渋谷区内のタワーマンションの最上階に、日向夏樹は従兄と一緒に住んでいた。
今日はライブの打ち合わせとリハーサルを終えて、ついさっき帰宅した。すでに零時を回っている。
リビングのソファに寝転がり、ボーッと天井を見つめながら、夏樹はどうやってTakahiroを引っ張り出そうか、ずっと考えていた。何度電話してもTakahiroは出ない。弾に頼んでも無駄だった。弾の話では、HAYATOも連絡を取れずに怒っているという。
留守番電話サービスに毎日メッセージを入れている。しかし返事はなかった。他に彼と親しい人も見つからず、夏樹はほとほと困り果てていた。所属事務所のスタッフも、マネージャーすら連絡が取れないという。
住んでいるマンションはわかっているが、オートロックのため建物の中に入ることができない。もちろん他の住人に紛れて入ることは可能である。が、ドアの前まで行ったところで開けてもらえなければ意味がない。
そもそも、マンションの中にいるのかどうかもわからなかった。どこか別のところで寝泊まりしているのかもしれない。しかしそうだとしても、こちらが会いたがっていることは伝わっているはずである。
(ふぅ……。困っちゃったなあ……)
ある意味、Takahiroの頑固さは筋金入りだ。インディーズ時代はそんなふうには見えなかった。当時は秋田から上京してきたばかりで訛りも抜けておらず、そのことで人に笑われないようにゆっくりと丁寧に喋っていた印象がある。HAYATOには絶対に逆らえなかった彼が、今はHAYATOからの連絡も無視し続けている。
(なんとか説得していくしかないけど……)
夏樹はDark Legend時代のことを思い出しながら、なんとかTakahiroと確実に繋がる方法はないか思考を巡らせた。……とはいえ、もう何年も前の話であるから、例えば行きつけの店などがあっても、まだ通っているかどうかわからない。真面目で義理堅い彼の人柄を考えれば、どこかに糸口が見つかりそうなものだが……。
津村に相談してみることも考えた。しかし、なんでもかんでも頼るわけにはいかない。それに、自分以上にHAYATOのことを憎んでいる津村は、HAYATOの側についているTakahiroのことも同じように見ている可能性がある。
『もし、三島隼人が私との約束を破ったのなら、その時は、こちらで落とし前をつけますよ』
津村が一瞬夏樹に見せた、獣じみた怒りの表情を思い出す。全身が刃物であるかのようなあの迫力に気圧されてしまった。普段は優しそうに見えるだけに、本当に怒った時が恐ろしかった。
津村はかつて数馬のパトロンだった男である。大学時代、洋風居酒屋でアルバイトをしていた数馬を見初め、数年間にわたって金銭的に彼を援助していたと夏樹は聞いている。
インディーズバンドのライブには、ライブハウスのレンタル料金というものが発生する。そのためにチケットを売って、その料金に充てる。
人気が出てからのDark Legendのチケットは、発売後すぐに売り切れるほどであったが、初期の頃は数枚売るのにも苦労したらしい。交友関係の狭い数馬がチケットノルマ分を支払うことができたのは、津村の力が大きかったはずだ。
(僕はまだ高校生だったから、あまり協力できなかったけど……。バイトが一緒だった咲也さんはわりと買わされてたなぁ。でも、今思えばあれって……大学の中ではノブさんがチケット売れるように、自分は外で売ってたってことだったんだろうなぁ……。あれからもう七年かぁ……楽しかったなぁ、あの頃……)
七年前、初めて友人と出会った時のことが、まるで昨日のことのように鮮やかに脳裏によみがえった。
――こんにちは。今日のライブも、すっごいよかったです!
――おっ、ボクちゃんそれ軍服じゃん? かっこいいね~。
――いえ! ベースのあの方の服のほうが高いし……貴重なものなんですよ!
――へえ……高いとか貴重とか……そういうのあるんだ……。
――もちろんです。これ本物の米軍の放出品ですから! あれもたぶん本物でしょ?
――どうだろう? ちょっとKazuma、この子がお前の服のこと聞いてるけど……?
ヴォーカリスト、ドラマー、ギタリストが順番に夏樹の相手をしてくれた。ベーシストだけは興味がなさそうに機材の後片付けをしていたが、名前を呼ばれるとチラッと夏樹の顔と着ている服を見て、呟くように言った。
――同類だな。
それが、Kazumaこと石黒数馬が初めて夏樹にかけた一言だった。
ミリタリー趣味のことを言ったのか、混血であることが一目でわかる髪や瞳の色を見て言ったのか、それ以外の何かを見透かして言ったのか、その時の夏樹には見当がつかなかった。
夏樹は足繁くライブに通い、そのうちライブの後に打ち上げにも呼ばれるようになった。当時はまだ未成年だったので居酒屋について行くことはできず、食事だけでバンドメンバーとは別れることが多かった。
いつしか、夏樹と一緒にKazumaも食事だけで切り上げることが増えた。人気が出てきて、ファンの女性たちが多く参加するようになった頃だった。
――女は苦手なんだ。
そう言って、Kazumaは夏樹と一緒に打ち上げの場から逃げるようになった。
そんな形で行動を共にすることが増えた二人がライブ会場以外の場所でも頻繁に会うようになるまで、さほど時間はかからなかった。
海外の俳優のように整った顔をしているにも関わらず、Kazumaは目立つことが嫌いで控えめな男だった。常に人より一歩、後ろに下がろうとする。ベースの演奏技術の高さはもちろん、奏法もスタイリッシュで華があり、作る曲もクオリティの高いものだった。それでも自己主張することなく、ライブではうまく他のメンバーを引き立てるKazumaに、夏樹は次第に大きな憧れを抱くようになっていた。
ライブハウスで見た軍服に関しては、本人の意思ではなく、ヴォーカリストのHAYATOに強引にせがまれたから仕方なく着用しているとのことだった。本物でしょ、と夏樹が興味を示すと、レプリカに決まってるだろ、ととぼけた。
夏樹が実はアイドルとしてデビューしていることを知っても、Kazumaは特に態度を変えなかった。それも夏樹にとっては嬉しかった。
当時の夏樹にとって、Kazumaと過ごす時間はかけがえのないものになった。
彼への思いはどんどん膨れ上がり、やがて夏樹にあることを決意させるほどに強くなっていた。
*
それは、夏樹と数馬が知り合って、数ヶ月経った時のことだった。年齢は離れていたが、二人はすでに友達と言っていいほどの間柄になっていた。
客の少ない喫茶店の隅の席でアイスコーヒーを飲みながら、夏樹が口を開く。
「ねえ、数馬さん。今日は僕、お願いがあるの」
「何だよ、改まって」
「あのね、その前に約束して欲しいんだ。断ってくれても全然構わないんだけど、僕を嫌いにならないで」
「おかしなこと言う奴だな……普通、いきなり人を嫌いになるなんてこと、ないだろ」
「じゃあ言うよ。……僕ね、数馬さんとセックスしたいの」
「……」
あの瞬間の数馬の表情を、夏樹ははっきりと覚えている。驚いたような困ったような、しかしどこか色気のある印象だった。
夏樹はすぐに言葉を続けた。次の言葉を伝えなければ、何の意味もなかったからだ。
「今、数馬さんが思ったようなセックスじゃなくて、たぶん逆。僕が数馬さんを抱きたいの」
その時、一瞬でその場の空気が変わった。
初めて数馬が夏樹に警戒心を持った。テーブルの上に肘をつくことを止め、身を引いて僅かに眉根を寄せる。
「ダメならこの話は忘れて。でも、最初の約束。僕を嫌いにならないでね」
それだけ言い切って、夏樹はアイスコーヒーをストローでかき混ぜた。氷がガチャガチャと騒々しい音を立てた。
その氷の音に被せるように、数馬はゆっくりと夏樹に尋ねてきた。
「どうして……俺が俺のしたいようにしたらいけないんだ?」
「どういうこと?」
「俺がお前を抱くのは、なぜいけないんだってことだよ」
「そこが重要だから」
「重要?」
数馬の片眉がクッと上がった。夏樹の好きな表情だった。
夏樹は声をひそめ、静かに話し始めた。
「僕ね……近々、ゲイの人の相手をしなくちゃいけなくなったんだよ。テレビ局の偉い人でさ、断れないんだよね」
「……」
腕組みをして、じっと夏樹の顔を凝視する数馬。
「そんでさ、自分の好きなプレイに応じてくれたら、レギュラー持たせてくれるんだって。そう言われて、マネージャーのゆかりさんが勝手にOKしちゃった……日向夏樹はどんな変態プレイでもしますってさ」
数馬は黙って夏樹の話に耳を傾けてくれた。その沈黙がなぜか有り難かったのを夏樹は覚えている。
「僕、男の人とは経験ないから恐いんだよ。でも絶対に逆らえない。逃げられないんだ。だから……その前に経験したいの。初めてが枕営業だなんていやだ。しかも、相手のいいようにされるだけなんて絶対にいやだ。するなら僕の意志で、男の人とセックスしたい。僕が好きな人を男として抱かないとダメなんだ。それなら数馬さんがいい。数馬さんしか抱きたくない。よく考えた。そう決めた。お願いだから、わがまま聞いて欲しいんだ」
そう言ってテーブルに両手をつき、身を乗り出した。その時の自分は過去最大に悲壮感あふれる顔をしていたのではないかと夏樹は思う。
数馬はしばらくの間、無言のままだった。NOとは口にしないが気持ちの上で拒絶していることはすぐにわかった。それでも夏樹は待った。ほんの数分間が、何時間にも感じられた。
やがて数馬はアイスコーヒーが入った銅製のタンブラーを手で持ち上げ、一口含むと、
「わかった……と、言いたいところなんだが……」
と、低い声を絞り出した。
彼の表情で充分にその答えは予測できていたため、夏樹は諦めることができた。
「やっぱりダメかぁ。ははっ……当然だよね……。……ごめん、数馬さん!」
憧れの数馬との関係を壊してしまうのは嫌だった。ライブハウスに行かれなくなるような雰囲気を作り出すつもりはなかった。今まで通りでいたかった。
落胆した夏樹を救ったのは、直後の数馬の言葉だった。
「いや……違う。お前とそうなるのは構わない。ただ……」
彼はそう言って視線を逸らした。逸らしたまま、タンブラーの表面に指先を滑らせ水滴を弄ぶ。そして、少し苦しそうに続けた。
「ただ、俺は……自信がないんだ」
「自信?」
「抱かれる自信が……ない」
数馬はその理由を話し終えるまでに、かなりの時間を要した。
「いやな思い出が……体に刻み込まれてる。だから……はっきり言って俺は恐いんだ。自分の体に他人が触れて、何かすることが恐い。普段、誰かを抱いてても……俺がしてやる分には平気なんだが……相手が俺に何かしようとすると急に……恐くなる。それが愛情でも奉仕でも……俺の体はそれを攻撃だと見なしてしまう……」
呼吸が苦しそうな喋り方だった。必死で取り乱すまいと努力しているようにさえ見えた。
夏樹はどう応えていいのかわからなかった。断られているのなら諦める。しかしそうでないのなら、どう対処すればいいのか……まだ高校生の夏樹には、そこまでの柔軟性はなかった。
数馬が自分に何を求めているのか、はっきりとわかったのは、次の言葉を聞いた時だった。
「でも夏樹、お前なら……俺を解き放ってくれそうな気がする……」
それが、数馬の下した決断だった。夏樹が話を持ちかけた時から、かなり時間が経っていた。アイスコーヒーの氷はすべて溶けていた。
そして夏樹はその晩、自分の部屋に招いた彼を、抱いた。
数馬は身を硬くして、ずっと腕で顔を隠していた。
前戯さえ嫌がり、夏樹に敵意の目を向けた。何度も舌打ちをして、悔しそうに拳を握り締めていた。華奢で敏感な体だった。軽く指先を滑らせるだけで彼は反応し、同時に憤った。
数馬にとって、他者から与えられる刺激は、ひどく怒りを誘発するもののようだった……たとえそれが愛撫であるとしても。
体に刻み込まれてる、と彼が言った出来事が虐待もしくは暴力による性的な支配であったことは容易に想像ができた。数馬は震えながら屈辱に歯を食いしばっていた。
やめようか……何度、夏樹はそう思ったことだろう。
しかし今やめたら、数馬に恥をかかせることになる。心に傷を抱えながらも、彼は夏樹のために身を差し出してくれたのだ。その気持ちに報いたい……そう夏樹は思った。
「大好き。だから安心して。大好きだから、安心して」
何十回もそう言った。うるせェな、わかったよ……数馬にそう罵倒されても、夏樹は同じ言葉を言い続けた。愛していると。僕はあなたを傷つけないからと。
夏樹が自分の思いのすべてを彼の体内に注ぎ込んだ時、数馬は小さく悲鳴をあげて、何か短い言葉を呟いた。それはドイツ語であったので夏樹には意味がわからなかったが、決して快美感を表す言葉ではなかったように思う。そもそも、数馬は勃起しなかった。
「ありがとう、数馬さん。僕、これで前に進めるよ。本当にありがとう」
思いを遂げた夏樹は、そう言って数馬を抱き締め、朝までその細い体を放さなかった。
夏樹はそれっきりのつもりでいた。数馬が苦しむことを続けたくはなかった。一度だけの思い出にするつもりだった。
しかし、数馬は違った。
「抱かれてやるよ」
そう言って会うたびに夏樹を誘ってきた。二人はその後も体を重ねた。そのことにより数馬の精神状態が不安定になることもあった。セックスの後にまどろんだ数馬が悪夢でうなされたことも一度や二度ではない。
バンドが解散してからは、夏樹以外の男にも頻繁に抱かれるようになった。金さえもらえばバイトみたいなもんだ、と数馬は投げやりに言った。別の楽しみを見つけたんだ、とも言った。好きにやらせてやって、後で仕返しするのさ。……夏樹に対してだけは、その遊びを仕掛けてくることはなかったが。
彼の体が快楽を得られるようになるまでには長い時間が必要だったが、やがて努力は実を結んだ。大切な友人は辛い記憶を乗り越えることができたのである。
*
「……………………」
昔の思い出に浸る夏樹の横で、コトン、と音がした。テーブルに湯呑みが置かれている。マネージャーがお茶をいれてくれたのだ。熱いのを冷まそうと、表面をフーフーと軽く吹いている。
夏樹は起き上がり、マネージャーに向かって両手を大きく広げた。
「アキちゃん……抱っこして」
従兄でもあるマネージャーはソファに腰を下ろすと、夏樹の肩に手を回して優しく抱き寄せた。昭文だからアキちゃん。夏樹には幼い頃からそう呼ばれている。
夏樹は従兄の温かい体温に触れて、その肩に頭を乗せると、ほうっと安心したように吐息を漏らした。
「はあ……。僕はどうしてこんなに数馬が好きなんだろ……不思議だよね。だって向こうはけっこー冷たくて、あんまり僕のこと構ってくれないのにさ……。扱い、雑だし! いつも竜児さんのことばっかりでさ……。まあ、いいんだよ別に。竜児さんのことは僕も大好きだからさ。だいたい、数馬なんかより僕のほうが昔から竜児さんをテレビで見て知ってるっていうんだよ! 最初からファンだっちゅーの。まったくさ……」
数馬とずっと恋人のように暮らしたいと思っていた時期もある。しかし、彼はそれを望まず、夏樹の元から去った。
『もうお前と関わるつもりはねェんだよ』
喧嘩をしたわけでもないのに、数馬はそう言って自分から逃げ続けた。
それなのに、初代マネージャーであり前事務所の社長であった津村ゆかりが数馬の弱みを盾に取って脅した時、数馬はまるでちょっとそのへんまで煙草を買いに行っただけ、というような顔をして、夏樹のそばへ戻ってきた。
『このまま一生、僕のそばにいてよ』
試しにそう言ってみたら、迷いもせずに数馬は、
『いいよ』
と、以前とは異なる答えを口にした。その時、夏樹は心の底から敗北を認めた。
(……まあ、でも、結果オーライだよね。数馬は僕のこと甘やかしてくれないもん)
密着する温もりに頬ずりしながら夏樹は思う。このままの関係がいい。数馬との距離はこれぐらいでちょうどいいのだ。
それは数馬が竜児を失いたくないために体の関係を持つことをしないのと、少し似ているのかもしれなかった。
夏樹は正面から昭文の膝に乗っかり、ギュッと抱き締める。
「でもさ……僕と遊ぶと楽しいから居心地が悪いとか言って、逃げたり裏切ったりしたくせにさ……ホントに大事な時には、竜児さんより、憲治さんより、僕のことを頼りにしてくれたりしてさ……何か、もう全面的に丸投げでさ……何から何までぜーんぶ僕のこと信用してるってゆーかさ……だから……僕は……あーもうっ! なーんか悔しいなぁっ!」
じたばたと暴れる夏樹の肩をポンポンと叩く手。ゆっくりと頭を撫でる手。昭文の手の存在が夏樹には有り難かった。そうやって気持ちが高ぶるのをいつも抑えてくれる。
「悔しいよぉ……でも、どうしようもないんだよね。好きだからね。だから、いいんだ。僕は決めたの。数馬が僕を必要としてくれる時は、何が何でも駆けつけて力を貸すって! 数馬が困ってるなら助けてあげるの。数馬を傷つける人は許さないの。僕はそういう形であの人を愛するって決めた。だって、約束したんだもん。僕は絶対にあなたを傷つけないって。約束したから!」
それがすべてだった。夏樹は数馬に対し、そうする責任があると思っていた。
「僕は、あの頃の数馬にとって最も辛いであろうことを強制しちゃったんだ。数馬にとっては毎回が拷問みたいなものだったと思う。それを耐え続けてくれた。僕のために。まあ、それを言うと本人は否定するけどね。俺はお前を利用してトラウマを克服しただけだ、とか言って。でも、それはそれ。僕には責任がある」
そう言うと夏樹は昭文の膝の上から降りて、立ち上がった。
そのままゆっくりと窓辺に向かい、カーテンを開ける。東京の夜景が眼下に広がった。
(これは贖罪だよ。いろんなことのね……)
カラフルな光の海を見下ろしながら、夏樹は大きく息を吸い込み、力強く吐いた。
その時、スマホがメッセージの着信を告げた。マネージャーがテーブルの上のスマホを手に取り、立っている夏樹に渡してくる。
「弾さんからだ。……えっ! HAYATOの部屋に竜児さんが連れ込まれたらしいって……」
HAYATOの部屋には盗聴器を仕掛けてある。数日前、住人が留守の時を狙って侵入し、取り付けたものだ。夏樹はその場にいなかったが、報告だけは受けている。
傍受はHAYATOのマンションの隣のビルの一室で行っていた。津村の指示で柳川が部下にやらせている。時折、弾が立ち寄って情報をチェックしてくれていた。
「胸騒ぎがするから弾さんが行くって言ってくれてる。アキちゃん、僕も行くよ!」
そう言って夏樹がソファに視線を向けると、すでにそこに昭文の姿はなかった。車のキーを手に、玄関で夏樹を待っている。
「急ごうっ! イヤな予感しかしないよっ」
夏樹は軽やかな仕草でリビングから飛び出すと、グリーンのベレー帽だけをきちんと被った。着用しているのは本人的には部屋着だったが、他者から見たらいつも外で見るものと変わらない。
ジャングルブーツに足を突っ込んで、夏樹は紐も結ばずに外へ出た。車の中で結べばいい。昭文と二人で地下の駐車場に急ぐ。
「アキちゃん、僕ね……。あいつが竜児さんのことまで傷つけたら、おとなしくしてる自信がないよ。今だってずいぶん我慢してるんだ。でも、ホント、これ以上、僕の大切な人たちをいじめるなら……もう、絶対に許さないよ……!」
エレベーターの中で夏樹は溜め息混じりにそう言った。
この時、すでに彼は考えていた。目の前が緋色に染まる、結末を。
(了)
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