「しーっ。シュウさん、寝ちゃったみたいで……毛布とかない?」
「マジっすか? じゃ、ちょっと待ってください、タオルケットでいいかな」
 みずきさんがいた部屋はシュウさんの寝室のようだった。毛足の長いピンクのラグの上にセミダブルのベッドが設置されている。大きな壁掛けテレビにはYouTuberの動画が映し出されていた。スマホから出力しているようだ。
「おー、爆睡しとる。田島さんの声で癒やされちゃったんじゃないですか? 『エフぶんのイチゆらぎ』入ってるって、前にテレビでやってたし」
 小声で言いながら、みずきさんは可愛いキャラクターもののタオルケットをシュウさんの肩にそっとかけた。
「じゃ、俺はそろそろお暇するよ」
 ちょうどいいタイミングだったので申し出ると、みずきさんはあからさまにつまらなそうな顔をした。
「ぶぅー! もうちょっといいじゃないですかぁー。プリンあるんですよ! 一緒に食べません?」
「でもシュウさんが寝ちゃってるのに……」
「いいっすいいっす。それにもう遅いから、帰りはアタシが送っていきますよ! お願いですから、もうちょっといてください! ルイボスティーおかわりいれますね~」
 みずきさんは俺が台所に片付けようと思っていたマグカップを取り上げると、新しいものを作ってくれた。
 あまり長居するのも迷惑だと思うのだが、みずきさんはニコニコしながら冷蔵庫からプリンを二個取り出している。
「さっき言ってたけど……えらいね、みずきさんは」
「えっ、何がっすか?」
「『お兄ちゃんがみんなに迷惑かけてるから』って、いろいろ……」
「あははは、自己満足ですけどね~。シュウっちもダン兄ィも、アタシのことは可愛がってくれてるから……って、シュウっちはアタシより歳下だけど」
「お兄さんはどう思ってるの? みずきさんがこうやって他のメンバーと付き合ってること」
「お兄ちゃんは何も言いませんよ~。お兄ちゃん、アタシに負い目あるから頭上がらないんですよ。うふふっ」
 プリンをスプーンでひとすくいして口に運びながら、ニッコリとみずきさんは笑った。
「負い目って?」
 何の気なしに俺は尋ねた。すると……。
「アタシ、お兄ちゃんのせいでヤクザにマワされたことあるんです。だからだと思う。あはははっ」
 ……と、みずきさんは笑いながら言った。
「…………」
「六~七年前だったかなぁ? お兄ちゃんがヤクザ怒らせちゃってぇ、アタシと、お兄ちゃんの義理のお母さんと妹……あっ、パパの再婚相手とその連れ子で、一時期、お兄ちゃんと一緒に暮らしてたんですよ。女三人、拉致られて。順番にヤラれちゃった。えへへへ」
 俺が絶句していると、みずきさんはペロッと舌を出して自分の頭をげんこつで叩く。
「あはっ、また言っちゃった。こーいうこと人様に言うなって言われてるんだけどー。後でバレるより、先に言っといたほうがいいからね、つい言っちゃうんすよ。てへっ」
「可哀想に……。辛かったね……」
 口をついて出た言葉はそれだけだった。
 思い出したのは石黒のことだった。子供の頃にひどい性的虐待を受けていた……。そのことで彼はどれだけ苦しんだだろうと俺は何度も考え、何もしてやれなかった自分を責めた。その思いはずっと俺の中でくすぶっている。
「ちょっ……マジになんないでくださいよ~。もう昔のことなんすからっ!」
「カウンセリングとか受けてる? 向き合うのは苦しいと思うけど、放っておかないほうがいいよ。心の傷は自分でも気づかないうちに体を蝕むから……。ごめんね、おせっかいで」
「…………きゃ、きゃああぁぁっ♪ 田島竜児さんにそんなこと言ってもらえるなんてぇー♪ アタシ、前世でどんな徳を積んだんだろっ! ひゃー、マジ幸せですっ! あざーっす!」
 目尻にうっすらと涙を滲ませながら、みずきさんははしゃいでみせた。
 辛い過去を持つ人の中には、時々このようにわざと明るくおどけて振る舞う人がいる。古傷と向き合うことをせずに目を背けて生きている。このパターンは、何かきっかけがあると足元ががらがらと崩れることがある……と思う。
(石黒の傷さえ癒せなかった俺がこんなことを言っても説得力なんかないのに……)
 最後に見た石黒の蒼白い顔を思い出し、俺の胸がズキンと痛んだ。同情なんて誰でもできる。偽善者だ……俺は。こんなふうにみずきさんを気遣って、自分がいい気分になりたいだけなんだ、きっと。そんな思いが胸を突き、心が鉛色に曇る。
 しかし、そんな俺に対して彼女はぽつりと言った。
「……ありがとうございます。そんなこと男の人に言われたの初めて」
「…………」
「ふふっ、田島竜児さんって、心もイケメンなんだぁ……ほ、惚れてまうやろー、みたいな?」
 指で目尻を軽く拭いながら、みずきさんははにかんだように言う。
「ご両親はいつ離婚を?」
 尋ねると、別居したのはHAYATOさんとみずきさんが小学生の頃だという。島根県で生まれ、広島県に移り住んで暮らしていた家族は、あることがきっかけで父親だけ残して、母親の実家である秋田県に引っ越した。兄のHAYATOさんが高校を卒業した時に正式に両親の離婚が決まり、HAYATOさんは父親とともに東京に行った。みずきさんはそのまま母親とともに秋田で暮らしていたそうだ。
「パパは東京で再婚して、相手に連れ子がいたから、しばらくはお兄ちゃんと四人で暮らしてたんです。でも、さっき話したみたいなことになって、向こうのお継母さんとお子さん、出て行っちゃって……。そのすぐ後にパパが事故で亡くなったから、お兄ちゃん、いきなり一人になっちゃったんですよ。でも、ちょうどその時期にメジャーデビューが決まったから安心したんですけど」
 みずきさんはその年、高校を卒業し、東京の服飾専門学校へ入学した。レイプされた後は学校を辞めて秋田に帰ろうとしたが、
「ママのテレビ出演が増えてきちゃったんで、ママの名義で会社作って、そこに社員として就職したんです」
 と、教えてくれた。
(それにしても……みずきさんの性被害と、お父さんの事故と、HAYATOさんのメジャーデビュー決定がほぼ同時期っていうのは……大変だっただろうな)
 そんなことを考えていた時、不意に玄関でガチャッと鍵が開く音がした。誰かが入ってきた気配に、思わず俺は姿勢を正す。
「あ、だいじょーぶです、田島さん! 合鍵ですから」
 みずきさんがそう言ったのとほぼ同時に、体格のいい男性がリビングに姿を現した。
「…………?」
「お帰り~、ダン兄ィ!」
 俺と目が合ったその人は……REVENGEのベーシスト、弾こと早川ダンさんだった。
「……みずき。……と、そちらは……」
 早川さんは部屋に入ってきつつ、俺に会釈をした。俺も同じようにぺこりと頭を下げる。
「すみません、お邪魔してます」
「俳優の田島竜児さん……ですよね」
「はい。田島です」
 俺が頷くと、彼も深々と頭を下げて早川ダンです、と名乗った。REVENGEの、とは言わなかった。
 180センチを超える長身で、がっちりとした体格。短髪で清潔感のある男性だった。ミュージシャンというより、アスリートか格闘家のように見える。
「シュウの奴、本気だったなんて……」
 早川さんはジャケットを脱ぎながら小声でそう呟いた。
「ダン兄ィ、食事中にシュウっち、アレルギー出ちゃってね。田島さんに介抱してもらったの」
 みずきさんが今日の出来事を手短に説明した。彼女が車でここまで彼を運んだことも、薬が効いてシュウさんが眠ってしまったことも。
「そうだったんですか……ご迷惑をおかけしました」
 早川さんはルイボスティーのカップをみずきさんから受け取る。
「いや、俺は別に介抱なんて。シュウさんがみずきさんに車で迎えに来てもらって、ここに帰ってきたんです」
「田島さん、シュウっちのこと心配してくれて、一緒に来てくれたの。でも、本人は薬で眠くなったっぽくて、さっきからおねむだよ~」
「申し訳ありません。そんな面倒なことに巻き込んでしまって……」
「いいえ、アレルギーに配慮しなかったのはこっちが悪いので……本当に、なんとお詫びしてよいやら……」
「シュウが言わなかったんでしょう? それじゃ、しょうがないですよ」
 早川さんはそう言うが、実際にシュウさんの立場だったら、なかなか相手にそれを伝えられないだろう。
 俺だってコーヒーは苦手だとか、煙草は吸えないとか、花粉症だとか、初対面の相手には言わない。
 ルイボスティーを飲みながら、早川さんはリビングの床に座り、テーブルの上に鍵を置いた。そして、ソファで眠るシュウさんのことを見やった。
「田島竜児さんに会って話を聞きたいと、ずっと言っていましたが……本当に、弁護士の先生を通して頼んだんですね」
「ええ。でも、お役に立てなくて。シュウさんが知りたかったこと、答えられなかったから」
 俺の言葉を聞いて、早川さんは少し困ったような表情を浮かべた。
「……俺をREVENGEから外して代わりにメンバーに加えたいという人が、どれほどの実力を持っているのかと、それをずっと気にしていたみたいです」
 俺は菊川法律事務所で読んだ確定記録を思い出していた。
 シュウさんは、この弾さんと一緒にREVENGEを脱退したいと申し出たが受け入れてもらえなかった。さらに自分以外のメンバー交代の話が引き金となった。
 つまり、シュウさんは弾さんを守るために、あの行為に及んだのだ。二人の間には、他人には計り知れない強い絆があるのかもしれない。
「何か、失礼なことを言いませんでしたか? シュウは」
 早川さんは少し不安げに言葉を続けた。
 俺は彼を安心させるように、笑顔で首を横に振った。
「いいえ。話していて、とても楽しかったです。でも、今日は食事を楽しめなかったので、また改めてお誘いしますよ」
「ねえねえ、今度は四人でごはん食べません? あっ、タカ兄ちゃんも呼ぼっかな。鍋やりましょう、鍋!」
「みずき、そんな口きいたら田島さんに失礼だろう」
 早川さんがみずきさんをたしなめる。
「ああ、いいんです。もう友達になったから。……ねっ、みずきさん」
「うわぁい! 嬉しい! 有名人の妹でよかった~♪」
「お兄さんは誘わないの? みんなで鍋する時とか」
 何気なく俺は尋ねた。すると……。
「あ……」
 みずきさんは返答に困った様子で、チラッと早川さんの顔を見た。
「…………」
 早川さんは何も言わなかった。無言でシュウさんをタオルケットごと抱き上げて、寝室のほうへ運んでいく。
「あははぁ~……お兄ちゃんはそういうの、あんまり好きじゃないっつーか……あんまり、アタシらとは……つるまないっつーか……ねぇ?」
 取り繕うように言い訳するみずきさん。どうやら、HAYATOさんと他のメンバーとの溝はかなり深いみたいだ。

ロードランナー - 07へ続く