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 翌日、井上さんと一緒に食事をする日にちが決まったと伝えてくれるついでに、麻紀さんはばつが悪そうな顔で俺にもう一度、ごめんねと言った。どうやら例の件を社長と話したらしい。
「事件の少し前に、私、石黒くんから電話で相談を受けたのよ。REVENGEのHAYATOがカムパネルラに移籍したいと言っているって」
「えっ!?」
 カムパネルラというのは、俺が所属している飯田プロの系列の音楽事務所だ。
「竜児くんには言わないでくれっていうから……。社長には話は通したけどね。ごめんなさいね、ずっと黙ってて」
「そういうのは慣れてるんで全然いいですけど……でも、どうして石黒がそんな話」
 撮影所の控室で、俺と麻紀さんは話していた。麻紀さんは胸のつかえが取れたような表情で、ほうっと溜め息を漏らす。
「『隼人は札つきのワルだから絶対に移籍なんてさせちゃだめだ』って石黒くんは言ってたわ。つまり、会って話は聞いてやって欲しいけど、却下しろっていう意味よね」
「どういうことでしょう?」
「さあ……。REVENGEのHAYATOとはインディーズで一緒にやってたことがあるそうよ。でも、友達ってわけじゃないって石黒くんは何度も繰り返してた」
「…………」
「おかしいじゃない? 友達でもないのにどうしてそういう流れになるのかしらね……。そう考えたら、あなたがあいつの部屋で眠ってしまったのを石黒くんが迎えに行ったっていう話も、いろいろ怪しいわよね」
 俺もそれはずっと考えていたことだった……。
 HAYATOさんに誘われて彼の部屋に行き、ワインを飲まされて……急激に睡魔が押し寄せてきて、俺は眠った。
 目が覚めたら家だった。石黒が俺を運んだと言った。
「確か麻紀さん、あの時、俺に連絡くれたんでしたよね?」
「電話しなさいと言ったのに、なかなかかけてこないから心配だったのよ。そうしたら石黒くんからメールが来て、もう帰ってるっていうじゃない? あの子、あまりそういうことしないのに、あの時だけあなたの代わりに報告を……。変だなと思ったわよ」
 石黒はかなり酔っていて、言っていることが曖昧だったため、俺はHAYATOさんに電話をして事情を聞いたのだった。
『あぁ、遅い時間だから所属事務所電話しても意味ないと思って。新宿の[イーハトーボ]って店の電話番号調べてかけたら、マスターが迎えに来てくれたんスよ。ほら、田島さん言ってたじゃないっスか。ここ、親友がやってる店だって』
 ドラマで共演した時(そのドラマは例の事件のせいで放送延期になっているのだが)、待ち時間に店内の写真を見せたことがある。だからHAYATOさんは、そのことを知っていた……それはおかしいことではない。
 理屈は通っている……。しかし、よく考えるといろいろ辻褄が合わない。
 一番の問題は、なぜ石黒もHAYATOさんも、知り合いであることをわざわざ俺に隠したのかということだ。
 石黒はともかく、HAYATOさんが何も言わないのはおかしい。
 店内の写真を見せた時、石黒と一緒に撮った写真も見せた。
 写真嫌いの彼が、俺と並んで撮りたいと言ってくれた。
 後で知ったことだが、それは病床のお母さんのためだった。父親代わりの川原さんから写真を送って欲しいと頼まれ、石黒は嫌々ながらも承諾したのだった。
 HAYATOさんは、石黒の写真を見た時、どんな反応を示したっけ……さすがに思い出せない。
「田島さん、お願いします!」
 スタッフが呼びに来たことで、俺と麻紀さんはその話題を終了することになった。
 今思うと、不可解なことが多すぎた。
 俺はそこに介入していいのかどうか、まだ決心がつかなかった。
 HAYATOさんはとても評判が悪い人だ。それは前々から聞いて知っている。あまり品がいいタイプではないし、馴れ馴れしいし、俺も苦手な部類ではある。
 しかし、心根まで腐っているとは、俺にはどうしても思えなかったのだ。
 俺がパーソナリティーを務めているラジオ番組に、一度ゲスト出演してくれたことがあるのだが、亡くなった父親を尊敬していると言った。
『へへっ、これ親父の形見なんスよ。風呂入る時以外はつけたまんまで』
 と、腕にはめたロレックスのアンティークを見せてくれた。とてもよく手入れされている印象を受けた。
 個人的に、腕時計を大切にしている人は好きだった。
 石黒も愛用のオメガを大事にしている。自分で買ったのか、誰かからの贈り物なのか、尋ねたことはなかったけれど……なんとなく勝手に川原さんから貰ったんじゃないかな、なんて思っている。
 坂本さんはロンジン、弟の章吾さんはポール・スミスをいつもつけている。麻紀さんはダニエルウェリントン。昔付き合っていた彼女とお揃いで買ったものらしい(麻紀さんはレスビアンである)。『気に入ってるから、別れても捨てられないのよね』と苦笑いしつつ言っていた。
 ちなみに俺がずっとつけているのは、継父の飯田から貰ったカルティエだ。あの後も何個かプレゼントされたのだが、一番最初に貰ったこれが一番気に入っている。
 そういうこともあり、父親の形見を大切そうにしているHAYATOさんに、俺はちょっと好感を持った。
 だから、ホームパーティーに誘われた時も、断ることができなかったような気がする。
 あの一件以来、ぷっつりと連絡は途絶えたが……彼もまた去年の事件のことで、ショックを受けているのだろうか?
 そして石黒は、なぜHAYATOさんと一緒に行動していたのだろうか?
 HAYATOさんが飯田プロの系列であるカムパネルラに移籍したがっている、という話を、なぜ石黒が俺には秘密にしたまま麻紀さんに相談したのだろうか?
 わからないことだらけだ……。
 いろいろ調べたいという感情と、このままわからないままにしておいたほうがいいんじゃないかという感情が、俺の中でごちゃ混ぜになっていた。

     *

 仕事の合間に、俺は久しぶりに新宿の[イーハトーボ]を訪れた。
 ここで写真を撮ったことを思い出したら、なんとなく来たくなってしまったということもある。
 シャッターに貼り紙がしてある。問い合わせにはいつでも応じるというウェイターの章吾さんらしい気遣いだ。
 一時期、ある理由で章吾さんのことをすごい嫌いだった時期もあるけど、今はとても感謝している。兄の坂本さんの話では、別の店にアルバイトとして勤務し始めたらしい。
 章吾さんも飯田プロの社員だったので、一時的に別の部署に異動するのはどうかと持ちかけたのだが、彼はそれを断り、退社した。その時に鍵は返却していった。それなのに、未だに[イーハトーボ]の窓口でい続けてくれるのは本当に有り難かった。
 俺は鍵を開けてシャッターを上げ、店内に入っていった。たまには換気をしたほうがいいだろうと思い、時折、足を運んでいる。
 最初は単に、寂しさを紛らわせるつもりだった。しかし今は違う。俺は少しずつ、走り始めている。
 そう、あの鳥……ロードランナーのように。
 棚に何本かリキュールの瓶が置いたままになっていた。ディサローノ・アマレットが目に留まる。アーモンドに似た香りがする、あんずの核を使ったリキュールだ。
 アマレットの味そのものを味わうサローノ・ミストはもちろん、ゴッド・ファーザーやオーガズムなど、作るのが比較的簡単なカクテルによく使われる。また、ジンジャエールに加えるアマレット・ジンジャー、ホットコーヒーに加えるアマレット・カフェなども、昔俺が勤めていたパブレストランでは人気のメニューだった。
 石黒がこの店の雇われマスターになった頃、自宅でもよくカクテルを作る練習をしていた。その時、この角ばった瓶をよく目にしたものだ。
 その時期、俺は石黒に、このリキュールを使ったカクテルをひとつ教えてもらった。
 カクテルの名前は、高校時代に石黒が好きだと言った鳥の名前と同じだった。
『田……いや、竜児』
「ん?」
 一緒に住むようになった頃、石黒は俺を苗字じゃなくて名前で呼ぶことになかなか慣れなかった。芸名は田島竜児のままだが、飯田と養子縁組をして苗字が田島ではなくなったため、名前で呼んで欲しいと俺が提案したのだった。
『このカクテル知ってるか?』
『うーん? 白っぽいからココナッツ・ミルクが入ってる? でもチチでもピニャ・コラーダでもないね。色が違う……』
『これは、ロード・ランナー』
『ロード・ランナー? あれ、ロードランナーって確か……?』
『そう、鳥の名前。覚えててくれたんだな』
 1976年にアメリカで開催されたバーテンダー協会のコンペティションで優勝したカクテルが、このロード・ランナーだと石黒は教えてくれた。名前の由来はもちろん、その鳥だった。
 日本ではオオミチバシリと呼ぶ。アメリカ合衆国の南西部からメキシコのあたり、厳しい半砂漠地帯に生息する。高校の時、図鑑を見ながら石黒が説明してくれた。短い距離なら飛べるんだけど、こいつは基本、地面を高速で走って移動するんだ。だから足がすごく発達してる……と。
『石黒が好きな鳥がカクテルの名前になってるなんて面白いね』
『ああ。俺も最近、知ったんだ。[イーハトーボ]のメニューに入れていいよな?』
『うん、もちろん』
 それ以来、石黒は自宅でも定期的にロード・ランナーを作るようになった。
 特に、俺が仕事のことで弱音を吐いた日などは、黙ってこのカクテルを作ってくれたものだ。
 ぐちゃぐちゃ思い悩むより走れってこと……? そう俺が尋ねると、石黒は照れ臭そうに視線を逸らし、黙って煙草をふかした。
 芸能界に復帰した直後、どれだけ石黒に助けられただろう。
 数ヶ月前、石黒がいなくなった時は、寂しくて、辛くて、こんなことは忘れていたけれど……今ならはっきりと思い出せる。
 走れ! そう石黒が言っている。思いつめるよりも先に走れと。走りながら考えればいいと。無言で、ロード・ランナーを俺に差し出してくれる。
 弱くてダメな俺をいつも支えてくれた。その見返りも求めなかった。お前が当たり前のことをしてくれるだけで俺は嬉しい……そう言って細い腕で俺を抱き締めた。
 だから、俺は走る。ロードランナーのように。
 ディサローノ・アマレットの琥珀色を見つめ、俺は改めて姿勢を正すのだった。
 ……ちなみにアマレットというのはイタリア語で「少し苦いもの」という意味だが、その苦味が切ない恋を連想させることから、友達以上恋人未満、という意味もあるらしい。
 石黒が好んでアマレットをカクテルに使ったのは、そういう理由だったのかもしれない。

ロードランナー - 04へ続く