*

 午前一時を過ぎて憲治が帰宅したところ、まだDKの明かりがついていた。
「あっ、兄やん、お帰り」
「おう、ただいま……て、お前、何しとんねん? こない時間まで……」
「履歴書書いててん」
 ダイニングテーブルの上に履歴書と封筒、そして万年筆と印鑑、証明写真などが雑多に広げられていた。
「面接行くんか?」
「そろそろ働き始めんとさ。何軒かまわってみよ思てん」
「偉いなあ、章吾は……」
 憲治は薄手のコートを脱ぐと、ハンガーに掛けた。
 そして椅子に腰掛けている章吾を、後ろから抱き締める。
「……兄やん?」
「……じっとしとって」
「兄やん、手ェ震えとる。寒い? コーヒーいれよか?」
「いや、ええねん。しばらく、こうさせてて」
「うん」
 章吾は黙った。この世に怖いものなどないような兄が、何かに怯えているように縮こまっている。
「…………コワイ人て、おるんよな」
「ん? 怖い人て?」
「詳しゅうは言えんけどやな……生まれて初めて、俺……小便ちびりそうなったわ」
「…………?」
「無事に帰れて良かったわ……」
 憲治は深い溜め息をこぼした。
 昼間、津村に呼ばれてビデオの件を頼まれた。憲治なら任せてもいいと大事な役目を託してくれたのである。しかし……。
『本来ならね、やることやって頂いたら殺すんですよ』
 そう言って津村は憲治を見据えた。その瞳は本気だった。本気で憲治に対して殺意を抱いていた。
 あの瞳を思い出すだけで身震いする。普段は温厚そうな顔で微笑んでいるだけに、なおのこと恐ろしかった。
 自分は今日、津村のあの瞳で一度殺されたのだと思った。
 夏樹と柳川の手前、虚勢を張ってはいたが、その後はずっと上の空だった。そして、無性に弟に会いたくなった。
 これは生命の危険を感じた人間の本能なのだろうと憲治は思った。
 ビデオを回収した後も、津村は憲治に対して……いや、憲治の記憶に対しての殺意を胸に抱き続けるのだろう。
 そうとわかっていても、やり遂げなければならない。もともと、自分が首を突っ込んだ件である。今さら逃げ出すわけにはいかない。
「はあ……癒やされるわ……」
 気持ちが落ち着くまで、憲治はしばらくの間、章吾のことを抱き締めていた。

     *

 夏樹は自分の部屋のベッドに寝転がっていた。
 準備はすべて整った。津村に任せた件も、熊田に任せた件も、ダンに任せた件も、憲治に任せた件も、それぞれ確実に結果を出すだろう。自分は待つだけである。
 あと一つ、夏樹がやらなければいけないことが残っていた。これは数馬から一番最初に頼まれたことだ。ツアー中の宿泊先に電話がかかってきた。普段はあまり数馬のほうからは連絡を取ってこないにも関わらず……。
 夏樹は、端末に表示されているTakahiroの連絡先をじっと見つめる。
「孝弘さん…………」
 Takahiroこと進藤孝弘の顔を思い出す。おとなしく飾り気のない好青年だった。いつもはにかんだように微笑んでいて、照れると耳まで真っ赤になる。朴訥、という言葉は彼のためにあるような言葉だった。
 Dark Legend時代、数馬も信之も彼のことを全面的に信頼していた。隼人のようなメンバーがいても皆がまとまっていたのは、そのせいだったのかもしれない。
「……………………」
 先日、夏樹はホテルで憲治に打ち明けた。
『あのね……僕、数馬にお願いされたの。このリストに名前載ってる人が、ドラッグの売買に関わってないかどうか。それを僕に調べて欲しかったみたい』
『ドラッグとはまた……いきなりやな』
 憲治は眉をひそめた。
 それに対し夏樹は、
『HAYATOはドラッグを使って、Takahiroさんを脅迫してる可能性があるんだ』
 と、言った。
『なっ……!?』
 驚く憲治を前に、落ち着いた態度で言葉を続ける。
『数馬がHAYATOの部屋でTakahiroさんに会った時、そんな感じがしたんだって。昔に比べて落ち着きがなくて、瞳孔が開きっ放しで、よく見ると白目のところがかなり黄色かったみたい。体臭も、常習者は独特の臭いがするんだって。それで確信したみたいなんだけど』
『夏ちゃんのことよう見てたから、そういうの詳しいんやろなぁ』
『もーうっ! 僕のことはどうでもいいの! もうやめてるんだからぁ』
『自分、昔もそう言うて実際はまだ続けてたことあったやんけ』
『若気の至りだっ! 今はもうやってないよ……ただ、やってる人は見ればだいたいわかるし、売ったり買ったりすれば、そういう情報は入ってくる。だから数馬は、HAYATOが入手した芸能人のリストを僕に渡そうとしたんだよ。その時はまだ、HAYATOの目的がそっちなんだと思ってたからね。こういう人脈を手にして、そっち方面で何かしようとしてるんじゃないかって心配したみたい』
 竜児の携帯電話から流出したリストでそのようなことが行われたとわかったら大問題になる。数馬が少し焦っていたのはそのせいだったのだろう。
 このことは津村にも、そしてダンにも伝えた。ダンはそれが本当なら隼人を許さないと言った。
 二人で焼肉を食べに行った時、隼人は夏樹にそれらしい話を振ってきた。どこからか仕入れているのは確かだと思った。
 もしも誰かにドラッグを流しているのだとしたら、それも止めなければならない。夏樹はそう決意していた。
「とりあえずは孝弘さんが常用を認めてくれたら話が早いんだけど」
 そう呟いて、夏樹は携帯電話を操作し、孝弘に連絡を取ることにした。

     *

「旅行?」
 怪訝そうに隼人は振り向き、まじまじとダンの顔を見つめた。
「どうした? 俺は何かおかしいことを言ったか?」
「いや……なんていうか……どうしたのよ、突然?」
「旅行にでも行かないかと誘っただけだが……」
 無表情のまま、ダンは腕を組んで隼人の返答を待っている。
「……意外だなァ。お前がそんなこと言い出すなんてよ」
「俺は以前からよく出掛けてるが?」
「まァ……シュウとあちこち行ってたのは知ってるけどさ。それはなんつーか、ほら……仲良しのシュウちゃんとだから行ってたんだろ?」
「たまたまだ。スケジュールが同じだから予定が立てやすかった。お前は他の仕事が多くて休みが合わない。だから声を掛けられなかった。それだけのことだ」
「フ…ン……、ま、いいけどね」
 隼人はソファに腰を下ろし、座面の上で片膝を立てた。そして、さも面倒臭そうに、
「別に俺、お前となんか旅行行きたくねーんだけどな……」
 と、首を回す。
 するとダンは、少し考えてから提案した。
「女性でも誘ったらどうだ? 邪魔でなければドライバーとして同行するぞ」
「何だよ、車出してくれんのかよ?」
「お前には世話になってるからな。それぐらいさせてくれ」
「ま、そーいうことならいいかなァ……よし、ちょっと一緒に行く女、見繕ってみるわ」
 隼人は携帯電話を手に、アドレス帳を確認し始めた。
「待てよ……お前がいたらどうせエッチできねーし、女誘ってもしようがねーか……じゃ、妹でも連れてってやるかなァ……」
 それを横目で見ながら、ダンは黙ってリビングから立ち去った。

     *

 ベッドサイドテーブルの上に置かれた携帯電話が着信メロディーを奏でた。
「……ん……」
 ベッドでうとうととまどろんでいた田島竜児は、その音で目を覚ました。着信メロディーは数秒間鳴り続けていたが、アコーディオンカーテンを開けて端末の持ち主が走ってきた時には、すでに停止してしまっていた。
「……ごめん、眠っちゃってた」
 携帯電話の着信履歴を操作する相手に向かって、竜児は眠そうに話しかけた。
「ごめんなさい、起こしちゃって。音、鳴らないようにしておけば良かったわね。本当……ごめんなさい」
 立花礼香は立ったままニコッと微笑んで竜児を見下ろした。しかしすぐに腰を落とし、カーペットの上にぺたんと座る。
「いや……いいよ。俺が寝ちゃったのが悪いんだし……もう起きるね」
「もうじきごはんだから。スタッフの人に烏骨鶏の卵もらったから親子丼作ろうと思って」
「烏骨鶏か。いいね」
「栄養があるから、きっと竜児さん、元気出ると思うわ」
「ありがとう。後片付けはするよ。……って、食器洗い機に並べるだけだけどね」
「ううん、それだけでも助かるわ」
 礼香は優しく微笑んだ。しかしその瞳は悲しげに潤んでいた。
 恋人である竜児はこの一ヶ月、ほとんど自宅に帰っていない。正確には、服などを着替えには戻るものの、くつろぐことなく出歩いてしまう。ここ、礼香の部屋ではない場所に泊まることもあった。マネージャーの家や継父の家、姉のマンションなどを転々として過ごしている。
 夜中でも早朝でも、思い立てば一人でバイクに乗って何時間でも走り続け、へとへとになって帰ってきたりする。
 そうかと思えば、真っ暗な部屋で毛布にくるまり、ボソボソと独り言を喋っていることもあった。かなり精神的に参っているのが傍から見てもわかった。
 共に暮らしていた親友が日本を離れ、故郷へ帰ったことが原因だった。病気の治療だという話だが、相手の容態が悪すぎたため、再会の約束さえ叶わなかったという。
 竜児とその親友との間には強い絆があった。故に、竜児のショックは計り知れないほどのものだった。性格は荒れ、些細なことで怒ったり泣いたりするようになった。
 もちろん竜児自身、そのことを気にしている様子だった。頭ではわかっていながら、自分ではどうすることもできないのかもしれなかった。だから礼香は、何も言わずにただ、彼と苦しみを分け合おうとしていた。
「今日も泊まっていい……?」
「ええ。私はCMの撮影で遅くなるかもしれないから、竜児さんが先に帰ったら寝ててね」
「ごめん。礼香。……悪いとは思ってる。でも……」
「しようがないわよ。こっちのことは気にしないで、今は甘えて」
「うん……ごめん」
 竜児は寝返りを打ち、礼香に背を向けた。
 その後ろ姿を見つめながら、礼香は肩まで毛布をかけ直してやった。
「夢……見てた」
 ぽつりと竜児は言った。
「夢? どんな夢?」
「石黒がさ……高校の時のままでいるんだよ。髪、黒くてさ。俺は今のままで……向こうは俺を見ても無表情でさ……俺のことなんて知らないみたいなんだよね。なんていうか、夢の中では俺たちの年齢が違ってて、会えてないって感じで……俺は石黒のこと、よく知ってるのに……向こうは知らない……俺ね、どうやって、俺がここにいるってことを伝えたらいいかわからなくてさ……そこで目が覚めた」
「かわいそうに……辛い夢ね……」
「よく見るよ最近。それで、何か熟睡できてなくて……いつでも眠いんだよ」
「石黒さんから連絡……まだ……?」
「ないよ」
「そう……」
「病気だからしようがないって……わかってるんだけどね」
「心配ね……」
 礼香は心から竜児を心配している。そんな彼女のことを利用しているような気がして、竜児は落ち込んでいた。
 いつまでも甘えているわけにはいかない。そう思うのだが、毎日の仕事をこなすのに精一杯で、きちんと現実を見つめることさえできていない。
 こんなにも自分は数馬の存在に縋って生きていたのだと思い知らされた。
 憲治や夏樹をはじめ、様々な友人たちが竜児を気遣ってくれている。そろそろ前を向かなくてはいけない。
「ごめん、こんな話して。起きるよ」
 竜児は頭を掻きながら起き上がった。そして毛布を跳ね除け、ベッドから降りる。とにかく、体を動かさなければ何も始まらない。
「ごはん、俺が作ろうか。親子丼なら得意だし」
「あっ、ええ。いいの? ありがとう、助かるわ」
「だから電話、掛けてていいよ。今の」
「う、うん……そうね、でも……」
 礼香は曖昧な表情で口ごもった。
「掛けないでいいの?」
「あの……うん、お友達の……お母さんなのよ」
「友達のお母さん? どういうこと?」
 不思議そうに竜児が訊くと、礼香は顔を歪め、悲痛の表情を見せた。
「前に……話したでしょう? ほら、夏ぐらいからおうちに帰ってなくて……捜索願を出してるっていう友達……グラビアアイドルの……子」
「あっ、夏ぐらいにニュースでやってたんだっけ。まだ帰ってないんだ」
「だからお母さんがね、心配して……よく電話が掛かってくるの。じっとしてられないみたいで……何でもいいから心当たりはないかって。何度も同じ話になるから……申し訳ないんだけど、ちょっと困ってるのよ」
「そうなんだ……まあ時々、話相手になってあげればそれでいいんじゃないかな。気の毒だけど、きっと礼香だけに掛けてるわけじゃないだろうからさ」
「その友達の彼氏だった人には着信拒否されたらしくて、お母さん怒ってるのよ。その愚痴も聞かなきゃいけないから、ちょっと……」
「彼氏、いたんだ。誰?」
 竜児は何気なく尋ねた。
「あっ……そ、それは……あの……」
 礼香は少しためらったが、おずおずとその相手の名を口にした。
「REVENGE……あ、バンドのREVENGE……の、HAYATOさんって人」
「えっ……?」
「どうかしたの?」
「いや……別に……」
 キッチンへ向かいつつ、竜児は妙な胸騒ぎを覚えていた。
(了)

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