粉末の煎茶をスプーンで湯呑みに入れ、ポットの湯を注いだ俺は、ちらりと壁の時計を見た。時計の針は、午前11時を回ったところだった。
「お腹すいたなー」
呟きながらスプーンで煎茶をかき混ぜ、湯呑みを持ってリビングへ移動する。
石黒が起きてくる気配はまったくない。
『11時までに起きて来なかったら、叩き起こせよ』
なんて、昨日言って寝たけど……。
とても疲れているようだったので、まだ熟睡しているんだろう。
俺はソファに座り、煎茶を一口飲むと、テーブルの上に湯呑みをコトンと置いた。
今日は俺は出掛けるのが午後でいいから、一緒に朝食をとろうと、寝る前に石黒を誘った。それがだいたい4時頃だったろうか。
そこからもう7時間も経ってるし……声かけてみてもいいかな。
でも、リビングで話して、部屋に戻った石黒が何時に寝たかわからないし……。
しかしモタモタしていたら、昼になってしまう。
数時間とは言え、久しぶりに一緒に過ごせるんだから、ちょっとでも長い時間、顔を見ていたい。
迷ったが俺は、少しだけ様子を見に行くことにした。
リビングを出て廊下を歩き、石黒の部屋へ行く。
一緒に暮らし始めた頃は、彼は自分の部屋に鍵をかける癖があった。
しかし一時期、なぜかひどい悪夢にうなされ続けていたことがあって、その時に俺が頼んだのだ。そういう時はすぐに起こしに行くから、ドアを開けておいてくれと。
石黒は最初は渋った。しかし最終的には俺の気持ちを汲んで、鍵をかけるのをやめてくれた。
もっとも、俺と彼の部屋は離れているから、基本的には声は聞こえないんだけど。
でも、気持ちの問題だ。石黒は時々すごい苦しそうに呼吸をしていることもあるし……それは高校時代からなのだが……放っておけない。鍵なんかかけられていたら、ルームメイトとして困る。
ドアの前に立ち、耳をそばだててみる。何も聞こえなかった。
「石黒……入るよ」
小声でそう言いながら、俺はそっとドアを開けた。
カーテンが閉まっていて薄暗い部屋。相変わらず、お世辞にも片付いているとは言えない。
石黒は不思議なところがあって、他人との共用スペースはとても清潔に保とうとする。キッチンも風呂もトイレも、いつもきれいに使う。カビなんて、とても神経質に取る。
そのくせ、自分の部屋はあまり掃除をしない。もともと持っている物が少ないので散らかることはないが、決して片付いてはいない。
ベッドで寝ている石黒に、俺はそっと近づいた。気配で目を覚ましてくれたらいいと思いつつ、そばに寄って顔を覗き込む。
まるで死んだように静かに眠っている。無防備な寝顔がちょっと可愛かった。
こうして見ると、あまり高校時代から歳を取っていないみたいな気がする。
あの頃に比べて、目つきも悪くなったし、笑わなくなった石黒だけど……こうして目を閉じていると、表情はとても柔らかい。
「い、し、ぐ、ろ」
囁くように、声をかけてみた。まったく返事がない。
かなり熟睡している。起こすのが可哀想なぐらいだ。
でもこのまま起こさなかったら、きっと後で怒る。怒るに決まってる。絶対怒る。だからもう一度、声をかけてみる。
「石黒。いーしーぐーろっ」
「……ん…」
僅かに瞼が動いた。十年前から思っていることなのだが、本当に眉と目の幅が狭い顔だ。
石黒は一度だけ深く呼吸をすると、寝返りをうった。俺がいる側に背を向けてしまった形である。
「石黒、11時だよ」
「……」
「起こせって言ったくせに」
「……」
聞こえていないみたいだ。困った……。
このまま寝かせておこうか。彼はいつも疲れたような感じで、顔色も悪い。食事もちゃんとしていないから、栄養が偏っているのは間違いない。煙草も吸いすぎだと思う。睡眠ぐらいしっかりとった方が健康にはいい。
しかしこのパターンで俺がそんなふうに気を遣うと、彼は後でマジギレする!
機嫌が悪くなると、しばらく口きいてくれないし。俺としても、不毛な喧嘩は避けたいところだ。
ここは何としても起こさなければならない。他に選択肢はないのだ。
俺は彼の肩に手を置いて、少し揺さぶってみた。が、状況は何も変わらない。
もーう! こうなったら最後の手段だ。起きない石黒が悪いんだからな。
「石黒ってば」
俺は掛け布団を持ち上げて、ベッドの空いているスペースに滑り込み、寄り添うように寝転んだ。そのまま彼の背中にピタッと密着してみる。
長い髪が枕に横たわっている。いい匂いだな……なんて、ちょっと思ってしまう。首も細いし、こうやって後ろから見ていると女性みたいだ。
「起きてよー。お腹すいたよー」
言いながら、顎でギューッと肩のあたりを押す。
「んぁ」
微かに声が漏れた。どうやらマッサージ効果で気持ちがいいらしい。姿勢が悪いから、こんなに肩が凝るんだよ、まったく。
俺はしばらくそうやって、くっつきながら顎で攻撃したり、頭突きをしたり、髪を引っ張ったりしてみた。
「いーしーぐーろってばーっ」
「……ん…」
不意に石黒の左腕が動いた。右側を下にして寝ているから、上になっている方の腕だ。ゆっくりと手が伸びてきて、ぽんと俺の太腿のあたりに乗っかる。
ちょっ……と、ヤバいかも……。
こうなることはある種、わかっていたけど。
いざとなると、心臓が激しく高鳴る。ふざけているだけなのに、どうしてこんなにドキドキするんだろう……。
石黒は、円を描くように俺の太腿を撫でると、だるそうな声で、
「勃っちまうだろ……」
と、言った。
ど、どういう認識をしているんだろう? 俺を誰かと間違えているのかな?
俺がこんな悪ふざけをしたら、びっくりしてすぐ飛び起きてくれると思ったんだけど……。石黒は寝ぼけながらも、まだ寝息を立てている。
指に時々力が入り、俺の太腿を揉むように怪しげな動きをする。だんだん、撫で回す範囲が広くなってきた。
俺が、このままでいたら……もっと、先へ進んでしまうのかな。
それでいいと思っている俺と、絶対にだめだと思っている俺がいる。
石黒を我慢させてしまっているのは俺のためらいだ。それなのに、こんなふうに挑発したら、彼を傷つけることになる。でも……。
もう、いいんじゃないかな……とも考える。そろそろ、そういう関係になったとしても……おかしくないんじゃ……。
「…あ……」
絞り出すように、声を出してみる。今なら言える。
「あ…愛、……して…、……る」
「ん……。俺もだ。……好きだよ……」
石黒がゴロッと寝返りを打つように、真っ直ぐにこっちを向いた。上になった右腕を俺の背に回し、グッと引き寄せる。目は閉じたままだ。
俺は呼吸を止めたまま、凍ったように動けなくなってしまった。
そうしていたのは、僅か7秒ぐらいだっただろうか。
「……」
俺の目の前で、石黒がうっすらと目を開けた。
「……あ、……」
どんな顔をしていいのかわからない。とりあえず曖昧に笑ってみた。
石黒は目を据わらせたまま、無言でいる。
「……」
「……お、おはよ」
「りゅ…っ」
石黒の口からその一言が発せられたのと、石黒の両目が大きく見開かれたのと、石黒がガバッと飛び起きたのと、どれが最初だったのかわからない。
「おま…! …ど、どうして……あっ、あ、ご、ごめんっ! 俺、あの、何か……その、し、しし、しなかったか」
ベッドの反対側の方へ身を寄せて、掛け布団で下半身を覆いつつ、慌てた様子で石黒がまくし立てた。
俺は転がり落ちるようにベッドから降り、ぶんぶんと何度も首を振った。
「ううん。今、起こしに来たとこ」
「ごめん、俺、寝ぼけてて……ゆ、夢かと……」
「何もなかったよ。大丈夫!」
「……」
石黒は片手で顔を覆い、大きく息を吐きながら項垂れた。
ひょっとして……一方的に自分が悪いと思ってるんだろうか。それは違うんだけど…。
「あ、あのね違うんだよ石黒。俺が……」
「いや…、いい。すまない。お…起きるよ」
「う…うん、でも、あのね、えぇと……謝るのは俺のほうで……」
「ご」
「…え?」
「5分。……したら行く。5分…あれば、いや、その、いくから」
「あ……、わかった。じゃ、ごはんの支度してるね」
俺は急いで踵を返し、部屋を出ると、しっかりとドアを閉めた。
心臓がものすごい勢いで飛び跳ねているようだ。何度も息を吸っては吐き、気持ちを落ち着かせる。
悪いことしちゃったな……勘違いさせてしまったようだ。どう説明すればいいだろう。
(言えないよ……寝顔見てたら、抱き締めたくなっちゃったなんて……)
はあ……と、溜め息をつく。
石黒の気持ちを弄んでいるような状況になってしまっている。そのことは充分わかってる。申し訳ない……本当に、心から申し訳ないよ。
それでも俺だって、時々はこういう気持ちになったりするのだ……。
ああ、もう! どうすればいいかわからない。
俺は未だに、どっちにも転べるような感覚で毎日を過ごしている。
石黒さえその気になったら、迷う必要はないはずなのに……なんて、また責任転嫁してる。ああーーっ!!
今日は、なんとなく気まずい朝食になりそうな気がした。
(了)
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