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井上秀一さんは俺より四歳下の二十四歳で、育ちのよさそうな好青年だった。童顔で、女性のような顔つきをしている。髪が長めのせいもあり、可愛らしい印象を受ける。
「わざわざお時間取らせちゃって申し訳ありません。お仕事のほうは大丈夫だったんですか」
そう言って俺を気遣ってくれた。物怖じしない印象ではあるが、傲慢な雰囲気はない。礼儀正しく、真面目な人だと思った。
「今日はもう仕事は終わってるので、時間は気にしなくて大丈夫ですよ。ゆっくりお話ししましょう」
「申し訳ありません。こんな犯罪者のお願いを聞いてもらっちゃって……」
「執行猶予中じゃないですか。何もなければまた復帰できるんですから、自分でそんなこと言わないで」
「復帰なんて……贅沢な話ですよ」
被害者の松浪杏子さんには、弁護士を通じて謝罪をしたという。相手と直接の話はしていないが、彼女が井上さんの重い処罰を望まなかったことは紛れもない事実である。そのことに井上さんは深く感謝していた。
また音楽の仕事に携わりたいとは思っているが、松浪杏子さんがそれを拒むのなら、いさぎよく諦めるつもりでいる、と井上さんは語った。
「でも、井上さんを待ってるファンがたくさんいるんですから……」
表舞台には出られなくても、音楽を続ける方法はあるはずです。そう言うと、井上さんは悲しげに微笑んだ。
「……ありがとうございます。あの……シュウ、でいいです。苗字で呼ばれるの、慣れてないんで」
「じゃあ、シュウさんで」
そう言って笑顔を見せると、俺はペリエを少しだけ口にした。
ここは都内のフレンチレストラン。いわゆる隠れ家的な店だ。個室があるので俺たちのような人間には嬉しい。以前から、俳優の友達と食事をしたりしている店だった。
お忍びで行かれて、他のお客さんにあまり目撃されない店がいい、という俺の希望を聞き入れて、会社のスタッフが予約を取ってくれた。
コースは正式なフルコースではなく、メインは魚か肉を選ぶということだった。シュウさんは迷わず肉料理を選んだ。俺も同じものにする。
「個室、禁煙ですけど大丈夫ですか?」
そう尋ねると、シュウさんは驚いたような顔で頷いた。
「あっ、はい。オレ、吸わないんで」
「よかった。店も席もメニューも全部スタッフに任せてしまったので、不都合があったらどうしようと思ってました」
「田島竜児さん……って、変わった方ですね」
シュウさんが不思議そうに首を傾げた。
「えっ、変わってますか?」
「今時、禁煙席で『大丈夫ですか』なんて……。逆ならともかく」
「あはは、周りに吸う人間が多いから、つい……」
俺は思わず微笑んでしまった。確かに今時、珍しい発言だったかもしれない。
やがてオードブルが運ばれてきた。見た目も美しく、とても美味しそうだ。
「いただきます」
「いただきます」
ほぼ同時に二人で同じ言葉を発して、俺たちは笑いあった。
オードブルの後はポタージュ。雑談を続けるうち、緊張気味だったシュウさんも少しずつリラックスしてきている。育ちがいいのだろう、カトラリーの使い方もきちんとしている。
「今日、田島さんにお会いしたかったのは、お尋ねしたいことがあったからなんです」
そう彼が切り出してきたのは、ポタージュの後のグラニテを口に運びながらだった。
「はい、何でしょう?」
俺は少し身を乗り出した。するとシュウさんは遠慮がちに、
「石黒数馬さんというのは、どういう方なんですか?」
と、質問してきた。
「えっ」
思わず戸惑いの表情を見せた俺に、シュウさんは慌てたように言葉を付け足す。
「あの……ベーシストとして、です」
「あっ…………」
ようやく俺は理解できた。REVENGEのメンバー交代の話が、去年の事件の発端だった。シュウさんにとってはそれはとても重要なことなのだ。
「HAYATOさんとインディーズ時代に同じバンドだったことは知ってます。もともと、そのバンドがそのままメジャーデビューするはずだったのが、松浪さんが俺をメンバーにねじ込みたかったせいで、バンドは解散に追い込まれたということも一応は聞いてます。それに関しては責任感じてます……。でも、その時に脱退した後、どこのバンドにも所属しないでいて、今はバーのマスターだっていうから……。どうしてそんな人が今さらメジャーに? と思って。あの時、オレのこと気にかけてくれて……いい人だとは思いましたけど……」
「気にかけた、ってどういう……?」
「ああ、それは……後で話します。先に、あの……よかったら教えてください」
「え、ええ。でも……困ったな」
「すみません。田島竜児さんの親友だって聞いて……どうしても、聞いておきたくて、菊川先生に頼んだんです」
「あっ、いえ。それは気にしなくていいんですけど。あの……ベーシストとして……と言われても、実は俺、石黒がベースを弾いているのを見たことがないんですよ」
「へ!?」
シュウさんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「実は、インディーズのことも、ちょっと前に聞いたばかりで……。バンドとか、メンバー交代とか、本当にこんな言い方して申し訳ないんですが、俺としては、何かの間違い……としか思えないんです。そんな話は一切聞いていませんでした」
「………………」
「石黒はいろいろだらしないところもありますけど、誠実で真面目な人間なんです。誰かと一緒に仕事をするなら、それを適当に考えるはずがない。それに彼は今の生活をとても大切にしているので……自分の意志で今までしていなかったことをしようなんて思うはずがないっていうか……」
シュウさんが黙って俺の話を聞いてくれるのが心地よくて、俺はつい饒舌になってしまった。
自分のマネージャーが石黒から相談を受けていた、とシュウさんに話した。カムパネルラという、飯田プロの系列の事務所へ移籍を望んでいたようだ。しかし石黒は、その話を絶対に断ってくれと言った。
もし、HAYATOさんと一緒に自分もメジャーでやりたいという思いがあったとしたら、その時に何か申し出るはずだ。そんな話にならなかったということは、まったくそんなことは考えていなかったということになる。
それなのに、REVENGEの新しいメンバーとして名前が挙がったのはおかしい。矛盾していると思う……と、俺はシュウさんに自分の考えを告げた。
「……………………」
シュウさんは愕然とした表情のまま静止していた。メインディッシュが運ばれてきても、すぐには手をつけないほどだった。
しかしやがて、脱力したように両肩の力を抜き、大きく息をつく。
「基本、もうバンドはやめてたってことですね? ライブとかもしていなかったと……」
「はい。俺が知る限り、一度も。部屋にベースが置いてあるのは知ってましたが、俺の前で弾いてくれたことはありません」
「そうですか……ああ……わかっちゃった。オレ、なんとなく…………」
独り言のように呟くと、ナイフとフォークを手に取る。
俺もその動作に合わせて、食事を再開した。
「どういう意味ですか……?」
「……あっ、すみません。石黒数馬さんが悪いんじゃないです。HAYATOさんがね、なに企んでたのか、なんとなくわかっちゃったかな、なんて」
ヴィアンドの鴨肉をナイフで切り分けて口に運びつつ、シュウさんは少しだけ不敵に笑った。
その謎の笑みに対して、俺は思わず尋ねていた。
「どういうことか教えてくれませんか? あと、あの……シュウさん、すごく失礼な話かもしれないんですけど……よかったら、事件の当日のこともいろいろ教えて欲しいんです。わからないことが多すぎて……俺、そもそも石黒がどうしてあの場所に行ったのかも知らなくて……さっき、気にかけてくれてって言ってましたけど、それもどういうことなのか……」
俺がまくしたてた、その時だった。
「……クシュン!」
俺の話を遮るように、突然、シュウさんが俯いてくしゃみをした。
「す、すみません……クシュン! ハクシュンッ」
ナプキンで顔を押さえつつ、慌てて手荷物からハンカチを取り出そうとしている。
「だ、大丈夫ですか」
「すみません、下品で……クシュン! ヒクシュン!」
止まらないくしゃみに、俺はハッと気がついた。
「シュウさん、もしかしてアレルギーじゃ……?」
「は、はい。でも、おかしいな……? ポワソンのほう、選ばなきゃ大丈夫なはずなんですけど……」
「もしかして、魚介類?」
ポワソンというのは魚料理のことだ。正式なフルコースではポワソンとヴィアンド、どちらも出てくる。しかし今日はハーフコースということで、二人とも肉のほう、ヴィアンドを選んだのだが……。
「こ、甲殻類です。海老とか……蟹とか……」
「ええっ? 海老なんて今日のメニューには……」
食べたのは野菜と肉ばかりである。シュウさんもくしゃみを連発しながら、何を食べてそうなったのか考えているようだ。
「クシュンッ! あう……すみません、田島さん、オレ、今日は、帰ります。これ以上いると、ご迷惑が……」
「救急車呼びますか?」
「あっ、いえ……大丈夫です。飲み薬はあるんで。でも……目薬……忘れてきちゃったんで、早く家……帰って、ささないと……」
「じゃ、すぐタクシー呼びましょう。お店の人に頼んできます!」
しかし俺が席を立とうとすると、シュウさんは慌てて止めてきた。
「あ、あの……大丈夫です。友達……っていうか、知り合いに、帰り、車を回してくれって……クシュン! 頼んでるんで……呼べば、たぶん……」
「すぐ来てもらえそうですか?」
「今、連絡してみます……ヘクシュンっ!」
確かにシュウさんの両目が真っ赤に腫れ上がっている。アレルギーの症状で結膜炎が出ているようだ。
「シュウさん、目が……」
「あ……はい。場合によっては失明するとかって……医者に脅されてて……」
「そんな……。それじゃタクシーのほうが早いんじゃ……?」
「ダメですよ……オレ、ある意味、田島さんより有名人なんで」
鼻と口をハンカチで覆いながら、シュウさんは目を細めた。
「そんなこと言ってる場合じゃないですよ! 早く処置しないと……」
「と、とりあえず、薬飲んで……電話、してみます……」
何度もくしゃみをしながら、シュウさんは錠剤を飲み、知人だという相手に電話で連絡をした。
電話が繋がった後は、少し安心したようだった。くしゃみを堪えながら、じっと下を向いている。すぐに駆けつけてもらえるらしい。
「本当にすみません……失礼なことしちゃって……」
「気にしないでください。アレルギーじゃ仕方ないですよ。ごめんなさい、俺のほうが選んだ店でこんな危険な目に遭わせてしまって……。それにしても、原因は何だったんでしょうね?」
「田島さんって……」
「えっ?」
「本当に変わってますよね……。アレルギーなんて、まったく理解してくれない人も、世の中多いのに……」
辛そうにパチパチと瞬きを繰り返しながらも、シュウさんは少しだけ嬉しそうに声を弾ませた。
「ああ、だって……俺、花粉症なんです。もうちょっとしたら、そういう時期ですから」
「花粉症の人でも……食べ物のアレルギーは甘えとか偏食だと思ってる人もいて……」
しゃべりながらも、何度もくしゃみを繰り返すシュウさん。
「大丈夫ですか?」
「はい。薬は飲んだんで……あとは帰って、目薬させば、一時間ぐらいで治ると思います……」
「本当に申し訳ないです。店とコース選びに配慮が足りなくて……」
「いえ、オレが言わなかったのが悪いんで。フレンチって聞いて……魚料理にさえ気をつければ大丈夫だと思って……クシュン! たぶん……ポタージュじゃないかと……」
「えっ、でもビスクじゃなかったですよね」
「ダシに何か使ってたんじゃないですかね? 海老のミソとか殻とか……」
「あっ! そういうのでもダメなんだ……すみません……気が付かなくて……」
「なんで田島さんが謝るんですか……ヘクション!」
そう言ってシュウさんが笑った時、スマホの着信音が鳴った。迎えの車が到着したようだった。
シュウさんも俺もホッと胸を撫で下ろした。
そして店を出て、シュウさんを車のところまで連れて行った俺は、驚いた。
「シュウっち、大丈夫っ?」
車の運転席から出てきたのは、若い女性だった。男友達が来ると思っていたので意外だった。
ロードランナー - 05へ続く