*
『竜児、盗聴器捜してみていいか?』
『やっぱり部屋に仕掛けられてるの……?』
『いや……。……でも、念のため調べておきたいんだ』
『わかった。じゃ、マティーニ作ってあげるね』
『竜児……。本当に……ごめんな』
『いいんだよ、もう謝らないでよ。石黒らしくないよ』
謝るのは俺の専売特許だから……そう言おうとして、言うのをやめた。この会話はいつのことだっただろう?
前に住んでいたマンションだ。一階がリストランテになっていて、二人でよく通った。
マティーニ、最近作ってないな。以前は目を瞑っていても作れたけれど、今はどうかな。久しぶりに作ってみようかな。
*
「…………」
ゆっくりと目を開ける。
しばらくはボーッとしていたが、やがて現実に引き戻された。昔の夢を見ていたのだということに気づいて起き上がると、そこは自宅の自分の部屋の中だった。
「えっ……と、俺は……」
なぜここに帰ってこられたのかわからず、混乱した頭でいろいろ考えた。
その瞬間、三島隼人の顔が脳裏に浮かんできて、思わず声を上げそうになる。
両手を見ると、手首に白い絆創膏が貼られていた。結束バンドで縛られていたことを思い出し、途端に心臓がバクバクと鼓動を速めた。
隼人――HAYATO――の手や舌の感触がよみがえり、全身が総毛立つ。
そんな俺の気を紛らわせてきたのは……キッチンのほうから聞こえる物音だった。
(誰だ? まさか石黒……?)
そんなことがあるはずがないと思いながら襖を開ける。
キッチンから美味しそうな料理の匂いが漂ってきた。昨日の昼以降、何も食べていないことを思い出し、俺は腹を鳴らす。
部屋と隣接したリビングに出て、おそるおそるキッチンを覗き込む。するとキッチンに立っていた人影が振り向き、唖然とする俺に気づいて微笑んだ。
「おはよう。久しぶりやな。よう眠れたか?」
「坂本さん……」
キッチンに立っていたのは、坂本さんだった。ラフなスウェットを着て頭にタオルを巻き、ボウルに割った生卵を菜箸でかき混ぜている。
「夏ちゃんに呼ばれてな。メシ作りに来たんや。このまま起きひんかったら弁当にしたろ思うててんけど、食えそうやったら言うて。もうできてるから、支度すぐやから」
「あ……はい……」
壁の時計を見ると、まだ六時前だった。
何時にここに帰ってきたのだろう。俺はなぜ、ここで眠り、目覚めたのか。誰が部屋まで運んでくれたのか……わからないことは山ほどあった。
しかし坂本さんの顔を見た途端、俺はすべての疑問を後回しにして、その場に立ち尽くしてしまった。
助かったんだ……。安堵感が込み上げてきて、体から力が抜けていく。
昨夜のことを思い出すと胸がギュッと締め付けられる気がした。手首の擦り傷もピリピリと痛む。記憶を辿ろうとすると無駄に感情が高ぶってしまい、息苦しくなる。足がふらついて立っていられなくなり、カウンターテーブルに手をつき、そこにもたれる。
「とりあえず、シャワー浴びてきたらええんちゃうか」
シンクのほうを向いたまま坂本さんが言った。
俺はハッと気がついて、首筋を手で触った。生温かい粘膜の感触がよみがえってきて、ゾワゾワと鳥肌が立つ。
「い、行ってきます……」
湧き上がってきたおぞましい感覚と戦いながら、俺は急いでバスルームへと駆け込む。
朧げな記憶を辿ってみる。俺は昨夜、HAYATOに薬を飲まされて……なぜか突然来訪したナッキーと弾さんに助けられた。そして昭文さんの運転する車に乗り込んだところで気を失ってしまった。
温かいお湯を浴びながら、なおも思考を巡らせる。なぜあんなことになってしまったのだろう。昨日の俺の行動は間違っていたのだろうか。思いつきの好奇心であの男に連絡を取ったりした結果がこれだ。俺は馬鹿だ。どうしようもなく……。悔しさに涙が込み上げてくる。いや、悔しさではないのかもしれない。情けなくてしょうがない。逆らうこともできず、ろくに抵抗することさえできなかった。
『俺、あんたの裸、見ちゃってるんだぜ?』
『前にここで眠ったろ? あの時、ここで裸にひん剥いて写真撮ってやったんだよ』
『今日、また撮ってやるよ』
幾つものHAYATOの言葉が、意識にペッタリと貼り付いたまま剥がれなかった。てのひらにお湯を溜めて口元に持っていく。唇を何度も指で擦って洗った。あれはキスではない。水を飲まされただけだ……そう自分に言い聞かせる。
もしあのまま、誰も来てくれなかったら俺はどうなっていただろうかと、想像するだけで震えが止まらなくなる。
俺は昨夜受けた屈辱も穢れも、すべて洗い流すようにシャワーのお湯を肌に当てた。いくら洗っても、不愉快な感覚はこそげ落とせないような気がした。
それでも長い間シャワーを浴び続けると、ようやく少し落ち着いてきた。俺は溜め息をついてお湯を止め、脱衣所へ出る。
そこで俺は初めて気が付いた。ここ数ヶ月、ゴミさえ捨てていなかったサニタリールームがピカピカに掃除されている。
服を着て、バスタオルで髪を拭いながら他の場所も確認してみると、埃が積もっていた玄関も廊下も、きれいに磨き上げられていた。
リビングも同じだった。起きた時は気が付かなかったが、汚部屋としか言いようのなかった場所が整理整頓されていた。何ヶ月前に脱衣カゴに放り込んだかわからない服がきれいに洗濯され、畳まれて置かれていた。
石黒がいなくなってから数ヶ月経つ。その間、掃除など一度もしていなかった。室内は散らかり放題で、どこに何があるのかさえわからなくなっていた。だから俺は自宅に帰るのをやめ、あちこち転々と泊まり歩いていたのだった。
リビングで坂本さんがソファに腰かけ、暇つぶしに持ってきたのであろうタブレットを眺めていた。音は出していなかったので、すぐに俺が戻ってきたことに気づいてくれた。
「朝飯食えるか? ちょう、待ってぇな」
タブレットをテーブルの上に起き、坂本さんはキッチンへ向かった。
タブレットの画面では動画が一時停止状態になっている。俺がそれを覗き込んだのを見て、坂本さんが説明する。
「なんや、動画配信者が私有地入ってクワガタ採りまくって訴えられてるんやと」
「あ、ああ……昨日か一昨日、ネットニュースで……」
礼香の友人の月海さんの弟だ。俺が読んだ記事では確か個人所有の山に侵入したと書いてあった。昆虫採集をしていたというのは、今初めて知った。
(……クワガタ?)
あれ? ……そういえば最近、クワガタがどうとか、どこかで耳にした記憶があるが、どこでだっただろう?
魚が焼ける匂いが漂ってきて、また俺の腹時計が鳴った。昨日は夕食を食べ損なったので、ランチ以降は何も口にしていない。さすがに腹ぺこだった。
「竜ちゃん、できたで」
「あっ……はい。ありがとうございます」
ダイニングテーブルに朝食が並んでいた。味噌汁とごはんにだし巻き卵、焼き鮭、ほうれん草のお浸し、きゅうりの漬け物。日本人の朝食の定番メニューだ。
「坂本さん……すみません、こんな……」
「ええからええから。話はあとあと。まずは食って元気出さな」
「はい。いただきます……」
空腹だったこともあり、俺は遠慮せずに用意してもらったごはんを食べた。口に運ぶもののすべてが美味しかった。薄味で、体に優しいという感じがした。
こんな時でも食べられるんだから俺はけっこう図太いのかもしれない。
冷蔵庫には何もなかったのに、と言うと、坂本さんは家の近所に二十四時間開いているスーパーがあるのでそこで買ってきたと教えてくれた。
「ありがとうございます。お世話になっちゃってすみません……」
「気にせんでええて」
「ずいぶんご無沙汰しちゃってて……。俺、去年のこともちゃんとお礼言えてないのに」
「お歳暮届いてるし。充分やがな」
一緒に食事をしながら坂本さんは笑った。
去年、石黒の拒食症がひどかった時、彼にはずいぶん世話になった。俺が不甲斐なかったばっかりに、いろいろ面倒を押し付けてしまったのだ。
そんなふうに人に迷惑をかけていながら、俺自身はここ数ヶ月、まったく何もできなかった。改めてそのことを心から反省する。礼香にも、坂本兄弟にも、ナッキーと昭文さんにも、事務所にも、麻紀さんにも、継父にも、母と姉にも……ちゃんと謝りたいと思った。
それを言うと坂本さんは、
「鬱っぽかったみたいやし、しゃーないて。辛かったやろ、数馬ちゃんがあんなんなってくの見てたんは」
と、言った。
そのことを言われた途端、俺の中で大きく感情が揺れ動いた。一瞬で涙があふれ出しそうになり、堪えて唇を噛む。
「はい。替わってやりたかったです……」
ものを食べることができずどんどん痩せ衰えていく親友に、何もしてあげることができなかった。助けてあげたかったのに何も……その罪悪感が俺の肩に重くのしかかっていた。
「よう、一人で乗り越えたな。……俺は一人では無理やった。しばらくあかんかったわ。何も手につかんかってんもん。竜ちゃんはえらいわ、ホンマに」
「俺だって一人でじゃないです。みんなが俺を支えてくれた。だから、一応……立ち直れました。本当にありがとうございます」
俺は深々と頭を下げた。
食事を済ませた後、坂本さんは俺に何時に出かけるのかと尋ねた。俺は手帳でスケジュールを確認し、あと一時間ぐらいでマネージャーが迎えに来ます、と答えた。
ようやく昨夜のことに向き合う余裕が生まれた俺は、リビングのソファで坂本さんに詳しい話を聞くことにした。
「夏ちゃんたちが車でここに送ってきて、とりあえず部屋に寝かせたんよ。俺はその後、電話もろて、夏ちゃんに車で迎えに来てもろてん」
坂本さんは石黒と俺の共通の友人であり、職業はフリーライターである。芸能関係の記事を多く扱っている。新聞社に勤めているわけではないので、時間の自由がきく。……とはいえ、深夜に突然ここへ来ることになったのは迷惑だったに違いない。俺はただ何度も頭を下げることしかできなかった。
「で、俺と交代で二人帰っていったわ。部屋ん中は、夏ちゃんが俺を連れてくるまでの間に昭文さんがきれいにしたみたいやな」
「はあぁ……死ぬほど散らかってて、汚かったのに……申し訳ないです…………」
心の底から恥じ入る俺である。いい歳をした社会人が何をやっているのか。
しかし、眠ってしまったことはある意味よかったかもしれない。あのまま起きていたら、俺はHAYATOの部屋で受けた屈辱で頭がおかしくなり、ナッキーたちにもっと多大な迷惑をかけたかもしれないからだ。
もちろん、今だってまだ怒りで頭がおかしくなりそうな気分ではあるけれど……一晩経ったことで、だいぶ精神的には落ち着いていた。
なぜナッキーたちが俺を助けるため踏み込んでこられたのか、俺はぼんやりとだがわかっていた。昔の夢を見たことで、想像は確信に変わっていた。しかし、そのことを俺から言葉にするつもりはなかった。おそらくはナッキーたちだけでなく、坂本さんも知っている。彼の態度を見ていたら、そんな気がした。だから、わざわざそのことについて話す必要などないはずだ。
HAYATOが言っていたビデオというのがなんのことなのかはわからなかったが……俺が知らないところで、何かが動いているのだと思った。過去にもこういうことはあった。俺一人がいい子ちゃんでいるわけにはいかないのだということも理解している。
坂本さんは俺を気遣ってか、その日は何も言わずにそろそろ帰ると言ってタブレットをしまい、身支度を始めた。
何度もお礼を述べた後、玄関まで見送りに行った俺は、
「お話があるんです……」
と、思い切って坂本さんに切り出した。
「わかった。ほな、落ち着いたら連絡して。あ、それとな……」
「はい?」
「しばらく、一人では出歩かんほうがええで。物騒やからな、夜道」
坂本さんはそれだけ言うと、俺の返事も聞かずにマンションを出ていった。
ロードランナー - 12へ続く