*

 思いのほか早く迎えに来てくれた麻紀さんは、俺の顔を見るやいなや心配そうに尋ねてきた。
「よく眠れた?」
「はい。久々に自分の部屋で……」
 車の後部座席に乗り込み、俺はスマホを取り出そうとして、ふと思い立つ。
「あの……麻紀さん」
「何?」
「ここ数ヶ月、本当にいっぱいご迷惑をおかけしちゃって……申し訳ありませんでした」
 頭を下げると、麻紀さんは驚いたように、急に何を言い出すの、私が死ぬ夢でも見たの? と言って笑った。
 身の回りの人に一人ずつお礼を言いたい。みんなが俺を気遣い、支えてくれた。
 スマホを手に取り、昨日ずっとチェックすることができなかった通知を見た。礼香とみずきさん、シュウさんからメッセージが届いている。
 ナッキーと弾さんにお礼を言いたかったが、麻紀さんに聞かれたら困るのでそれは後回しにして、まずは礼香のメッセージを開いた。届けられたのは俺の体調を心配する言葉だ。撮影現場に迷い込んできた猫を抱き上げて笑っている写真が添えられていた。思えば彼女はいつも、こうやって何気ない日常の幸せを俺に伝えてきてくれる。余裕のない時は気づかなかった。その写真に俺は日々癒やされているのだ。クスッ、と笑う。可愛いなと思う。それだけのことで、この数ヶ月、俺はどれだけ救われただろうか。
 シュウさんからのメッセージは、石黒とHAYATOのことだった。忘れていたことを思い出しました、とある。去年、チャリティーシングルが企画されていて、シュウさんとHAYATOが参加する予定だったという。HAYATOさんはその企画にKazumaさんを強引に参加させようとしたのではないでしょうか、インディーズからの参加者も多かったんで、と書かれていた。
『たぶん、目的は事務所の移籍か、田島さんに近づくためだと思います』
という言葉も添えられていた。
 食事をしながらシュウさんが『HAYATOさんがなに企んでたのかわかっちゃった』と言ったのは、きっとこのことだろう。
 俺は溜め息をついた。HAYATOは自分の野望を叶えるために、飯田プロの社長の息子である俺に近づき、利用しようとした。石黒は俺に黙ってそれを阻止しようとした。そういう構図が見えてきた。また自己嫌悪で自分を責めたくなる。しかし俺はグッと踏みとどまる。闇の中へ逆戻りするわけにはいかない。
 みずきさんからは、行方不明の鷺沼瑠実さんのことをお母さんに霊視してもらったという内容が届いていた。
『なぜか、いつもより曇ってて見えにくいとかって言ってるんですけど、山道を登っていく車が見えるみたいです。蝉の声が聞こえてるから、夏じゃないかって』
 山道……ということは、やはり鷺沼瑠実さんはすでに殺されて、死体は山の中に埋められているのだろうか……。そう思うと、不安と恐怖が心臓を握り潰してくるような心地がした。
『日を改めて、また視てみるって言ってました。続報を待て!!』
 メッセージは、みずきさんの声が聞こえてきそうな一文で締めくくられていた。
 俺は三人にそれぞれメッセージを送ると、シートに身を沈めた。
 鷺沼瑠実さんのことは、坂本さんにすべて話そうと思っていた。そして、俺が何をすればいいのか、指示してもらいたかった。
 継父とも話すことになるだろう。暴力団や警察が絡む話ということになると、一筋縄ではいかない気がするけど。
 弱った状態の石黒が日本にいなくてよかったかもしれない。あの状態の彼が近くにいたら、HAYATOは絶対に利用しようとするに決まっている。
(石黒はひょっとしてそれを見越して、デュッセルドルフに帰ったのかな……)
 そんな考えがふと頭に浮かんだ。あながち間違いではなさそうな気がした。

     *

 スタジオの楽屋で一人になった時、俺は弾さんに電話をかけた。
 弾さんは昨夜のことはまったく憶えていないと言った。酔っていたから記憶が……と繰り返す。嘘だということはわかりきっていた。俺は彼に深く感謝した。あの後、逆上したHAYATOが彼にどんな暴力を振るったのかと思うと、想像しただけで怒りが込み上げてくる。
 あの現場にナッキーと一緒に弾さんが来たということは、彼もまた協力者なのだろう。旅行にHAYATOを連れ出したのは彼だ。みずきさんのことはたぶん、利用しただけだと思う。利用なんて言い方は申し訳ないけれど。
 ナッキーに電話をしたら、マネージャーの昭文さんが出た。夏樹はレコーディング中で……と言われた。俺は彼に謝罪の言葉を述べて、何度もお礼を言った。短い時間で家の中をすべて掃除してくれたことに感謝した。すると昭文さんは、大部分は坂本憲治さんがやってくれましたとネタばらしをした。
 ナッキーには後でもう一度お礼を言おうと決め、取り急ぎチャットアプリのほうにメッセージを送っておいた。
 数日後、本人から電話をもらったが、こちらがお礼を言っても徹底してとぼけまくっていた。あの時、盗聴していたことを匂わせる発言をしてしまったので慌てたのだろう。支離滅裂な言い訳を繰り返すナッキーは、これ以上ないほどにいつものナッキーなので、俺はとても安心した。
 俺は何日もかけて、少しずつ周囲の人に感謝を伝えていった。
 継父の飯田は泣いて喜んで俺を神と崇め、母は照れて笑って俺の好きなオムライスをたくさん作り、姉ちゃんは心配したんだからね、もう……と言って寸止めのハイキックを放ってきた。キックボクシングを始めてからすっかり強くなったわけだが。
 章吾さんに[イーハトーボ]のお客さんの問い合わせ先になってくれてありがとう、と改めて伝えたら、彼はとても安堵していた。迷惑なのではないかとずっと思っていたようだ。俺がダメだったせいで、たくさんの人を不安にさせてしまっていたことを俺は心から反省した。
 礼香にも、礼香のマネージャーの清水さんにもきちんとお礼を言った。他の友人たちにも、知り合いにも……。
 みんなに支えられ、俺は少しだけ強くなれたような気がする。
 もう、大丈夫だ。また走れる。

     *

 翌日、俺は父の墓へ手を合わせに行った。
 父のことは嫌いだった。真面目に会社には行っていたが、それだけの人だった。俺が子役としてデビューし、CMやドラマに出演するようになっても、一度も俺を褒めてはくれなかった。だから俺は父に褒められたくて頑張っていた。
 父に愛されていない気がしていた。それなのに父は、俺のせいで追い詰められ、何も言わずに一人でこの世を去った。背中を押したのは借金だったかもしれないし、不倫していると噂されるほどに飯田社長と懇意になっていた母の言動だったかもしれない。
 父が自殺したと聞かされたとたん、俺は自分がどんなに父を慕っていたか気づいた。育ててくれてありがとうと、生きているうちに言えなかったことを悔やんだ。
 自殺は俺たち家族への当てつけだったのかもしれないけれど、俺はこれからもずっとこの思いを胸に抱き続ける。俺の父でいてくれてありがとうと。

     *

 しばらくは多忙な日が続いた。
 坂本さんと会えたのは、一週間ほど経ってからだった。
 死んでももう散らかさないと決意した自宅に彼を呼び、コーヒーを勧めた。前回来てもらった時に部屋中を掃除してもらったことは、電話でも謝ったがもう一度謝る。それと、後で気づいたのだが冷蔵庫にベーコンの燻製の置き土産があったことにも感謝の言葉を述べた。ちなみにとても美味しかった。
「気にせんでええがな。それより聞いて欲しい話あんねん。俺からでええか?」
 坂本さんの言葉に俺は頷く。坂本さんはコーヒーをひと口飲むと、意味ありげに俺の目を見つめながら話し始めた。
「俺のな、知り合いの女が失踪してな。心配なんよ」
「失踪……ですか?」
「ああ。杉野久美いう女で……まあ、風俗嬢やねんけど。REVENGEのHAYATOの元カノやねん」
「えっ……!?」
 ゾワッ……と背筋を冷たいものが通り抜けた。
 あの男と関わりのある女性が二人も行方知れずになっているということに、戦慄を覚える。
 俺はその流れでグラビアアイドルの月海こと鷺沼瑠実さんの話をした。
 坂本さんやナッキーたちが俺とHAYATOとの会話を盗聴していたのだとすれば、すでに鷺沼瑠実さんの話は知っているだろうと思ったが、礼香の友人であるということも含めて、きちんと説明する。
「去年の夏頃か……。ニュース見た気もするな」
「坂本さんの知り合いの女性は、いつ行方不明になったんですか?」
「七月か、八月頃やったか……電話したらもう、繋がらんかったな。確か章吾が駅の階段から落ちた頃やったから……七月やな、間違いない」
 連絡が取れなくなってからしばらくして、坂本さんがその女性に教えた電話番号にHAYATOから電話がかかってきたという。
「せやから俺はずっとHAYATOを疑うてたんよ。久美ちゃんさらって悪さしとる思うてな。まさか殺したとは思わんかったけど……」
「ま、まだ、瑠実さんも、その久美さんも、殺されたと決まったわけじゃ……」
 俺は慌てて坂本さんの言葉を遮ったが、脳裏にHAYATOの部屋で見た腕時計のビジョンが浮かんだ。黒ずんだ赤茶色の錆……大切な時計をあんなに錆びさせた原因は何だったのか、ずっと考えていた。
 金属の時計は錆びやすい。夏などは汗ですぐに錆が出てしまう。金属を錆びさせるのは水と酸素だが、そこに塩分が加わると腐食はより早まる。
 時計のベルトには錆の他に茶色のシミが付着していた。あのシミの色に俺は見覚えがあった。この気づきを坂本さんに伝えるべきかどうか、一瞬迷った。が、迷う必要などなかったと気づいたのは、彼の次の言葉を聞いた時だった。
「竜ちゃん、もう……わかってんねやろ?」
「…………」
「俺はもう、そうやぁ思てんねん。竜ちゃんも同じやろ?」
「……はい」
 しばらく逡巡して俺は頷く。
 月海こと鷺沼瑠実さんも、坂本さんの知り合いの女の人も、もうこの世にはいないかもしれない……今、はっきりとそう思った。
 HAYATOのロレックスが錆びていたのは、おそらく血液がかかったせいだ。しかも、相当の量だと俺は思った。ちょっとした怪我による出血ではないと思う。もっと……それこそ、出血多量で死にそうになるぐらいの量だ。
 俺は昔、そのレベルの出血によって血まみれとなった腕時計を見たことがある。メーカーは忘れてしまったが、石黒が持っていたものだ。
[イーハトーボ]が開店する前、石黒はある理由で暴力団関係者に軟禁されていたことがある。その時、愛用のオメガは別の場所に彼の荷物と一緒に保管されていた。そのため、仕方なく石黒は適当な腕時計を間に合わせで購入し、つけていたのだった。その時計が後に血まみれとなり、ほんの数日放置しただけで錆びてしまった。それでも石黒は、錆びてしまった時計をしばらくの間、大事に所持していた。理由を尋ねると、
『お前の血だから、捨てられなくて』
……と答えた。
 そう……俺が拳銃で左腕を撃たれた時の話だ。
 撃たれた俺を石黒が抱きかかえてくれた。その時に、彼がつけていた腕時計は血まみれになった。今話している坂本さんが応急処置をしてくれたため出血多量死は免れたが、信じられないほどの量の血液が体外に流れ出た。石黒の腕時計は俺の血でベットリと染まり、そのまま洗わなかったために錆びてしまったというわけだ。
 俺は石黒がそれを持っていたことを咎めはしなかったが、
『それを見ると、撃たれた時のこと思い出しちゃって……ちょっと辛いんだ……』
と、伝えた。即座に石黒は時計を処分してくれた。そして俺に謝った。
『ごめんな。俺はこういう……人の気持ちとか、そういうのがよくわからなくて……』
 この時のことは、昨日まで忘れていた。しかしおそらく俺は、HAYATOが腕時計をつけていないことに気づいた時に、無意識にこのことを思い出していたのだろう。だからずっと気になっていた。
「『お前の血だから、捨てられなくて』か……。それに近いもんがあって、持ってるのかもしれんなあ」
「鷺沼瑠実さんのことを愛していたから……でしょうか?」
「俺はちゃう思うけど。むしろ竜ちゃんの『それを見ると思い出しちゃって……』のほうちゃうやろか? 思い出すために持ってんねん」
「まさか……。そんなホラー漫画みたいなこと……」
 ゾクゾクと冷たいものが背筋をのぼってくる。HAYATOさんが殺したとは思いたくなかった。人を殺しておいてあんなふうに普通に暮らしていられるはずがないと思った。しかし、まったく無関係とも思えない。無関係なら瑠実さんのことを『なんで嗅ぎ回ってるんだ?』なんて質問はしないはずだ。
「その話は、飯田社長にしてあるんか?」
「いいえ。家族には、瑠実さんが礼香の友達だってことしか……。時計のことは俺の妄想の域を出ていませんし……」
「警察に事情話すなら、社長通してからのほうがええやろな」
「坂本さんは、俺のこんな話が真実に近いって本気で思ってるんですか?」
「おう。名刑事やんか」
「そ、それは、ドラマの話で……」
 ポリポリと頭を掻く俺である。
「久美ちゃんのことでHAYATOが怪しい思うてたけど、こない結末なるとはな。いろいろ予定狂うてもうたな……」
「で、ですからまだ、完全に決まったわけじゃ……」
「う~ん……」
 坂本さんは煙草を一本咥え、火をつけずに唇で上下に振って弄んだ。腕組みをしながら、しばらくの間、考える。
 そして、いったんこの話は持ち帰らせて欲しいと言った。すぐに連絡をするので、社長と会えるようにしてくれ、と……。
 何だかあの時と似ているなと思った。数年前、石黒と章吾さんを助けるために必死になった、あの時と。

ロードランナー - 13へ続く