高校三年生の時だった。
『田島、これだよ、前に言ったやつ』
『えっ? あっ、これがこの前、石黒が教えてくれた……』
『そう。鳥。俺が好きな』
 神保町の中古レコード店の二階の部屋で、石黒が見せてくれた外国の鳥類図鑑。
 英文なのでまったく読めなかったけれど、鳥のイラストや写真がとても美しかったのを覚えている。
『カッコーの仲間なんだっけ? 嘴がすごいね』
『足もすごいだろ? だって、こいつは……』
 石黒は鳥や昆虫の図鑑が好きで、いろいろ持っていたっけ。
『走るんだ。力強く』
 目を輝かせながら鳥のことを話していた石黒は、とても楽しそうだった。
 俺の父が他界した後は特に、そういう話をよくしてくれたような気がする。
 今思えばあれは、不器用なあいつなりの心遣いだったのかもしれない。口下手なのに一所懸命、俺を退屈させないようにしてくれた。
 だから俺は彼と一緒にいる時だけは、辛いことを忘れていられたのだ。

     *

 テーブルの上に置かれたティーカップを手に取り、紅茶を口に含む。渋みが少なくて飲みやすいセイロンティー。たぶん、ミディアムグロウンティーだろう。キャンディかな? ストレートでもすっきりとした味わいだが、レモンを入れてもミルクを入れても美味しい。
「まあ、まあ、本当に、本当に、田島竜児くんなのねえ」
 ソファで身を乗り出して、年配の女性がじっと俺の顔を見つめてくれている。
「本物の田島竜児さんよ、おばさん」
 俺の隣でチーズケーキをひと口食べた礼香が、くすくすと笑いながら微笑んだ。
 ここは礼香の児童劇団時代の友達の家である。俺は今日、彼女に連れられてここを訪れた。
「礼香ちゃん、田島竜児くんのことが大好きだったものねぇ。うちの娘がいつも言ってたわよ。よかったわねぇ」
「よ、よかったわねって、べべべ、別に、お付き合いしているわけでは……ないですよ!?」
「あらそうなの? 私はてっきり……」
「い、今ですね、一緒のスタジオで撮影をしていて、たまたま空き時間が合ったので、無理を言って来ていただいたんです。おばさんと、おばあさんのことを話したら、とても心配してくれたので……」
 あたふたと慌てながら礼香が言う。そんな態度を取ったらあからさまに嘘だとばれそうな気がする。
 年配の女性、すなわち礼香の友達のお母さんは興味津々という感じで礼香と俺を交互に見ている。
 その視線にはにかみながら、礼香は言葉を続けた。
「お、おばあさんは? ま、まだですか?」
「おばあちゃんね、今、支度してるから。申し訳ないけどもうちょっと待ってくださいね。田島竜児くんのね、大ファンなのよ。昔ね、大好きだったの。ドラマ」
「大丈夫です。まだ時間はありますから」
 礼香の友達は、去年の夏から行方不明になっている。飯田プロではないが芸能事務所に所属しているグラビアアイドルだ。写真集を何冊も出している。名前は鷺沼瑠実さん。芸名は同じルミという読み方で“月海”さんである。
 捜索願はとっくに出しているそうだが、今まで情報ひとつない状態で、年を越してしまった。
 友達が行方不明だという話を礼香に聞いたのは去年の夏だったが、その時は正直、あまり気に留めていなかった。俺自身、去年の夏から秋にかけてはいろいろあり、申し訳ないがあまり他のことを考える余裕がなかったのである。
 しかしその友達というのは実は児童劇団時代の幼馴染みだと後で聞かされた。芸能界に入ってからの友達だと思っていたので、俺は少し驚いた。
 俺にとってショックだった出来事から三ヶ月たち、ようやく俺も他のことに気が回るようになった。それで、今日は礼香と一緒に瑠実さん宅を訪問したのである。少しでも家族を元気づけられたらいいと思った。
「あら、あらあら、あらあらあら、田島竜児くん」
 やがて、きちんとした身なりの老齢の女性が部屋に入ってきた。品のいい着物を着て、髪も化粧もきれいに整えている。俺と写真を撮るということでおしゃれをしてきてくれたようだ。
「どうもはじめまして。田島竜児です」
「あらあらあら、大きくなったのねぇ……でも、やっぱり可愛いわねぇ……」
「おばあちゃんったら、可愛いなんて言ったら失礼よ」
 瑠実さんのお母さんが、笑いながらお祖母さんに言う。
 俺はかつて子役だったので、年配の人にはそれなりに知名度が高いようだ。十年以上も放送されていたホームドラマに2シーズンほどレギュラーで出演していたからだろう。
「あのコマーシャルも好きだったのよ。お菓子の……ほら、雪の中で踊ってた……可愛かったわねえ」
「Lady~、ぼくを抱き締めて~♪♪」
 お母さんも思い出したらしく、CMソングを歌っている。とても恥ずかしいが、この流れは仕方がない……。レコードはすでに廃盤だからいいが、たまにこうやって歌われると顔から火が出そうになる。
「こんなに立派になっちゃって……イケメンになったわねぇ……」
「朝の番組の占いで、今月はいいことがあるって言ってたのよ。当たったわね」
 俺は手厚いもてなしを受けて、色紙にサインを書いたり一緒に写真を撮ったりして家の人たちと時間を過ごした。
 そして夕方になり、お祖母さんの、
「ああそうだわ、孫が帰ってきたらいろいろ失礼なことをしでかすかもしれないから」
という一言で、お暇することになったのである。
「なんとかちゅーばーってやつでね、自分で作った動画をネットで公開してるの。だからいっつもネタを探してて、何かというと撮影したがるのよ。有名人が家に来たなんて言ったら大変だから」
 お母さんのほうもそう言っていた。お祖母さんから見て孫、ということは、行方不明の瑠実さんの弟さんだろう。その子もお姉さんがいなくなって悲しんでいるに違いない。
 しかし、後で礼香にそれを言うと、
「どうかしら? それほど仲はよくなかったみたいだけど……」
と、答えた。
 まあ、男女のきょうだいなんてものは普段はそれほどベッタリしないものだ。俺も姉がいるからよくわかる。
 俺のマネージャーの麻紀さんが運転する帰りの車の中で、俺は礼香に何度もお礼を言われた。
「ありがとうね、竜児さん。本当にありがとう」
「お礼言われるほどのことをしたかな……」
「おばあさんね、瑠実ちゃんが行方不明になってから、ほとんど外にも出ないで、お部屋に閉じこもってたんですって。食事も喉を通らなかったみたいなの」
「そうなんだ……」
「それが今日は竜児さんが来るからって、おしゃれして、あんなに楽しそうにしてて。よかったわ……本当に……」
 礼香は疲れたように溜め息を漏らした。
 ここ数ヶ月、瑠実さんのお母さんからの電話攻撃ですっかり参っていたようだ。娘の行方がわからずに不安だったのだとは思うが、いろいろ尋ねられても礼香としてはどうすることもできない。着信拒否するわけにもいかず、困っていた様子だった。
 そういう事情もあり、俺は今日、瑠実さん宅を訪問することに踏み切ったわけだが……。
「それにしても、瑠実さん……どこにいるんだろうね」
「ええ……とっても心配……もう半年だし……」
 礼香は肩を落とした。
 やがて車はスタジオに到着した。駐車場で、礼香のマネージャーの清水さんが待っていてくれた。
「滝瀬さん、ありがとうございました」
 清水さんが麻紀さんに頭を下げる。礼香も車を降りて、同じようにする。
 さっき瑠実さんの家で礼香が一緒に撮影を……などと言っていたが、あれも嘘だった。俺は今日、このスタジオでの仕事はない。単に二人で待ち合わせて出向いただけである。俺はこれから別の場所に向かう。
「じゃあ礼香、頑張って」
「はい。今日は本当にありがとう、竜児さん」
 俺を乗せた車が発進するのを礼香と清水さんが見送ってくれた。
 二人きりになった車内で、麻紀さんが口を開く。
「清水から聞いたけど、別にそれほど仲がよかったわけでもないみたいよ。礼香ちゃんとその子」
「まあ……そんな気はしてましたけど」
「向こうは友達のつもりなんでしょうけど。同じ劇団にいた子の中で礼香ちゃんが一番売れたから……まあ、要するにそういうことよ」
 仲のいい幼馴染みにしては、礼香は去年、それほど動揺はしていなかった。夏にニュースになった時にその事実を聞かされはしたが、その後はお母さんからの電話が多すぎて困っているということを聞くまで、特に何も話はしなかった。
 礼香にしてみれば、単に一緒に劇団にいた一人に過ぎなかったということだ。おそらくそうじゃないかとは思っていた。それでも関わりがある以上、心配だという言葉は本当だと思うが……。
「今日、行ったりして、よくなかったですかね」
「こういうことも有名人の仕事のうちよ。社長がいいって言ったんだからいいんじゃないの」
「麻紀さんはちょっと怒ってますよね……」
「怒ってはいないわよ。でもね……」
 そこで麻紀さんは少し口ごもり、一度深呼吸してから次の言葉を吐き出した。
「……悪いけど、もう……死んでるんじゃないの」
「………………」
 瑠実さんがいなくなってから半年である。俺もそれは考えていた。
 一般の人ならともかく、グラビアアイドルという仕事をしている女性が、自分の意志で失踪するとは考えにくい。
 警察は事件性があると判断しなければ動かない。いくらタレントでも、民事不介入という決まりがあるからだ。
「駆け落ちとか……なら、有り得るかも。何か事情があって、連絡できないのかもしれないし。そう思いたいです」
「どうかしらね。それにその子、あれでしょ? あいつと付き合ってたんでしょ? REVENGEの……」
 麻紀さんは不快そうに顔をしかめて言った。
「瑠実さんが最後に会ったのは、HAYATOさんじゃないかって……お母さんはそう言ってるみたいです。今日、そのことを聞こうと思ったんですけど……そんな雰囲気じゃなくて」
「刑事はドラマだけにして頂戴」
「そ、それを言われちゃうと…………」
 俺は助手席で肩をすくめた。そういう役をやっているせいで、今回の件が気になっているという部分はもちろんある。こういう時、その職業だったらどう考えて行動するのかな、とか……。
 だからと言って、礼香の友人の失踪を利用して役作りしているわけではないけど……。
「そうそう、役といえばあなた」
「はい?」
 麻紀さんが話題を変えてきた。
「さっき、手荷物から落っこちそうになってたから見ちゃったんだけど。あの漫画、読んでるの?」
「えっ? ああ、はい。読んでます。面白いですよ」
「社長は断るって言ってるけど?」
「俺はやりたいって言ってあります……社長に」
「う~ん……私は反対だけど。……イメージの問題なのよねぇ……」
 ある漫画を原作にして映画を撮りたいという監督が、俺に打診してきたのだ。しかし社長や麻紀さんは渋っている。俺自身は、とてもやりたいと思っている。
 ジャンルはホラー・サスペンスで、主人公はシリアルキラー。連続殺人犯だ。
 そういうダークな役は演じたことがない。オファーを頂いて、原作となっている漫画を読んでいるが、とても魅力的で興味を惹かれる。
「SNSを見たら、漫画家の先生はあなたのファンみたいね。田島竜児なら実写化OKって言ってるって」
 社長――継父の飯田は、考えさせてくれと言っている。子供の頃のように、俺の熱意を汲んでくれたらいいのにと思っている。
 生まれ変わりたい気がしていた。去年の秋から、俺の中でその気持ちがずっとくすぶっている。演じたことのない役を演じてみたい。今までの自分を脱ぎ捨てたい。俺はそう願っていた。
 それに、もし俺がその仕事を受けて、それが報道されたら……。
 石黒が、日本のニュースを見てくれるのではないかと……俺は微かにそんな期待もしているのだった。

ロードランナー - 02へ続く