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 去年の秋、一緒に暮らしていた親友が家を出ていった。体を壊し、療養のために故郷へ帰ったのだ。
 以前から健康的とは言い難い生活をしていたが、病気になる直前は特にひどかった。家で倒れ、救急車で搬送されてもなお、自分で点滴針を引き抜いて病院から姿を消したりした。
 なぜそんなことをしたのか尋ねたが、彼は俺には何も説明してくれない。ただ『すまない。でも、心配するな』と繰り返すだけだ。何度も。何度も、いつも。
 彼の友人たちに話を聞けば、新しくわかることもあるのだろうとも思うが……なんとなくそれはルール違反のような気がした。だから俺は、共通の友人とさえ最近はほとんど会っていなかった。
 俺の憔悴ぶりを心配して、声をかけてくれる人もいた。だが、そんな好意に甘えてしまうと自分を保てなくなる。
 それに、俺にはいろいろ箝口令が敷かれていたりする場合がある。俺を動揺させないため、傷つけないために社長やマネージャーの麻紀さんがそう判断しているのだ。
 だから俺は、大切なことも何も知らされないことが多い。子役の頃からそういう感じだ。だから慣れている。特別扱いには。
 特別扱いなんて仲間はずれと同じだ。子供の頃はそれでよく泣いたものだ。
 しかし、真実を俺に伝えたくないという気持ちが相手にある限り、無理にそれを探ることはできない。相手の配慮を無にする行為をわざわざする必要はない。俺さえ我慢すれば問題ない……やがてそう思うようになった。
 だから俺は、石黒が俺に知らせたくないと思っていることに関しては、極力、自分から首を突っ込んではいかないことにしている。
 それはある意味、身を切られるような不安と隣り合わせだ。が、そうすることが一番いいのだと思う。俺と石黒の関係の中では……。
「竜ちゃん竜ちゃん、ちょっと話があるんだけどー。ねえねえ、どうするう? 二人でごはん食べに行く? それともおうちで話す? パパはどっちでもいいよん♪」
 たまたま用事があって事務所に顔を出した日、俺は社長であり継父の飯田に呼ばれ、そう言われた。
 もう俺は子役じゃないっていうのに、まだこういうふうに話しかけてくるものだから脱力してしまう。
 たまにこの会話を事務所のスタッフに聞かれることがあるのだが、みな一様に体を震わせ、必死で笑いを堪える。むしろ爆笑してくれたほうが気が楽なのだが。
「わざわざ外で話さなくてもいいんじゃないの?」
 そう言って、その日は普通に帰宅した。俺の住処はマンションなので、正確には帰宅ではないが……去年の秋以降は、継父の家に泊まることが多くなった。きちんとマンションのほうに帰らなければと思うのだが、一人の時間を過ごすのが辛くて、つい、家族に甘えてしまう。
 そして夜。飯田が帰宅した後、俺は彼の部屋を訪れた。おそらく例の映画のオファーの話だろうな、なんて思っていた。
 しかし飯田が切り出してきたことは、まったく予想外のことだった。
「実は、竜ちゃんに会いたいって人がいてね」
「うん、いいけど……」
 この手の話はよくある。鷺沼瑠実さん宅へ行ったことを思い出し、俺は具体的な内容も聞かずに快諾した。
 それなのに継父は少し気まずそうにしている。断酒したので、大きなグラスに注いだノンアルコールビールを飲んでいた。どうでもいいがストローでちゅるちゅると飲むものではないと思う。六十を過ぎているというのに子供っぽいことこの上ない。
「あのねえ、その前にいろいろ……竜ちゃんに言ってないこと、説明しなきゃいけなくてぇー。パパ、困ってるの」
「説明してくれたらいいと思うよ」
「うーん、でも怒らないかなあ?」
「よくあることだろっ。俺に隠し事なんて昔からしょっちゅうしてるくせに、何を今さら」
「ふー。じゃあ約束。怒らないって」
「いや、それは保証できないけど」
「竜ちゃん、意外と癇癪持ちだからねー。まあ、そんなところも可愛くて好きだな~」
「話、進めてもらっていいかな。誰と会えばいいの?」
「井上秀一くんって子なんだけどね」
「井上秀一って…………まさか、あの!?」
 ……と、いうわけで俺は、昨年秋に起きた事件の詳細を知るため、弁護士と会うことになったのである。

     *

「あーっ! あーっ! あーっ! これはこれはっ、田島竜児さんっ、うわ、あーっ! か、顔、小っさ……じゃなくて、いやいやいや、あの、すみませんね、こんな汚いとこに来ていただいてっ! あっ、オ、オーラが、違……じゃなくて、ちょっと、あの、こら、お茶! お茶お出ししてーっ!」
 菊川法律事務所を訪れると、弁護士の菊川秀道先生が慌てふためきながら応対してくれた。
「どうぞ」
 菊川先生とは対照的なクールな女性事務員が、麻紀さんと俺に煎茶をいれて持ってきてくれた。俺を見ても表情ひとつ変えない。これはこれで、少し寂しかったりするものだが。
「ようこそっ、あーっ、ようこそおいでくださいましたっ! 弁護士の菊川とっ、申しますっ! 花のキクにっ、三本川のカワっ、ですっ、はいっ! はいっ! はいっ!」
 菊川先生はしばらくの間はそんな感じだったが、少し話して慣れてからは、やや落ち着いた話し方になった。あくまでも、やや……だったが。
 年齢を尋ねたら、俺よりも二歳年上だった。若干落ち着きのない印象はあるものの、若々しくて、目がくりっと大きい人懐こい顔をしている。かなり癖の強い天然パーマが特徴的だ。遠くから後ろ姿を見ても、たぶんすぐにこの人だとわかるだろう。
 飯田プロの顧問弁護士は女性で、なんというか生真面目で怖いタイプなのだが、菊川先生はそれとは正反対で人のよさそうな感じだった。テレビドラマだったら、主人公のよき味方になってくれそうなタイプの弁護士である。
「裁判は終わっていますのでっ、多少の閲覧制限はありますがっ、判決書は誰でも読むことが可能ですっ! 私のほうで検察庁に申請しましてっ、これがその写しですっ!」
 先生に手渡された書類には『殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反』と書かれていた。その下には『懲役三年、執行猶予四年』と有罪判決が下ったことが記されている。
 去年の秋、虎ノ門にあるレコードレーベルのビルのロビーで起こった殺人未遂事件のことだ。
 そう……人気ロックバンドのメンバーが女性プロデューサーをナイフで刺した、あの事件。テレビもネットも、一時期はその話題で持ちきりだった。
 初犯であること。被告が服役することを被害者側が望まなかったこと。ファンから減刑嘆願書が殺到したこと。そして何よりも、被害者を刺した理由に同情の余地があること。それらの理由で執行猶予がついたとのことだった。被害者に長年、男女の関係を強要されていたことが大きかったようだ。
 バンドを脱退したいという主張が受け入れられなかったことで絶望し、怒りを覚え……と、判決書に記述があった。事件直前の様子についても少し書かれている。
 なぜ俺がここへ来て、この確定記録を見せてもらっているのかというと、釈放された井上秀一さんが俺に会いたいと言ってきたからだ。
『実はあの時、石黒くんが現場にいてね……』
 初めて聞かされ、俺は継父の前で愕然としてしまった。
 事件が起こったのは、石黒が病院を脱走した日の翌日だった。それははっきりと覚えている。俺は石黒のことが心配で心配で、正直、事件のことなんてどうでもよかった。
 まさか、その二つの出来事が繋がっていたなんて……。
 もちろん、調べればわかったことなのだが……俺はあえて石黒のことは何も調べなかった。あいつが言うことだけが俺にとって真実だ。あいつが『ごめん、何も話せない』と言うなら、深く追求することはしたくない。それが彼への信頼の証だと俺は思っている。
 そういう理由で何も知らなかった俺は、井上さんと会う前に事件のことを調べておこうと思い、確定記録を閲覧することにしたのだ。
 しかし事件と無関係な者が申請しても通りにくいと聞き、事件を担当した弁護士に話を通してもらったのである。
「これを読むと、井上さんは脱退を希望していたのに、プロデューサーは井上さんは残留、他のメンバーを交代させたかったと書いてありますけど……」
「はいっ、はいっ、はいっ。REVENGEはここ最近はメンバーが二つに分裂していた感じだったそうでっ。ギターの井上秀一くんとベースの早川ダンさん。この二人は仲がいい。そんでヴォーカルの三島隼人さんとドラムの進藤孝弘さん。こっちはこっちで仲がいい。この二組で対立していたようなっ、そういう感じはあったようですねっ。だから活動方針で揉めてっ、井上くんと早川さんが二人で脱退したいとっ。申し出たんですがそれが受け入れられずに、という流れなわけですよっ」
「早川ダンさんが……ベース……」
 俺は石黒の部屋にあった黒いボディのベースを思い出していた。俺の前で弾いてくれたことは一度もなかったが、片手間に作曲などをしていたことは知っている。
 被害者である女性プロデューサーがメンバーを一人、交代させようとした。当日はその話し合いが行われており、そこに石黒がいた……となると、考えられることはひとつしかない。
(でも有り得ない……)
 石黒は音楽のことなど何も言っていなかった。もし何かやりたいと考えたとしても、俺や飯田に相談しないのはおかしい。プライベートのことではなく、仕事の話なのだから、いくら石黒でもそうするはずだ。
「まあ、まあ、まあ、だいたいそんな感じですっ。そこに書いていないことでっ、わからないことがあったらぜひっ、尋ねてくださいっ! 話せないこともありますがっ!」
 菊川先生がそう申し出てくれた時、事務所内の固定電話が鳴った。すぐに事務員さんが応対する。
「先生、エフ・オー・エルの山口社長からお電話です」
「あっ、あっ、あっ、えーと、ね、後でかけ直すって言っといてっ!」
「そう言ってるんですが、待てへんねんとっとと出ろやボケェと伝えてくれと」
「もーっ! しょーがないなぁっ! もうっ、もうっ、もうっ」
 ぼやきながら先生は電話に出る。
 その間、俺と麻紀さんはお暇する準備をしていた……が、なぜか麻紀さんの様子が少しおかしい。
「……どうかしましたか?」
「……」
 尋ねると、珍しく麻紀さんが俺から目を逸らす。
「何か俺に隠してることが?」
「……待って頂戴。後で社長に確認するわ」
「知ってたんですね? 麻紀さんは」
「社長に確認したら……その後に、ちゃんと謝るわ。あなたには言うなと言われていたことがあるのよ」
「……だと思いました。慣れてるから気にしないでいいですよ」
 こんなふうに言いながらも、心の中では少しわくわくしている俺がいる。あの日、石黒が病院を抜け出して外泊した理由を知ることができる。それだけで俺は嬉しかった。人が一人殺されかかった事件だというのに、俺ときたら石黒のことばかり考えている……自分でも呆れてしまう。
「ごめんなさいね。あなたが傷ついてること、気にしてないわけじゃないのよ……」
「わかってますよ」
 そこまで話した時、菊川先生が電話を終えた。
「ふーっ、まったく……マルチで儲けてるくせに、山でクワガタ採られたぐらいでグチグチと……これだから関西人は……」
「先生、声が出てます」
 俺たちがいることを意識して、事務員さんがそっと先生をたしなめた。
「だいたいねぇっ、私は関西弁が苦手なんですよっ! 大学で同じゼミだったあいつを思い出すっ! やたらと口が達者でっ、無駄にフットワークが軽くて頭も切れてっ、あれほど弁護士に向いている奴はいなかったっていうのに突然……」
「先生、田島竜児さんとのお話が途中では」
 ヒートアップした菊川先生の言葉を事務員さんが冷静に遮る。
「あーっ! あーっ! あーっ! す、すみませんっ、すみませんっ、すみませんっ!」
「あ、いえ、あの……お気になさらず」
「と、とにかくっ! 何かお役に立てることがありましたら、なんでもおっしゃってくださいっ!」
 菊川先生が真っ直ぐに俺の目を見て言ってくれた。調子がよさそうに見えるが、信頼できる人という印象を受けた。
「ありがとうございます。またご相談させて頂きます」
 俺と麻紀さんは深々と頭を下げて、菊川法律事務所を後にした。

ロードランナー - 03へ続く