その時、軽やかなメロディとともに、ギーッという機械音が聞こえてきた。リビングの壁面に飾ったからくり時計だ。可愛い猫の人形が回りながら踊っている。ボーンという時を告げるチャイムが11回連続で鳴る。
「それじゃ、俺はそろそろ……」
 さすがに長居しすぎた。ちょうど早川さんがシュウさんの寝室から出てきたタイミングで、俺は立ち上がる。
「えーっ、それじゃあ、アタシ、送ってく! そのままアタシも帰るよ」
 みずきさんが俺の動きをなぞるように立ち上がった。
 しかし、それを制するように早川さんが、
「俺が運転する。田島さんをお送りした後、ちょっとみずきに話があるから」
と、言った。
「えっ? アタシに話って……あっ、ひょっとして旅行のことかにゃ? 昼間、連絡もらったけど」
「ああ。そのことでちょっとな。……それじゃ田島さん」
「あっ、はい。どうも、お邪魔しました」
「ダン兄ィ、先行ってて~! アタシ、シュウっちに書き置き残してくから!」
 みずきさんが放り投げた車のキーをキャッチして、早川さんは俺を案内するように先に立って歩いた。
「早川さんは帰り、どうするんですか?」
「弾でいいですよ。誰でもそう呼びますから」
「あっ、はい。弾さんは、帰りは……?」
「俺はみずきを家まで送ったら、一人で歩いて帰ります。近いので問題ありませんよ」
「ああ……近いなら、いいですけど……」
 なんとなく申し訳ない気がする。俺が考えなしにここについてきてしまったせいで、結果的に迷惑をかけてしまった。
 駐車場に行き、みずきさんのシトロエンに乗り込んで彼女が来るのを二人で待つ。
「本当にすみません。俺がこんな時間まで長居したせいで……」
「いえいえ、みずきが引き止めたんでしょう? あいつは寂しがりですからね」
「でも、いい子ですよね。今日はいろいろ助かりました。話も弾みましたし」
「……正直、みずきがいなければ、俺もシュウもとっくに三島……いや、HAYATOには愛想を尽かしてますよ」
 運転席で弾さんは軽く腕を上げて肩を回した。筋肉痛か何かだろうか? さっきから両腕が辛そうだ。
「お待たせ~!」
 ジャケットを着たみずきさんがやって来て、後部座席の俺の隣に乗り込む。
 そして車は渋谷区幡ヶ谷方面に向かって夜道を走り始めた。
 弾さんは運転中はほとんど口をきかなかった。みずきさんのほうは相変わらず途切れなくお喋りしている。
「これアタシの名刺です! 渡してなかった~」
 みずきさんは名刺入れから白い名刺を一枚取り出して、俺に差し出してきた。
「ああ、お母さんの個人事務所で働いてるってさっき言ってたね」
「ママは基本、秋田の実家にいるんで、東京の事務所はスケジュールの管理とか、講演やセミナーの申し込みの窓口って感じっすね」
 今日は慌ただしくて、みずきさんのお母さんの話は全然聞かなかったな……と、少しだけ後悔する。
 スピリチュアル・カウンセラーの大友みれいといえば、俺でも知っている。一時期はよくバラエティー番組に出演していた。オーラの色とか前世とかが見えるというので、ちょっと見てもらいたいなあ……なんて思った記憶がある。今は確か、朝のワイドショーで占いのコーナーがあったはずだ。
「あっ、でも、この名刺の住所は違うんですよ。アタシが普段いるのは、こことは違う事務所で……っていうか、アタシの連絡先、教えときますね!」
 みずきさんの名刺に印刷されている住所は、電話受付と郵便物の受け取りだけを行う業者だそうだ。そうしておかないと、大友みれいさんに霊視をしてもらいたい人が事務所にやって来て、ひどい場合は居座ってしまうので、それを避けるためだという。
「じゃあ俺のも教えておくね」
 俺は車の中で二人と連絡先の交換をした。シュウさんにも伝えて欲しいと言っておく。
 今日はとても楽しかった。ここ数ヶ月、狭い範囲でしか活動していなかったので新鮮だった。
 その思いをそのまま二人に伝えると、みずきさんは嬉しそうに笑った。弾さんも初めて笑顔を見せてくれた。
「今日は本当にありがとうございました。また連絡しますから」
 俺は幡ヶ谷のマンションの前で車を降り、二人に別れを告げた。
「またお食事ご一緒しましょう」
「鍋の話、マジですよ~! アタシ、ずーずーしく誘っちゃいますからね!」
「いろいろご迷惑をおかけしました。明日、シュウからもお礼の電話をさせますので……」
 なんか弾さんってシュウさんの保護者みたいだな、と思ったけど、微笑ましいので黙っていた。
「ええ。それじゃ、おやすみなさい」
 走り去る車を見送り、俺は大きく背伸びをすると、自分の部屋へ向かった。
 実は、このマンションに帰ってくるのはとても久しぶりだった。
「ふぅ……そろそろハウスクリーニングを呼ばないと……」
 俺は溜め息をついた。散らかっているのが嫌なので帰らないというのもある。社会人なのに情けない。
 以前はわりと石黒がまめに水回りの掃除をしてくれていた。俺もやっていたつもりだったのだが、今思うと、あまりできていなかったような気がする。
 リビングに入り、窓を開ける。冷気が肌に心地よかった。寒いので数分で閉めたけれど。
 ソファに腰を下ろしてスマホを見ると、社長と麻紀さん、そして礼香から連絡が入っていた。みんな、俺がシュウさんと会うことを心配していた。
 俺は帰宅した旨をメッセージで送ると、服だけ着替えて和室に敷きっぱなしだった布団に転がった。テレビドラマに出ている俳優が万年床だなんて誰も思わないだろうな……。
 石黒がドイツで帰ってしまってからというもの、俺は抜け殻のように生きていた……しばらくの間。
 いなくなってこんなに寂しいのなら……こんなに後悔するのなら……もっと彼のために尽くしてあげればよかったと、そんな事ばかり考えてしまった。
 あいつがいなくなった空間で一人で暮らすことが辛かった。だから俺は極力ここには一人で滞在しないようにしていた。今夜、ここで寝るのはとても久しぶりだ。
(だいぶ、立ち直ってきたってことかな……)
 その時、端末に新着のメッセージが届いた。礼香からだった。お疲れさま、と書いてくれている。
 俺はみずきさんに会ったことを思い出し、礼香にだけは今日のことを報告しておこうと、電話をかけた。
『竜児さん。お疲れさま。大丈夫? くたびれてない?』
「うん、大丈夫。すごい楽しかったよ」
 心配そうな礼香の声。ちょっと一人で出かけただけなのに、こんなに心配されるほど、俺は長いことダメな状態だったんだな……と反省する。
 シュウさんがアレルギーの発作を起こして、その後は彼の部屋に行ったこと。HAYATOさんの妹のみずきさんと知り合いになったこと。後から弾さんが来て、車でマンションまで送ってもらったことなどを話した。
『なんか一晩でいろいろなことがあったのね。童話か何かみたい』
 俺の声が明るいせいか、礼香は心底安堵したという印象で笑った。
「それで、その……みずきさんがまた一緒にみんなでごはん食べようって言ってくれてるから、誘われたら行くかもしれないから……」
『みんなで……なら、いいですけど?』
「みんなで、だよ……」
『……まあ、HAYATOさんの妹ってことなら、深い仲にはならなそうだからいいわね』
 礼香はツンツンしている……。
「あっ、そうそう。驚いたんだけどさ、あの……スピリチュアル・カウンセラーの大友みれい、知ってるよね?」
『ええ、もちろん』
「あの人、HAYATOさんとみずきさんのお母さんなんだって」
『ええっ!? そうなの?』
 礼香はとても驚いた様子を見せた。そして、焦ったように言葉を続ける。
『あ、あの……もし、知り合いになれたら……瑠実ちゃんのこと、聞いたりできないかしら……?』
「ええっ? 瑠実さん……のこと?」
 礼香の発言に、俺のほうが驚くことになった。
『だって、確か大友さんって、そういうの……見える人なのよね? 前にテレビでやってたの。未解決事件を霊視するとかそういう……』
 幼馴染みの瑠実さんが行方不明になったと聞いた時、礼香は思ったらしい。そういう力を持った人が霊視してくれたら……と。
 俺も礼香も、そういうスピリチュアル系の話はそこそこ信じるほうだ。
 間違っていてもいい。何か糸口があれば……そう思った。もし間違っていても、礼香が少しでも安心できるならそうしてやりたい気持ちはある。
「でも、今日知り合ったばかりでいきなりそんな話はできないよ……」
『それもそうね……』
「もっと仲良くなったら聞いてみる」
『仲良くは……ならなくてもいいですけど………………』
「またそういうことを言う……」
 ヤブヘビなので、俺は早々にその話題は切り上げた。
 そう言えば最近、どこかで占いのことを聞いた気がしたけれど、それは瑠実さんの家でだったことを思い出した。朝の番組の占いが当たったと言っていたっけ。おそらく大友みれいさんのコーナーだろう。
 藁にもすがる思いで瑠実さんの安否を気にかけているご家族。せめて無事なのかどうかだけでも聞きたい。いいきっかけがあればいいのだが……。

     *

 翌日、マネージャーの麻紀さんが運転する車で撮影現場に向かう途中、シュウさんから電話が入った。
『田島さん! 昨日は本当にすみません! もう、なんてお詫びしたらいいか……オレ、失礼なことばっかりしちゃって……!』
「大丈夫だよ。薬が効いたら眠くなるのはわかってるから……花粉症の薬もそうだし。大変だよね、あれ」
 また改めて会食の場を設けたいというシュウさんに、俺は今度はみずきさん、弾さんも一緒に……と提案した。
「……本当はあまり深入りしてほしくないんだけど」
 通話を終えると、麻紀さんが軽い溜め息をついた。
「いい人たちでしたよ?」
 今日、顔を合わせてからここまでの間に、昨日の出来事は一通り話してある。
「でも、一応ね……執行猶予中なのよ」
「わかってますけど、全然そんな危険な印象はなかったですし」
「心配なのよ。お願いだから、変なことを聞いたりするのはやめてね?」
「変なことって、事件当日のこととかですか?」
 それなら昨日、かなりたくさん聞いてしまったが……。
 しかし麻紀さんは首を横に振りながら、俺がまったく予想していなかった言葉を吐き出した。
「人を刺した時の感触とか、気持ちとかよ」
「…………!」
 まったく考えていなかった。
 え? いや、でも……麻紀さんがそう言うってことは。
「あの仕事、受けていいんですか?」
 おずおずと尋ねる。
「あなた、やりたいんでしょう? だったら私には止められないわ」
「ありがとうございます! 嬉しいです。挑戦してみたかったので……」
 しかし実際、考えてもみなかった。
 シュウさんは受け答えもしっかりしていて好感が持てたし、物腰の柔らかい好青年だった。とても殺人未遂なんて大それたことをするタイプには見えなかった。
 あの確定記録に書かれていた“被告人”とシュウさんが同一人物だということは頭ではわかっていたが……なんというか、うまくリンクしていなかった。
(人を刺した時の感触とか、気持ち……か)
 いけないいけない。麻紀さんにそう言われたら、気になり始めてしまった……。

ロードランナー - 08へ続く