「待って! 俺は別に今日はもう……」
 靴も脱がないまま、室内に引きずり込まれる。去年も訪れた広いリビングには誰の姿もなかった。みずきさんがいるというのは嘘だったのである。
「聞きたいことがあるのはなァ……俺のほうなんだよ!」
 そう言うとHAYATOさんは俺の両手を重ねるようにつかんで、何か紐のようなものをグルリと巻きつけた。ホームセンターや100円ショップで売っているような、プラスチックの結束バンドが手首に食い込む。
「どうしてこんな……っ!?」
 身体の前で両手を括られたまま、俺はHAYATOさんに突き飛ばされてソファに倒れ込んだ。
「事のついでだ。また写真撮っとくかな……」
「写真?」
「ああ、こっちの話よ。それより、聞きたいことあんだよ。どうやって連絡取ろうかと思ってたら、まさかみずきとも知り合いだったとはな。いろいろ手間が省けてよかったぜ」
 HAYATOさんがソファの隣に腰を下ろす。そして馴れ馴れしく肩に手を回し、グイッと引き寄せる。同じだ……去年、無理矢理ワインを飲まされた時と。
 何も言えずにいると、HAYATOさんは真っ直ぐに俺の目を見つめながら、
「なァ、あんただろ? ビデオ盗んだの」
「ビデオ? 何の話……?」
「とぼけんな。黒幕はあんたなんだろ? そんなに数馬が大事かよ? 俺があいつに手出しできねえようにしたいのか?」
「な、何の話をしてるのか……全然わからないよ……」
 目の前で凄まれても、何も言い返せない。彼が言っていることの意味がまったくわからないからだ。
「ちょっと前に旅行に行ったんだよ。みずきと……あと運転手がわりに弾を連れてな。で、帰ってきたら、なんか部屋の雰囲気いつもと違っててな。よくよく調べてみたら、大事なもんが失くなってんのよ」
「そ、それが、俺の仕業だっていうの?」
「わかんねーから聞いてんだろうが。なんか知ってるんじゃねーのか?」
 ここへ俺を連れてくるまでの態度とは大違いだった。本性を表したというところだろう。もはや俺を客として扱う気すらないみたいだ。
「何も知らないよ……」
「ホントかどうかわかんねーけどよ、俺が留守の間、大勢の男がこの部屋に上がり込んで、荒らしまくったって話もあんだよ。あんたが誰かに頼んでやらせたんだろ!」
 語気を荒げてHAYATOさんは俺に詰め寄る。すごい剣幕だったが、心当たりがない俺はただ首を横に振ることしかできなかった。
「知らない! 本当に知らないってば。信じてよ」
「ホントか? あんた、数馬の彼氏なんだろ? あいつを助けるためにやったんじゃねーのかよ?」
「石黒とその……盗まれたビデオと、どういう関係があるんだよ? 俺はそんな話、聞いたこともないよ!」
 はっきりとそう告げると、HAYATOさんはしばらくの間正面から俺を睨みつけていたが、やがて諦めたように俺の体を解放した。
「チッ……。ホントみたいだな。わかった。そのことについてはもういい」
 言いながらHAYATOさんはソファから立ち上がり、ジャケットを脱いで床に置いた。放り投げた、ではなく、置いた。ポケットの中にある何かがフローリングに軽くぶつかり、小さく音を立てた。俺はその音には気づかないふりをした。
「もういいだろ。俺が、家探しした犯人じゃないってわかったんなら。これ、切ってよ」
 束ねられた両手を掲げる。結束バンドは一度締めたら外れない。外す方法はあるが、縛られている俺自身にはそれは不可能だ。目の前にいるHAYATOさんに切断してもらうしかない。
「まあ、ちょっと待てよ。まだ聞きたいことがある」
「縛らなくても話はできるだろ!」
「いいから答えろよ。ルミのこと……なんで嗅ぎ回ってるんだ?」
 HAYATOさんは腰にホルダーでぶら下げたペットボトルのミネラルウォーターを外して中身を少し飲むと、再びホルダーにくっつけた。
 俺は軽く深呼吸しつつ、不審に思われないように注意しながら言葉を返す。
「嗅ぎ回ってるわけじゃないよ。事務所の後輩の友達だから心配してるだけだ。君が月海さんと付き合ってたって聞いて……」
「立花礼香か。ルミがよく自慢してたっけな。劇団で仲良しだったんだ、ってよ」
「本当に、心当たりないの? 海外へ行くとか……言ってなかった?」
「あ? 海外へ行った……? 本気でそう思ってんのかよ?」
「違うの?」
「さあな。別れた女のことなんていちいち気にしちゃいねえよ。そんなことより……」
 HAYATOさんがじりじりとにじり寄ってくる。距離が狭まってくることに不快感を覚え、俺は逃げようとした。しかしまた肩を抱かれ、さっきよりも強く抱き寄せられる。
「あんた、ホントに数馬とヤッてねえのか?」
「はぁ!? ヤ、ヤッてるわけ……ないだろ? 友達なのに……!」
「ホントなのか。へぇ……」
 片手が上に上がり、俺の頭を軽く撫でた。
「やめろ……」
「あの数馬がねぇ……あんたにはホントに手ェ出してねえのか……すげえな……」
 手がそのまま俺の後頭部を滑り、耳の後ろで止まった。そのままグッと力を込められ、彼のほうへ引き寄せられていく。
「やめろって、言っ……」
「心配すんなよ、犯さねえから。二度と竜児に近寄るなって言われてるしな。約束は守るぜ。ただ……今日は、あんたのほうから俺に近づいてきたわけだからな。ノーカウントだよなァ?」
「やめろ、って……」
 俺はソファの上に片脚を上げて、蹴るように彼の体を遠ざけようとした。
「竜児さんよォ。俺に近づいてきた理由は、俺と数馬がここで何してたか探るためか? それとも、別の目的があんのか?」
「腕時計してないのが気になったからだよ! 手元にあるなら……見せてよ」
「嘘つくな。そいつはただの口実だろォ? 他に目的があるんだよなァ?」
「それだけだよ! あとは月海さんのことだけだ。むしろ石黒のことが口実だよ! 石黒の名前を出せば、君は絶対に俺と会うと思ったから」
「ああ。……そうだな」
 不意にHAYATOさんが顔を接近させてくる。
「ひっ……」
 吐息が首筋に吹きかかる。鎖骨のあたりに唇が当たっている。あまりの不快さに俺は怖気立つ。
「やめ……てよっ、ふざけるなっ……」
 密着した唇が滑るように首を這い上がってくる。
「あんたとあいつの関係……面白れーからな。すげー興味ある……。あいつはあんたのためにあそこまで必死になったけど……あんたは、あいつのためにどこまでやるのかなって……フフッ」
 不意に首筋に嫌な感触をおぼえた。生温かい舌が、唾液を耳の後ろのほうにまでなすり付けながら徐々に這い上がってくる。
「やめろ……」
 全身に鳥肌が立つのがわかった。おぞましさに怒りが込み上げてくる。こんな思いをさせられたのは生まれて初めてだ。脚に力を込める。蹴りたい。蹴って遠のけたい。しかし俺よりも一回り体格のいいHAYATOさんはその位置からほとんど動かない。
「今さら恥ずかしがるなよ。俺、あんたの裸、見ちゃってるんだぜ?」
「……はぁっ? な、何を、バカなことを……っ」
 胸板や太腿を撫で回す手。首筋を這いずる舌。からかうように耳元で囁く声。
「前にここで眠ったろ? あの時、ここで裸にひん剥いて写真撮ってやったんだよ……。クククッ、じっくり観賞させてもらったぜ。その証拠に、あんたがどんなもんぶら下げてるか、細かく説明してやろうか? 色とか……形とかよ」
「……う、嘘、だ……」
「せっかくの写真、数馬に全部消されちまったからな……。今日、また撮ってやるよ。もっと何枚も……ケツの穴の皺までな……。俺があんたにそんなことしたって知ったら、あの野郎、怒るだろうなァ……ククッ、想像しただけで勃ってくる……」
 息を乱しながら、HAYATO――三島隼人――は、強引に俺にのしかかってきた。
 いざとなれば暴れてやると思っていたのに、体が動かない。脚が震えて蹴りつけることもできない。こんなにも恐ろしいのか? 同性に自分を奪われるということは。襲われるということは。性の対象として見られるということは。なぜ俺はここでこんな目に遭っているんだ? 石黒じゃない男の下で、なぜ?
「頼むから……やめて……」
 もっと強く抵抗しなければならないのに、なぜそれができないのだろう。
「意外とおとなしいんだな。体に傷がつくのを心配してんのか? ハハッ、さすが子供の頃からこの仕事してるだけのことはあるなァ」
 三島隼人は俺の首や襟元を舌先でなぞりながら、ジーンズのベルトに手をかけてきた。
「……っ!!」
 いくら両手の自由がきかないからといっても、抵抗はできるだろう。できるはずだ……そう思えば思うほど、凍りついたように動けなくなる。
 それでも無意識に彼を押しのけようと踏ん張っていたみたいで、なかなか思い通りに服を脱がせきれずに三島隼人が舌打ちする。
「さすがに正気のままじゃ、こっちも体力使うか……。ちょっと眠っててもらうぜ」
 直後、いきなり顎を手でつかまれて、強引に口を開けさせられた。
「あっ……がっ……」
 蛇のようにペロリと出した舌の上に、いつの間にか白い錠剤が乗っている。
「へへっ、この飲ませ方は誰かさんのパクリだけどな」
 そう言うと、そのまま俺の口の中に舌をねじ込もうとする。無理矢理口を開けさせたのは、噛みつかれないようにするためだと、今気づいた。
 眠らされたら終わりだ。そう思った瞬間、俺は全身に力を込めて思い切り三島隼人の体を蹴り飛ばした。薬に気を取られている分、体のほうから力が抜けている。そのおかげで一メートルほど引き離すことに成功した。
 無言で再び俺を押さえ込もうと正面から伸びてくる手。それを待っていた。俺は半身を後ろに引いて、結束バンドで括られた手で三島隼人の手首をつかむ。そのまま円を描くようにするりと避けながら、向かってきた力を後ろへと受け流した。三島隼人の体はたった今俺が座っていたソファに激突し、二人の位置が逆になる。
 ソファから離れた俺は、そのまま急いでリビングから出ようとした。
 しかし体勢を立て直した三島隼人は、スライディングするように足を床に滑らせ、俺の両脚を低い位置で蹴ってきた。
「うあっ!」
 両手の自由がきかないのでうまくバランスが取れず、俺はフローリングの床に転倒し、そのままマウントを取られてしまった。
 三島隼人は右手で俺の髪をつかんで床に押し付けるように力を込めた。そのままもう一度俺の顎をつかんで口を開けさせる。開いた口の中に、彼の舌の上から落とされた錠剤が入り込む。
「ケッ! 手間かけさせやがって……」
 吐き捨てるように言うと、三島隼人はミネラルウォーターを手に取った。ジーンズのベルト通しの部分にホルダーで留めていたものだ。キャップを開けて水を口に含み、そのまま上から顔を近づけてくる。
「……っ!」
 必死で顔を背けようとしたが間に合わず、目の前にいる男の唇が覆いかぶさってくる。口の中に冷たい水が入り込んできて、錠剤を喉の奥へと流し込む。
「やべ、勃ってきた。屈服しねえ奴が好きなんでな……クククッ」
 水を飲ませ終わった後も、何度も嘲るように唇を重ねる。
 このまま薬が効けば意識を手放すことになる。もうダメだと思った、その時だった。けたたましく何度もドアホンが鳴ったのは。
「……あ? 誰だよ? こんな時にうるせーな」
 三島隼人は俺に跨ったまま、ローテーブルの上からワイヤレスの子機を手に取り、通話ボタンを押した。
『やほやほ! マイフレンド~~~! 遊びに来たよぉぉぉぉぉぉ!!!』
 聞き覚えのある声がスピーカーから部屋に流れる。
「ナッキー!!!」
 思わず俺は叫んだ。
 慌てた隼人が手で俺の口を塞ぐ。
『あのねあのね、弾しゃんと近くで飲んでたんだお! 入っていーい? ワイン買ってきたよぉぉぉぉ!!!』
「うるせえバカ、帰れ! こっちは取り込み中なんだよ!」
『えええええええ!? つれないお言葉! あっ、そうそう! こないだ焼肉屋で話したことだけどさ! 僕の知り合いが買ってもいいって言ってるんだけどぉ! ブツは何? スピード? コーク!? バツ!?』
 ドアの向こうでがなり立てる声が、直接ここまで聞こえてくる。
「ちょっ……バカッ、てめえ、そこでしゃべんなっ! 今開ける!!」
 隼人は子機を叩きつけるように放り投げると、立ち上がって玄関へ向かった。
 俺は慌てて体を起こして錠剤を吐き出そうとした。が、すでに飲み込んでしまった後で、どうしても出てこなかった。
(それより……時計だ……)
 手で体を支えながら床を這い、さっき三島隼人が脱ぎ捨てたジャケットのところまで行く。案の定、ポケットから腕時計が半分覗いていた。俺が以前見せてもらったロレックスのアンティークだったが……。
「錆びてる……」
 どす黒くまだらに染まったケースとベルト。恐ろしく錆びている。ここまで錆びた腕時計を俺は見たことがない。
「……あっ」
 いや、ある。これと同じぐらい錆びた腕時計を目にしたことが過去に一度だけ。
 その記憶がよみがえった瞬間、俺の心臓はドクン、と跳ね上がった。そうだったのか、と俺は思った。あのことを憶えていたから俺は無意識にこのロレックスの行方を気にしていたんだ。
「取り込み中だって言ってんだろうがよ! てめー、勝手に入んなよッ!」
 三島隼人の怒号が響く。
「まあまあ、いいじゃないか。ちゃんと土産も買ってきたんだし!」
 リビングにずかずかと上がり込んできたのは弾さんだった。手に酒瓶を持ち、フラフラと隼人に抱きついている。
「今夜は飲み明かそう! 後でみずきも来るって言ってたぞ! いいよな!?」
「てめー、酔っ払ってんじゃねーよ! ふざけんな、帰れ……って……」
 弾さんが隼人を壁に押し付け、押さえ込んでいる。まるで、俺を庇うように。
 今なら逃げられる――。
 俺はふらつく脚で立ち上がり、リビングから飛び出した。
「竜児さんっ!!」
 部屋から出たところで、手を差し伸べられた。俺は矢も盾もたまらず、左右一緒に括られた手で、ナッキーの白い手を握り締める。
 ナッキーは俺を抱きかかえるようにして玄関へいざないながら、小さい声で言った。
「後は、弾さんにまかせて……」
 俺は無我夢中で三島隼人の部屋を出て、そのままナッキーに連れられてマンションを飛び出す。そして促されるまま、そこに停車していた車に乗り込んだ。
 運転席には、ナッキーのマネージャーの昭文さんがいた。俺たちを乗せた車はすぐに走り出し、六本木から遠ざかっていく。
「ごめんね、遅くなっちゃって……。あいつ、僕じゃなきゃ絶対に開けないと思ったから、急いで来たんだけど……時間かかっちゃって……」
 ナッキーの言葉を、俺は夢うつつで聞いていた。睡眠薬が効き始めたようだ。車の後部座席に身を沈め、俺は意識を手放す。
 なぜ、ナッキーたちが助けに来てくれたのか……その時の俺はまったく考える余裕もなく、疑問に思うことさえしなかった。

ロードランナー - 11へ続く