ジキルは男の言う通りにするべく、廊下へ出た。
幾人かの男性教諭が廊下に固まっていた。
皆、ホールドアップしたジキルと拳銃を突き付けられた児童を目で確認し、息を飲んだ。
すでに警察へ通報はしているだろう。数年前に建て直したばかりの新築校舎である。警察直通の非常ベルが完備していると思われた。
「なあ。子供は離したれや。ワシだけでええやろ」
「そうはいかん。くだらねえこと言ってねえで、さっさと進むんだ」
「進むってどこへ」
「つべこべ言うな! 言われた通りに歩けばいいんだよ!」
ジキルは黙り、一歩ずつ廊下を歩きながら考えを巡らせた。
男は、父兄参観日をわざわざ狙ったのだろうか。
普段、学校は侵入者を防ぐため、校門を閉め切っている。今日はそれが開いていた。
今日だけが、大の男が堂々と小学校に入っても不審に思われない日だった。
それが校舎の中で迷い、教師が声を掛けたことで興奮し、発砲したのだろう。
ジキルは穏やかな口調で、人質になっている女児に話し掛けた。
「恐ぁないからな。平気やからな」
言いながら、女児の胸の名札を読んだ。ユリという名前が確認できた。
ジキルはこの子の父親ということになっている。そうでないことを男に知られると、いろいろ面倒だ。
ユリは恐怖に顔を歪ませながらも、小刻みに何度も頷いた。すがりつくような瞳でジキルを見つめている。
アリサのクラスメイトを傷つけるわけにはいかない。何としても、守りきらなければならない。
ジキルは微笑みながら、左手でユリの頭を撫でた。
男が激昂して怒鳴り付ける。
「勝手に動くな。ちゃんと歩け!」
「ワシの娘や。ええかげん、解放せえっちゅうねん」
「ダメだと言っただろう。もう一度同じことを言わせたら、今度こそ撃つぞ」
ジキルは諦めて、再び両手を上げた。
男の目的がわからない限り、行動のしようがない。
今は、男のやりたいようにさせて、様子を見る他なかった。
「階段を昇れ。一番上までだ。早くしろ」
廊下の突き当たりの階段を昇る。男もユリを抱えたまま、ジキルの後を付いて来た。
二階にあったアリサの教室から四階まで歩き、一行は最上階に辿り着いた。
そこから屋上へ進む階段はない。
その階には、ドアが一つだけしかなかった。
他の校舎は三階までで、その上は屋上になっている。しかしこの校舎は屋上がなく、階段を昇り切った先は、大きな音楽室があるだけだった。
この時限、音楽室を使用していたクラスはないらしい。四階はしんと静まり返っていた。
「中に入れ」
男に命令され、ジキルは音楽室の中へ足を踏み入れた。
大きなグランドピアノが目に入った。
「おい、ちょっとこっち向きな」
男が後ろからジキルを呼んだ。
振り向くと、トカレフの銃口がジキルに向けられていた。
「俺の腰にナイフが下がってる。それを取れ」
「……ナイフ?」
「ああ。言っておくが、妙な真似をしたら、このガキを撃つぜ」
ジキルは男のジャケットの裾を持ち上げてみた。
革のケースがベルトから吊るされ、その中にナイフが納められている。それを抜き取り、ジキルは男に手渡そうとした。
しかし男は受け取らず、次の命令を下した。
「よし。それを持って、そのグランドピアノの上に乗れ」
「は?」
「早くしろ。娘の命が惜しくねえのか」
ジキルは言われた通りに、ナイフを手にグランドピアノの上に登った。
ナイフの柄の部分に、ストラップのような物が付けられていた。小さな鍵がぶら下がっている。どこかの部屋の鍵にしては、小さすぎるような気がした。
「天井に手が届くか、チビ?」
「まあ一応」
「そのへんの板が一枚外れるはずだ。ナイフで切って外せ。早く!」
「天井の板を……? なんで?」
「いちいちうるさい! 言われた通りにしろ」
ジキルは天井を見上げた。約40センチ四方のタイルが全面に敷かれている。
よく見ると、一枚だけ繋ぎ目の溝の部分に線が入っていた。試しにその部分にナイフを刺してみた。思いのほか抵抗は少なく、すぐに穴が空いた。
この板だけが、過去に外されたことがあるのだろう。
溝につけられた線に沿ってナイフを滑らせ、タイルを一枚外すのに、2分程度しかかからなかった。
男は満足そうにその様子を見つめ、初めて笑った。
「よし、いいぞ。じゃあ、そこから天井裏へ入ってもらおうか」
「……?」
「どこかにアタッシェケースがあるはずだ。それを、その鍵で開けてきてくれ」
男は、ナイフにぶら下がった鍵を顎で指し示した。
ジキルは改めて鍵を見た。アタッシェケースの鍵だと言われれば、確かにそれぐらいの大きさだ。
ジキルは軽く頷くと、男に尋ねた。
「持ってくればええんか?」
「持ってこなくていい。鍵を開けてこいと言ってる」
「で、その後は?」
「後のことは、後で指示する。とにかく行ってこい!」
「…………」
ジキルはナイフの柄を口にくわえると、勢いをつけて天井板に飛び乗った。
天井裏は、真っ暗だった。ざらざらした塵が指にまとわりついた。
ジャーマングレーのスーツがホコリだらけになることを予想して、ジキルは少々気が沈んだ。
四つん這いになって進み、ズボンのポケットから小さな黒いホルスターを取り出す。
中には、白色LED使用のミニライトがおさめられている。掌に隠れるサイズだ。
電源を入れ、前面を照らすと、すぐにアタッシェケースらしき物体が見つかった。
「鍵で、開けてこい……か」
アタッシェケースを持ってこい、ではなく、鍵で開けてこいというのが気にかかった。開けた後にどうしろ、という指示はない。
ジキルは天井裏を膝で歩き、徐々にアタッシェケースに近付いて行った。
やがて、そこに辿り着いたジキルは、ライトを当ててしげしげと目標物を眺めた。
外見は、どこも変わった様子はない。どこにでもある、アルミ製のアタッシェケースだ。
ジキルはしばらくの間考えていたが、やがて思い立ったように、眼帯の紐にミニライトを挟んで固定した。
そして両手でアタッシェケースをゆっくりと回し、底の部分を見た。真鍮の蝶番が二つ並んでいる。
ジキルはそっと蝶番を摘み、左右に軽く動かしてみた。僅かにネジが緩んでいる。
「なるほど……」
ジキルはにやりと笑って、蝶番のネジを回して外した。
いとも簡単に蝶番が取れて、数センチ蓋を持ち上げることができた。
同時に、開いた箇所から赤と青の細い線が外に飛び出してきた。
それは、電気回路を構成するための導線だった。
「ブービートラップや」
ジキルはナイフの先で導線を切り、強く引っ張った。四角い電池がゴロンと転がり落ち、仕掛けを構築していた導線と釘が一緒に引きずり出された。
不用意にアタッシェケースの鍵を開けると、爆発する仕組みになっていたのだ。
鍵穴に鍵を差し込んでシリンダーを回すことにより、火薬に繋がった導線が着火するように電気回路が組まれていた。
火薬の量によっては、両手の指が吹っ飛ぶ可能性もある。
開封すると爆発する小包爆弾なども、この仕組みを利用したものが多い。
電球のフィラメントと電池、花火の火薬などを利用すれば、素人でも制作することができる爆弾だ。
ジキルはアタッシェケースの内部を照らして確認すると、鍵穴に鍵を差し込んで回した。
何も起こらずに鍵は開き、蓋を持ち上げることができた。
中には、火薬を詰めた袋状のものが二つと、鉄板でガードされた札束が入っていた。
このようなブービートラップの場合、仕掛けた本人も開けられなくなってしまう。
そのため、開ける場所は別に用意しておくのが一般的な方法だ。
今回のように、アタッシェケースの底を開けてトラップを解除するというのは、もっとも初歩的な手口だった。
侵入男は、この場所にアタッシェケースがあることを知っていた。
しかしホコリの積もり方を見ても、かなり長い間、置きっ放しのように思えた。
この校舎は新築である。僅か数年前に建て直されたばかりだと聞いた。
おそらく男は、この校舎が工事中の時、天井裏にアタッシェケースを隠したのだ。
いや、正確には彼が隠したのではない。
なぜなら、男はこのトラップを外すことができなかったからだ。
だからこそ他人を利用して鍵を開けさせようと企んだのである。
大人と子供、一人ずつの人質が必要だった理由は、そこにあったのだ。
「おーい。まだ見つからないのか?」
遠くから男の声が響いた。大声を張り上げている。
男は音楽室の外に避難しているようだ。そして、天井裏が爆発するのを待っている。
「暗くてようわからんので……。もうちょっと待ってェな!」
「時間稼ぎをしようったって無駄だぞ!」
「わかってますがな」
ジキルはアタッシェケースを持って引きずり、登ってきた穴の付近まで移動した。
穴から下を覗いて音楽室を見渡す。男と人質の姿はなかった。廊下に出ているのは間違いないようだ。
ユリのことが気になった。が、ジキルが男の言う通りに行動している限り、傷つけられることはないだろう。
それならば、とジキルは、おもむろにスーツの内ポケットに手を突っ込んだ。
男が望むような展開にしてやらなければ、彼自身、天井裏から降りられない。
「よっしゃ。ほな、爆発させるか」
ジキルがポケットから取り出したのは、手榴弾だった。
現在、米軍で使用されているMK3A2攻撃手榴弾である。爆風と衝撃波によって敵を攻撃するタイプの物で、有効半径は2メートルだ。
ジキルは天井裏の、もっとも遠くの方へ狙いを定めた。
取引先の希望が破片手榴弾でなかったことを、ジキルは感謝した。破片手榴弾の殺傷半径は15メートル。破片が飛散する最大距離は230メートルである。そんなものを爆発させたら、いくらボディアーマーを着込んでいるとは言え、自分もただでは済まない。
ジキルは深呼吸を一度行うと、手榴弾の安全ピンを抜き、転がすように放り投げた。
そしてアタッシェケースの上に覆いかぶさり、耳を塞いで頭を防御した。
円筒状の手榴弾はゴロゴロと転がり、数秒後、凄まじい轟音と共に炸裂した。
激しい爆風が天井裏を吹き抜けた。伏せていたジキルを吹き飛ばしそうな勢いだった。
「うわあああぁぁーっ!」
爆音と同時に、ジキルはわざと悲鳴を上げた。
細かい粉塵が狭い空間を舞い踊る。予想以上に大きな衝撃波だった。
しばらくしてジキルが目を開けると、天井裏は下から光が差し込んでいた。手榴弾が爆発した場所に、大きな穴が空いている。
「おーい、生きてるかー?」
男の声がする。今の爆発がアタッシェケースの爆弾によるものだと信じ込んでいる。
ジキルは迫真の演技でうめき声を上げながら、天井裏でのたうち回ってみせた。
「よしよし、今行くからな」
男の声が近くなる。グランドピアノに登っているのだろう。
ジキルは体勢を整え、穴から男の頭が飛び出す瞬間を待った。
そして、男の頭がぴょこんと覗いた瞬間、左腕をその首に巻き付けた。
「なっ、何しやがる!」
男は両手でジキルの腕を強く掴んだ。
それをものともせず、ジキルは右腕をその上から被せ、強く締め付けた。
男の首がジキルの腕で圧迫される。不安定な姿勢で、男は暴れた。
ジキルは両腕でがっちりと男の顎を支え、力任せに上に引き上げた。
蛙のような声を上げ、男は目を剥いて苦しんだ。
そのままギリギリと男の首を締め上げ、一気に上に引きずり上げる。
急に男の体重が重くなった。グランドピアノから両足が離れたのだろう。
男はしばらくの間暴れていたが、やがて意識を失い、ぐったりと吊られた。
死なない程度に首を締めて失神させることなど、ジキルには朝飯前だった。
ユーゴスラビアで似たようなことを行ったのを思い出す。コソボ紛争の頃の話だ。
ジキルは男を天井裏に置き去りにすると、穴から下へ飛び下りた。
走って音楽室を出る。階段の手すりにユリの姿があった。ロープで手すりに縛り付けられている。
ジキルは駆け寄って、ナイフでロープを切った。そして、
「もう安心やで。よう頑張ったなぁ」
と、ユリを抱き上げ、頭を撫でた。
ユリはしばらく茫然自失した後、突如スイッチが入ったかのように大声で泣きじゃくり始めた。
「うわぁ〜ん。オジちゃ〜ん!」
「オジ……。……。……。……まあ、ええか」
ジキルはしがみついてくるユリをしっかりと抱いて、階段を駆け降りた。
ようやくパトカーのサイレンが聞こえてきた。
警察に説明しなければならないことは山ほどあったが、取りあえずジキルは大きく息をついた。
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ブービートラップ-04へ続く
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