさ。なんか、あいつ……坂本に会いたそうな顔してたから……一応な」
「うん……」
「なんだよ? ひょっとしてウザかった? あいつのこと、嫌いだったっけ?」
「ちゃ、ちゃうねん! ちょう……びっくりしただけや。ずっと会うてへんから……」
「そうなんだってな。お前らけっこう仲よかったのに。一緒にバイトしたりしてたじゃん」
「ああ……してたよ」
「だからてっきり、卒業してからも会ってると思ってたんだよ。まあ、会ってないならちょうどいい機会だし、連絡取ってみれば?」
「そうやな……」
「あっ、じゃあ俺、そろそろ戻んないと! またな、坂本!」
「あ、ああ……ありがとう」
 制服姿の市川は、そそくさと厨房に姿を消した。
 その日、坂本章吾は新宿のファミリーレストランで午後の時間を過ごしていた。
 大学時代の友人である市川が就職し、正社員となっていることで、昔からよく顔を出している店だった。文庫本を購入してふらっと一人で入り、ドリンクバーを注文する。
 正社員は激務なのか、午後に来ても深夜に来ても勤務していることが多い。20時間近く店にいたこともあると、よくこぼしていた。
 そして市川が言うには、大学時代の共通の友人が先日、一人でこの店を訪れたというのだ。

――坂本がよく来てるって聞いたんだけど……元気にしてるかな……。

 彼は力なく、そう尋ねてきたという。
 元気にしてるか、という言葉の意味を章吾は考えた。
 彼は彼なりに、章吾の体を気遣い、心配していたのだ。そのために、この店を訪れて安否を尋ねたに違いない。
「……はあー……」
 大きく溜め息をついて、章吾はアイスミルクティーをストローで飲んだ。
 共通の友人には、ずっと会っていないと言った。しかし、本当のところそれは嘘だった。
 つい数ヶ月前……章吾は旧友とばったり顔を合わせたのである。新宿駅の構内で。
 彼は、章吾に一言、こう告げた。

――ごめん、坂本……!

 耳元で聞いた悲痛な声は、あの日から章吾の心をギュッと締めつけたままだった。

    *

 その足で、章吾は新宿駅へ向かった。
 勤めていた店[イーハトーボ]は、現在閉店中である。マスターが病気で長期療養になるため、そのような形を取った。
 マスターと友人関係にある兄は、そのことでひどく落ち込んでいた。毎晩のように一人で酔いつぶれては、自分を責めるような発言を繰り返した。
 気持ちとしては章吾も同じだった。ほぼ毎日顔を合わせていながら、何一つマスターの役には立てなかった。兄を煩わせないため、自宅ではそんな話はしないように心がけていたが、一人になると罪悪感が胸を突いた。
 そのため、用もないのに出歩いてばかりいた。一人で部屋に閉じこもっているのが辛かったのだ。
 別のアルバイト先も探してはいた。しかしなかなか条件に合うところがなく、電話すらどこにもしていなかった。かれこれ半月もブラブラしているということになる。
「このまま、いうわけにもいかんねんけどなぁ……」
 大学時代からアルバイト漬けで、働いていなかった期間などほとんどない。暇を持て余すのは好きではなかった。いつ寝てるのか、と尋ねられるほど忙しくしているのが当たり前の日々だった。それなのに今は、すべてのことが億劫だった。
 今日も章吾は行きつけの書店やブティックなどをぐるりと回り、ファミリーレストランでティータイムを過ごし、午後の退屈な時間を潰していた。
 新宿駅の構内へ入るべく、地下道へ続く階段を下りる。
 そして、一番下まで降りた時……章吾は振り返って階段を見上げた。
 数ヶ月前、この階段から転げ落ちた時のことが頭をよぎった。
 あの日、章吾が階段を上って地上へ出ようとした時、途中の踊り場のところに男が一人立っているのに気づいた。
 夏だというのに目深に帽子を被り、サングラスとマスクをして顔を隠していた。胸騒ぎがして、章吾は思わず階段の途中で立ち止まった。
 その直後、男は踊り場から早足で駆け下りてきて、正面からまともに章吾にぶつかってきた。
 突き飛ばされたというほど強い力ではなかった。しかし章吾はバランスを崩し、一番下まで転がり落ちた。わずか十段程度だったので、大した怪我はせずに済んだ。
 男はすぐに踵を返し、地上へと階段を駆け上って逃走した。
 章吾は呆然とその後ろ姿を見つめていた。
 明らかに、男の態度はおかしかった。おそらく当初の予定では、踊り場のあたりから章吾を突き落とすつもりでいたのだろう。
 ところが途中で思い直し、わざわざ下まで駆け下りてきてぶつかった。そうとしか考えられなかった。
 もし、踊り場の位置から落とされていたら……章吾は今、階段を見上げてゾッとした。この急な階段を数十段転げ落ちたら死んでいたかもしれない。
 自分は男に助けられたのだと、章吾は信じていた。
 信じた理由はもう一つあった。そしてそれこそが、男の行動の不自然さよりも章吾を驚愕させた出来事だったのだ。
 ぶつかった瞬間、確かに男はこう言った。

――ごめん、坂本……!

 章吾はその声に覚えがあった。しかしこのことは誰にも言っていない。
 大学時代に思いを馳せる。よく一緒にアルバイトをしていた友人……彼は、あるミュージシャンを信奉していた……。

――坂本、REVENGEの新譜聞けよ! めちゃくちゃイイから!
――またREVENGEかい。もぉ、わかってるがな。聞かんでもええっちゅうねん!
――そう言わずにさあ……ほら、これこれこの曲! HAYATOが作曲もしてんだよね!
――自分、ええ加減にせーや。タレも作らんとHAYATO、HAYATOて……。
――彼女とかできちゃったらライブ行ったりCD買ったりできなくなるじゃん。そんなのいやだからね俺は……。

 友人のファン心理は理解していたつもりだった。
 しかし、ある日アルバイト先で起きたちょっとした事件が元で、友人との仲は疎遠になった。大学卒業後、彼が何をしているのか章吾は知らない。
「……藤田……何しとんねん自分……」
 章吾はそう呟いて項垂れた。
 通行人がその場に立ち尽くす章吾を不思議そうに見て、次々に階段を上っていった。

     *

 結局、何も行動を起こせないまま数日が過ぎた。
 そもそも章吾は藤田の連絡先を知らないのだから、連絡の取りようがない。
「あそこのファミレス、日参するわけにもいかんしなぁ……。店おったからいうて、藤田がまた来るとも限らんのやし……」
 午前中、布団の中でゴロゴロと寝返りを打ちながら、章吾は旧友のことを考えた。
 兄は昨夜から帰宅していない。先ほど電話があり、今日も深夜まで帰らないとのことだった。
 芸能ライターである兄がREVENGEの記事に着手していたのが数ヶ月前。
 そのことを知ってからすぐに、駅の階段での一件があった。
 兄の仕事を邪魔するために弟である章吾が狙われたことは、過去に何度もあった。まともに考えれば、藤田はREVENGEの事務所に差し向けられたのだと考えて構わないだろう。
 卒業後の進路は聞いていないが、在学中、アルバイト先のカラオケボックスでREVENGEのメンバーと顔を合わせたことがある。
 しかも藤田はその際に、相手に気に入られた可能性が高い……。
「もともとHAYATOの大ファンやったわけやし……知り合いになったら嬉しいに決まっとる。ひょっとしたらそのまま、REVENGEの事務所に就職したとか、そんな感じなんかな……?」
 その時、突然枕元で携帯電話が鳴った。慌てて章吾は着信キーを押した。
「はい、坂本ですけど……」
『……』
 相手は無言だった。微かな息遣いが聞こえる。
「もしもし?」
『……』
 聞き返しても何も言葉が返ってこない。おそるおそる章吾は口を開いた。
「ふ、藤田……?」
『……坂本……』
「藤田!」
『ごめん……突然。迷惑かと思ったんだけど……』
「迷惑なことあるか! なんや……オレの番号聞いてたんなら、早よ掛けてくれたらよかったのに」
『いや、市川に聞いたわけじゃないよ。店……あの、バーの……貼り紙見たら……お前の携帯の番号が書いてあったから……』
「あ、ああ、そうか。そやったな」
 ようやく合点がいった。
[イーハトーボ]の出入り口の扉に、マスターが入院中と書いた紙を貼った。そこに、問い合わせ先として自分の携帯番号を記載したのである。
 常連客はみなマスターの快復を祈り、[イーハトーボ]の再開を待っている。ウェイターである章吾には、客たちの気持ちが痛いほどわかった。だからこそ少しでも彼らを安心させたいと、自由に連絡を取れるようにしたのである。
 まさか藤田がその貼り紙を見てくれるとは、思ってもいなかった……。
「な、なあ藤田。時間あったら……会えへん?」
『……坂本のアパート、今日……お兄さんいるの?』
「おらんよ。ほな、遊びに来てぇな! 場所、覚えてる?」
『もちろん。南阿佐ヶ谷……あの、地下鉄……で、降りて……行くよ』
 地下鉄、というところで一瞬藤田は口ごもった。喉が詰まったような、苦しげな話し方だった。
「ほな、待ってる!」
『うん……それじゃ……』
 そう言って、藤田は電話を切った。

     *

 一時間後、アパートを訪れた藤田は、ひどく疲れたような顔をしていた。
「藤田……」
 駆け寄った章吾の顔をはにかんだようにチラッと見つめ、無言で靴を脱ぐ。
 章吾の部屋に入ると、ゆっくりとカーペットの上に腰を下ろした。
「急に押しかけちゃってごめん……」
「かめへんて! めっちゃ久しぶりやから嬉しいわ〜」
 藤田の姿は、大学時代とはかなり変わっていた。一目見ただけで痩せたとわかる。もともと張り気味の頬骨が、頬がこけたせいで余計に前にせり出して見えた。髪の毛もボサボサで、しかも肩につくくらいまで伸びている。よれよれのシャツもとてもみすぼらしかった。
「連絡取れてよかったわ。その……心配してたから」
「いろいろ……迷惑掛けたしね」
「いや、そんなん大丈夫やけど……」
「会おうって言ってくれてありがとう。坂本がまだ俺のこと気にかけてくれてるとは思わなかったから嬉しくて……すぐに顔が見たくなっちゃってさ」
「ツレやもん。会いたいんは当然やんか」
「坂本……」
 藤田はがっくりと肩を落とし、うなだれた。そして、おもむろに口を開く。
「今、俺……HAYATOさんのところにいるんだ」
「ああ……」
 章吾は曖昧に返事をした。
「わかってたよね……。俺、階段で坂本のこと……」
「藤田! そない話ええから! オレ、怪我もしてへんし」
「そう言うと思ったよ。あの時、階段で坂本は俺に笑いかけてくれたから。藤田? ……って、坂本の口が動いたの、見えたから」
「……」
「俺ね、もともとはREVENGEのマネージャー志望でさ。そっちの事務所に入ったんだよ。でも、俺ドン臭いからマネージャーの仕事なんて務まらなくて。すぐにクビになりそうになっちゃって……」
「そやったんか……」
「ダメ元でHAYATOさんに泣きついたら、雑用で使ってもらえることになって……HAYATOさんのお母さん名義の会社があるんだ。一応、そこの社員ってことにしてもらってる。やることはパシリみたいなもんだけどね……」
「社員……なら、よかったやんか」
「……でもあの人は、俺がどれだけあの人のこと崇拝してるか知ってるからさ……時々、俺を試すようなこと……するんだよね……」
「試す?」
「うん……あの人は、大事なものが二つあってどちらも選べないっていう状況が許せないんだ。強引にでもどっちかを選ばせようとする。どっちを選ぶか見届けようとする。俺が……HAYATOさんの命令と友達のどっちを選ぶか、興味があったみたいだ……」
 駅の階段の一件だと章吾はすぐに理解した。
「そのせいで坂本には本当に済まないことをした。ごめん! 謝って済む問題じゃないけど……」
 藤田は床に両手をついて、深々と頭を垂れた。
「藤田! 土下座とかやめてぇな! オレ、なんも気にしてへん言うたやん」
「いや、そもそも俺が坂本のことHAYATOさんに喋っちゃってたのが悪いんだ。ずいぶん昔だけど、お兄さんの書いた記事を雑誌で見つけた時、つい……」
「しゃーないて。兄やん、そういうとこでは有名人やもん。めっちゃ人から怨まれてるみたいやし、オレも殴られたり誘拐されたり散々や。もう慣れとるから気にせぇへん」
 強引に藤田の両手を床から引き剥がしながら章吾は言葉を続けた。
「なあ藤田、そんなんどうでもええからさ。また、ちょくちょく会おうや。自分、今どこ住んでんの?」
「うん、そうだね……住所教えておく」
 藤田は財布の中から一枚の名刺を取り出し、章吾に渡した。
「印刷してあるのは、さっき話したHAYATOさんのお母さん名義の会社だけど、住所はダミーでただの私設私書箱なんだ。本当の住所と電話番号は裏に書いておいた」
「えっ、裏……?」
 章吾が名刺を裏返すと、そこには丁寧に二つの住所が書かれていた。
「その隣に書いてあるアパート、紅すずめ荘っていうのが俺の部屋だよ」
「杉並区内やんか。近いがな」
「うん、西武線だけどね……ボロアパートだから恥ずかしいんだけど」
「ほな今度遊び行くわ!」
「あっ、いや、来てほしいわけじゃないんだ。ただ、この住所は知っておいてほしい」
「へ? どういうこと?」
「万が一の時のために」
「万が一て?」
「……今はまだわからない。先のことはわからない……けど」
 藤田はまた曖昧に語尾を濁した。そして尋ねようとする章吾を制し、言葉を続ける。
「彼女みたいな子も……できてさ。一緒に暮らしてたりするんだ」
「そうなんか! よかったなあ……あっ、それやったら勝手には遊び行かれへんな。わかったわかった。今度、紹介して!?」
「うん……」
 ほんの少し、藤田の顔が緩んだ。そして、思い出したように携帯電話を取り出し、親指でボタンを操作する。
「坂本の写真、撮っていい?」
「ええよ。ほな一緒に撮ろ」
 章吾は屈託なく笑って、藤田の隣へと移動した。
 二人で顔を並べると、藤田はレンズをこちらに向けて端末を構える。
 パシャッと音がして、シャッターが切られた。
「見せてぇな。お、ええ感じに撮れてるやん」
「坂本は年取らないな……俺とは大違いだ」
「兄やんに未だにガキ扱いされよるからちゃうかな? 恥ずかしいわ」
「いや、いいんだよ……坂本はそれで」
 藤田はどこか安堵したような表情で微笑んだ。
 それから三十分ほど、二人は大学時代の話に花を咲かせた。
 そして外が暗くなる前に、藤田は帰っていった。駅まで送るという章吾の申し出を断り、
「さよなら、坂本」
 ……という挨拶を残して。
 章吾は黙って手を振り、友人の姿を目で追った。そしてそれが見えなくなった時、静かにアパートの扉を閉めた。
 自室に戻り、先ほどの名刺を見る。
 あらかじめ藤田が用意してきた住所。尋ねた時にその場で書いたのではなく、最初から章吾に渡すために名刺の裏に書いて持ってきていた。
「藤田、これをオレに渡すために……? 万が一の時……て、言うてたけど……」
 章吾は彼の言葉の意味を考えた。すぐに一つの答えが導き出されたが、決めつける気にはなれなかった。
 じっと友人の筆跡を見つめる。そして、自分の財布にしまおうとして思いとどまり、テレビの上にポンと置いた。
 自分の身に何らかの危険が迫っていることはわかっていた。だからこそ、藤田は会いに来てくれたのだろう。
 彼の最後の言葉が、まだ耳に残っていた。
 あの日、駅の階段で聞いた声は掻き消されたが、今度はさよならという声が消えなくなった。
「藤田……まさか、もう会えへんなんてこと、ないよな……?」
 わざと口に出して言いながら、章吾は奇妙な不安感を覚えた。
 ベランダに続く窓を開け、裸足のまま外へ出る。駅へ続く道は静まり返っていて、人っ子一人いなかった。
 夕焼けの茜色に照らされながら、章吾はしばらくの間、そこに立ち尽くしていた。

(了)
 

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